表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/21

十四羽




「主! 霙いた──!」


 弾かれたように振り向いた先で、霰の姿が消えた。二葉が樹の上に跳ね飛んだ事で霰も上と知る。何かがぶつかる音と、しゅーという掠れた音が響く。

 視界を覆う落ち葉を払い、目を細める。毛虫が落ちてきたらどうしよう。色んな意味でドキドキしていると、危惧していたより明らかに大きい物体が落ちてきた。慌てて両手を広げて受け止める。腰と肩と膝に来た。


「霰、大丈夫!?」


 額と頬っぺたに傷がある。驚いた拍子にか、洋服が着物に戻っている。子どもはぶるぶると頭を振って凛を見るや否や、ぱっと顔を輝かせた。


「お凛だ――! 霙も栗饅頭すごく好むの!」

「……ん?」

「主だ――! 主、主! 褒めてほしいの! 霙、転んでも泣かなかったの! えらいの!」


 よく見れば顔の模様が左右反対だ。二葉も帰ってこない。代わりに現れたのは大量の蜘蛛だ。大木に背をつけ、霙を足の後ろに追いやる。受け止める拍子に投げ捨てた刀を拾いなおせた自分を褒めてやりたい。


 蜘蛛は、しゅーしゅーと糸をちらつかせて威嚇している。二葉より大きな蜘蛛から小さな蜘蛛まで、色とりどりのより取り見取りだ。掴み取りは絶対しないぞと一人ごちる。

 頭上の葉がやけに落ちてくる。視線を外せない為に確認できないでいた樹上から、二葉と霰が落ちてきた。大きい双葉の腹の下に守られる形に納まる。地にめり込む足は身を守る檻のようだった。


「……なつかしや。お前さまの匂いがする」


 何百匹もいるだろう蜘蛛の群れが二つに割れる。色鮮やかな着物を羽織った艶やかな女が姿を現した。結い上げた髪に刺さる簪がしゃらりと音をたてる。真っ赤な唇がやけに色っぽい。女は美しく、男ならば術に罹らずとも振るいつきたくなるほど妖艶だった。例え同性であっても見惚れてしまう。しかし凛の身を走り抜けたのは警戒と恐怖だ。女の正体を知っている人間ならば当然の反応だった。


「四つ辻、女郎」


 ゆたりと首を傾げた女は鼻を引くつかせた。


「ああ、ああ……お前さま、なつかしや、お前さまの匂いがする」


 きちりきちりと軋む音がする。美しい女の口が裂け、真っ赤な舌がぞろりとした歯を音を立てて舐めた。ぎちぎちと肉壁が広げられる鈍い音がして、裂けた場所から目が生える。現れた目はぎょろぎょろと全方向を見回した。髪が解け、次いで女の身体が裂ける。長い足が飛び出し勢いよく樹に突き刺さり、薙ぎ倒す。何十本もの木を平然と薙ぎ倒した女は、巨大な蜘蛛となって足を広げた。

 見通しのよくなった先に、糸に吊り下がった「食事」を見つけて目を逸らした。かつて人だったそれにたかる蜘蛛を見るつもりはない。さっと視線を外して意識の端に追いやる。いま認識して脳まで情報が処理されれば、歩けなくなる。



 轟音と共に二葉が吹き飛んだ。追って数十匹の蜘蛛が飛び出していく。


「「二葉──!」」

「『馬鹿、戻れ!』」


 主導権を取り上げる為に藍の怒声は一足送れた。狛犬は手を繋いでその後を追ってしまった。

 舌打ちと同時に、凛の身体は飛び掛かってきた蜘蛛の足を刃で薙ぎ払う。緑色の血が撒き散らされた。身体が勝手に動いて転がり、二発目を避ける。音に反応して刃を前に構えれば、蜘蛛の歯とかち合った。踏ん張りきれず吹き飛ばされ背中が叩きつけられる。詰まった息を無理矢理飲み込んだ。


「『あの馬鹿共がっ!』」


 視界の端に映った糸に反応して動いているのは藍だ。凛は意識の中でそれを見ている。背にしていた大木がゆっくりと右に倒れていく。距離をとろうにも円陣を組んだ蜘蛛が足を突き出してくるのだ。触れれば、柔らかな人間の肌など簡単に突き破るだろう。

 次々と襲い掛かる糸を紙一重で避けた藍は、右手を握りしめた。右手が焼けるように熱い。

 藍は、背後から牙を向いた蜘蛛に右手を突き出した。きしゃあああと、耳に障る掠れる音を叫んだ蜘蛛は、触れた箇所から煙を放ち仰け反る。腹を見せて倒れ、全ての足を空に向けた後、動かなくなった。次いで左手から力を投げつけられた蜘蛛も、同じように断末魔を上げて焼け落ちる。


「よくもあたしの可愛い子ども達を!」


 藍は落ち葉を蹴って走り出した。二葉はよほど遠くに飛ばされたのか音も聞こえない。再度放とうとした力が霧散する。馴染んでいても使い勝手が違う。藍は舌打ちした。

「『胸が邪魔だ!』 どうしろと!? 『遠心力で振り回される』 そこまでじゃないと思うよ!? 『もぎ取れ』 無茶だよね!? 無茶ぶりするならせめて髪にしてよ! 『それは個人の自由だろうが!』 自由は尊重するの!?」


 バストアップ体操は聞いたことがあるが、バスト削減体操は知らない。喋っている間に続けて三発。叩きつけた足を強く擦らせて体を回転させ、藍は四つ辻女郎を振り返った。髪がざわりと逆立つ。じりっと距離を縮めようとしてきた蜘蛛は、再度叩きつけられた足が発した力で、見えない壁に弾かれて後ずさる。


「『どうする、四つ辻女郎。僕と争えばお前もただでは済まないぞ』」


 十メートルほど先に美しい女の姿がある。いつの間に人の姿と戻ったのか。たくさんの蜘蛛を自らよりも後ろに下げ、ぎりりと着物の裾を噛み締めている。


「祓い人をここまで通したのかい。愚図どもは何をしていたんだい! 木偶の坊どもめ!」


 藍を中心に円が広がっている。落ち葉も吹き飛ばした光の円だ。長く妖気に染まった草木も妖と動揺の妖気を発していた。

 凛は主導権を取り返した。残った藍の気配で円は保たれている。鞄の中から小ぶりな巾着に入れた青緑色の玉を取り出す。目に見えて四つ辻女郎の顔色が変わった。


「四つ辻女郎。私は八つ目大墓主から眷属が治める地の通行許可を授かっています。貴女はそれに逆らえない。狛犬を手離しなさい。私達はここから無事に出なければなりません」


 ぎりりと女の牙が唇を噛み切る。憤怒の様は般若の面を被ったようだった。女の執念そのものだ。

 凛は声が揺れぬよう気をつけて、にこりと微笑む。


「近い内に、八つ目大墓主と会えるよう、伝えておきますね」

「ほんとかえ? 本当に、あの方に会えるのかえ?」

「ええ、約束しましょう。だから、私は行かなくては」


 般若をかなぐり捨てた女は夢見る少女のようだ。裾を翻し、花びらに愛された少女の如くくるりと舞う。


「あの人に宜しく伝えておくれ。ああ、どの着物にしよう、そうだ、土産を持っていくといい」


 断る前にべちゃりと眼前に降ってきたものを見て、藍が再び主導権を奪い取る。折り重なる土産は恐らく五体分だが、腐敗しきり交じり合っていた。むせ返る腐臭に咳き込まずいられる藍は、純粋に慣れだ。仕事柄不明者の死体はこうなっていることが多い。眉を顰めるだけに留まった。

 離れた場所で光が爆発した。二葉達を追っていった蜘蛛が空から降ってくる。焼け焦げた匂いに更に眉を顰めた。

 霰と霙は対で生まれてこなかった。片方が欠ければほとんど使えない。しかし、二人揃えば何より強固な結界となる。社をたった二体だけで守る狛犬。どんな妖も防ぐ力は潜在的に持っている。使いこなせるかどうかだ。


 藍は三匹を待たずに踵を返した。

 どうせすぐに追いついてくるだろう。今は一刻も早くこの場から離れる必要がある。既に、身体の持ち主の胃の腑がひっくり返りそうなのだ。





 一頻り吐き終わり、二葉の背に乗り込んだ凛の顔色は死人より悪い。そんな凛を心配していた狛犬は揃ってお昼寝中だ。手を繋いで頭と足を逆さまに寄り添っている。太極図がこういう形だなとぼんやり思った。

 二人の目は少し腫れている。凛の手を使って藍が拳骨を落としたからだ。離れてごめんなさいなのぉ、二葉が心配だったのぉと泣きじゃくる二人に冷たい視線が落ちる。凛の顔を恐ろしがっている二人を見て、すごく複雑だった。

 水で口の中を洗い流して、ごくりと飲みこむ。


「次、どうするの? 八つ目爺は色々手を回してくれてると思うけど」

『僕の部下を回収する。とりあえず危険度の高い方から回収を急いだ。譲理がついているのなら、簡単に捕らえられはしない。少し、眠れ』


 二葉をあっさり足に使う男は、静かに言った。


「無理……眠ったら、夢、見る…………」


 目を閉じても浮かんでくる情景は、鼻の奥に残る腐臭も思い出させる。ぐったりと青褪めた凛の手が勝手に動き、掌で視界を覆う。


「やだ……寝たくない……」

『僕の夢を貸してやる……あなたが見たい人の夢を』


 夢と過去が同義だと気づいたのは、ふわりと涙が零れ落ちたときだった。







 背後で悲鳴が上がった。


「信じられねぇ! あいつら、この人混みで撃ってきやがったぞ!?」


 飯郷(いいごう)譲理は再度響いた銃声に立ち止まらなかった。速度を上げて路地裏に走りこむ。抱えていた塊をダストボックスに放り込むと同時に、腰に携えた双刀を抜いた。

 ずらりと並ぶのは能力者、警察官、自衛隊だ。うまく連携が取れていないのか、互いが邪魔でそれ以上踏み込めないでいる。


「落ち着きなさい、君達は保護されなければならないんだ。何も怖いことはしない! 頼むから怖がらないでくれ!」


 警察官が言った。


「武器を捨てて手を上げてくれ! 頼むっ!」


 自衛隊が言った。


 能力者は無言だ。

 警官が、自衛官が、能力者に食って掛かろうと無言を貫いていた。

 撃ってきたのはこいつらだ。茶装束が所属する班に思い至って舌打ちをする。何も言わず制止を振り切って駆け出した相手を迎え撃つ。超人系七人。超能力系四人。使役系六人。

 超人系の攻撃は早く重いが、物理攻撃だ。使役系の攻撃も人形が多い。霊を使う行為は禁じられ、怪を支配できるほどの能力者はそうそういない。問題は超能力系だ。左手に違和感を感じ、譲理は気合で吹き飛ばした。ばちんと弾けた音に術を破ったことを知る。放っておけば捻じ切られるところだった。

 譲理は超人系だ。十三歳の細い身体で二本の刀を使いこなす。通常の刀よりは短く、脇差よりは長い。大人になれば通常の刀も使いこなせるかもしれないが、今はこれが精一杯だ。細い身体で相手の刃を押し返し、振り返り様に他の刀を叩き折る。尋常ではありえない力は能力故だ。

 気配を感じて振り向く視界の中に、気の塊を見つけて思わず目を閉じた。


「しまっ……!」


 目の前でゴミ袋が霧散した。ダストボックスが僅かに開いている。中からゴミと掌サイズの人形が飛び出してきた。わらわらと譲理の周りを囲み、一斉に術者に向けて飛び掛かる。全て意思があるように飛び回り、攻撃を華麗に避けていく。

 その隙に距離を詰めた警察官が能力者に詰め寄っている。


「神鬼月蓮の容疑は晴れた! 彼らは被害者側だ! 保護されるべき未成年だ!」

「言っても無駄だぜ。そいつらはNYSの意思で動いてねぇよ」


 くるりと刀を回して銃弾を弾き返す。血相を変えた警察官と自衛隊は能力者にがなり立てた。どの組織にどういう命令が出ているのかが分からない以上、どこも敵と判断する。


「愛、こい!」


 ゴミ塗れになって腕の中に飛び込んできた塊を抱き込み、高く跳躍する。屋上に降り立つ暇もなく隣に移るった。集まっていた警察と自衛隊、それぞれのヘリの側面を足場に、立ち入りを規制されていた報道陣のヘリに飛び移る。カメラで撮影する為に扉が開いているから入りやすい。そのまま反対に抜けて、思いっきり床を蹴る。勢いをつけてビル群に消えていった陰を、慌てて三組織が追いかけたが、既に距離は離れていた。





 夜の公園に、通りの人間がいなくなったことまで確認して二人は姿を現した。水で手などを洗いながら、少女が口を尖らせる。


「ヒどイ。ゴみまミレ」


 電子音が文句を言いながら傷の手当てに取り掛かる。吉見愛、十二歳の少女だ。喉に発声機を取り付けて、喉の震えで音声を拾っていた。声帯に問題はない。彼女は理解を拒んだ実の両親に虐待を受け、声を失った。


「お前守りながら戦えねぇよ。霰と霙がいればお前も前に出せるけど、使役系は防御弱いよな。雑用なら便利。偵察とか情報収集とか、人出欲しいときはいいけど」

「つチだっタラ、つカえた」

「コンクリは剥げねぇか」


 こくりと小さな頭が頷く。どう見ても七歳くらいにしか見えない。子どもの頃の食糧事情が悪かったからだろう。

 二人とも、事件が起こってから着の身着のまま、黒装束のままだ。服を買い換えるほどの金はあったが、そこにいくまでに目立つ。まして子ども二人となると嫌でも人の目を集める。食事はコンビニに譲理一人が駆け込み、誰もが呆気に取られる内に買い物を済ませていた。精々、公園のトイレで顔を洗うしか出来ない。更に譲理は傷だらけだった。致命傷はないが、細かい傷が無数にある。

 黒装束の子ども二人は目立ち、敵を呼び寄せた。NYS正規の班は事情を聞こうと保護しようとしてきたが、今回神鬼月を襲撃した班はそれに混じってやってくる。保護されようとしない子ども達に、NYSも焦れていた。



 度重なる襲撃から身を隠し、時に衝突しながら愛を守ってきた。新たに出来た腕の傷に、愛のほうが痛そうな顔になる。


「あちゃぁ、満身創痍。……しかも、ごめん、事情は分かっててもちょっと臭い」


 突然割り込んできた声に、譲理は上半身裸のまま刀を抜いた。突き飛ばされた愛は文句も言わずざわりと能力を使う。草木がうねりを上げ、土がせり上がる様子に、凛は慌てて両手を上げた。目の前に二葉が降り立ち、愛が悲鳴を上げる。


「怪使い!? こんな奴見たことねぇぞ!?」


 怪を使えるほどの高位能力者の顔を知らないはずがない。ならばフリーか。譲理は舌打ちして刃を振りかぶったが、蜘蛛の糸が絡め取った。


「投げちゃ駄目よ、二葉! 武器がなくなったら困る! えっと、譲理君と愛ちゃんでいいんだよね? 私は春日部りあぶぇ」


 どしりと背に重りが飛び乗って、少女にあるまじき声を上げて潰れた。


「譲理なの――! 霰は元気なの! これはお凛なの!」

「愛なの――! 霙は元気なの! 中にいるの主なの!」


 譲理と愛は、見慣れた双りの登場に目を向いた。


「班長が!?」

「いるの。お凛と交代で寝てるの――」

「寝てるの。お凛が代わりに食べてくれるから楽なの――」

「食べる必要なくて楽なの。でも、寝るのは無理なの」

「寝るのは代われなくて無理なの。ちょっと残念なの」


 嬉しいの、残念なの。狛犬は何故か洋服でぴょんぴょんと二人の周りを飛び回った。無事だったんだ、良かった、揃ってる。この怪強い、でかい蜘蛛きもい、こいつ誰。譲理の中で、色々な感情が一気にぐるぐると回る。

 とりあえず、飛び回る二匹をうるさいと殴っておいた。





 回復した力を四つ辻女郎に使ってしまった藍は、宣言したとおり起きなかった。

 すっかり馴染んだ身体に負担はなく、今回は前回より早く回復するだろう。その間、凛は、とりあえず二人の身形を整えることに専念した。


 再度物の怪道に入り、物の怪御用達の温泉に入って身を清める。銭湯を模した脱衣所は、なんだか所々間違っていたり惜しかったりした。

 入浴料は一人おはじき五個だ。裸の観念と男女の性差を問題視しない怪の風呂である。当然の如く混浴だった。譲理は頑なにこっちを見なかったが、何かあっては困ると目隠しはしなかったが。

 問題は着替えだ。二人の服はどろどろで、譲理の分は破れていたし、愛の分はゴミ臭かった。買ってこようにも時刻は深夜、仕方がないので下着だけはコンビニで調達し、後は凛の服で賄った。幸いというのか、色は黒しかないので男の子でもいける。

 譲理は、本人にとっては非常に不本意ながら凛の服で事足りた。愛にはヒートなテックとロングセーターをワンピースにして、寒さ対策にストールでぐるぐる巻きにする。譲理には流石にスカートとはいかないので、黒のジーンズにヒートなテックにカーディガン、コートとマフラーだ。ヒートなテックに絶対の信頼がある凛だった。


「ワたしも、ソンなニおッキクなるカな?」

「何が?」

「おッパイ」


 譲理は盛大に噴き出した。誤魔化すように慌ててジーンズを穿いて、転んだ。

 じっと凛の胸元を見ていた愛は、中心に咲く赤い花に気がついていた。火傷のような広がりだが、傷とも違う。不思議な痣だった。入浴中から気になっていたが、発声機が濡れないように外していたので声を出せなかったのだ。


「ソレ、なニ?」

「ん?」

「あカいの」


 下着を身につけて、凛は胸元を見下ろした。紅く咲く花。そんな美しいものではない。

 そっと触れる。湯上りの体温は同じはずなのにどこか冷たい。


「これはね、戒め」

「イましメ?」

「そう、戒め。これから先、どれだけ時間が過ぎても、どれだけの人と出会っても、決して忘れない為の」


 忘れないで。

 そう願った幼いあの人との絆。失っても生きていけてしまう自分に、彼を失っても成長し、変わり続ける自分に課した、戒めなのだ。


 人は忘れる生き物だ。一秒一秒が積み重なって今がくる。膨大な今を生きる為に過去は圧縮されていく。摂理に逆らっても忘れないよう身に刻んだ証。彼が貫かれた場所に浮かび上がった痣。生死の境を彷徨い目覚め、痣を見た瞬間、浮かんだのは安堵だった。

 大好きな命は、穏やかな謝罪を最後に永久に途絶えてしまった。誰を怨めばいいのか分からない。明確な殺意は確かに湧き上がった。彼は殺された。その身を刃が貫いたのだ。遠いビジョンは白くて赤い。あの時沸きあがった憎悪と殺意を、凛は一生忘れない。

 ぞわりと背筋を何かが這い上がる。激しい感情が身の内を焼くたびに痣が熱を持つ。それすら心地よい。彼の死を知る。知った上で自分が何をするかは、もう決めている。

 凛は凄絶な笑顔を浮かべた。割れた鏡に映った自分はおぞましい目をしている。凡そ人には見えない瞳は、怪のほうが余程穏やかだと他人事のように思った。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ