十羽
人目のつかない場所に移動した途端、子犬は凛の腕から飛び降り、地面に降り立ったときには人間の子どもになっていた。耳が頭上に、尾は腰に残っていたが。
顔の左半分に赤い模様がある。袴姿の子どもは、八重歯を隠さず愛らしく笑った。
「『霙の居所は分かるか』」
「霙は西にいるの――。主に伝えないと齧るって夜叉丸が言ったの」
「何を」
「『紀煉の上にいるのは橘なの』」
その時沸きあがった感情に、凛は吐き気を催した。
帽子が吹き飛び、髪を止めていたゴムも弾け飛んだ。遠目に見守っていた妖達が吹き飛んでいく。明確な殺意と憎悪。彼を内に受け入れて初めて感じる感情の流れだ。
違う。一度あった。
紀煉と対峙した時だ。しかし、今回は凛の感情ではない。藍が己ごと焼き尽くそうかというように怒り狂っている。
「『……橘、そうか、あいつか』」
意識の中に情景が浮かぶ。
男が立っている。
これは凛の記憶ではない。浮かぶ感情も凛のものではないのだと分かっているのに、止められない。
着物を着た背の高い男がいた。穏やかに微笑む顔が恐ろしくて堪らない。恐ろしいなんて、そんな言葉では済まない。おぞましいおぞましい汚らわしい。男が口を開く。レン、と、呼ぶ。身体に走る鳥肌と嫌悪感、憎悪と殺意。
ああ、眩暈がする。
藍、藍、呼んでも返事が返らない。自分の身体が取り戻せない。この感情は激しすぎて恐ろしい。
凛は叫んだ。
「やめて、藍! 呑まれる!」
はっと藍の意識が揺らぐ。突然主導権が返り、凛は膝をついた。背中に髪が返ってくる感触がする。荒い息を吐いて胸を押さえ、息を吸わずに止めてしまう。言葉を発するのは怖かった。殺してやると、そう、呟いてしまいそうだ。
冷たいコンクリートの地面と、土の地面が交互に見える。過去と現在が入り混じる。激しい藍の感情の渦に飲み込まれているのだ。憎悪は勝手に彼の記憶を再現した。
触れるな、僕に、私に触るなぁ!
喉から勝手に声が唸りを上げる。他者の体温がおぞましい感触としてしか認識できない。鳥肌なんて物ではすまない。身体中の臓器が拒絶反応を起こす。人間全ての温度がおぞましい。
凛は叫んだ。手が伸びてくる。『凛』に向けて男の掌が…………。
男がいる。知らない男が『凛』の上に圧し掛かる。歯が鳴る。押しのけようと突っ張った震える掌は何の抵抗にもならなかった。視界に入る自分の爪は長くグラデーションが美しいが、二枚は剥がれて素の爪が見える。嫌だ。制止を叫べば頬を殴られた。男の手が身体をなぞる。買ったばかりの気に入りのワンピースが音をたてて千切れていく。男の吐息が肌を這う。乳房を掴まれ、首筋に男の舌が触れる。足に手が這い、上へと位置を変えていく。吐き気が止まらない。気持ちが悪い。嫌だ、怖い怖い怖い怖い、おぞましいっ!
ぐらりと意識が反転する。背後で大きな音がした。振り向こうとした『凛』の身体は大きく宙を舞って地面に叩きつけられた。持っていたスポーツバッグが遅れて落ちてくる。今日の試合は活躍できた。たくさん点を入れた。勝利のお祝いに、夕飯は好きなものばかり。手間が掛かる物ばかりと母は文句を言うけれど、いつもどこか嬉しそうだ。お父さんはきっと今日も試合の話を楽しみにしているし、妹もわくわくしながら聞いてくれる。車から三人が飛び出してきた。頭上で何か言っている。どうしてトランクを開けるのだろう。どこに行くの? ここはどこ? やめて、僕は生きている。埋めないで。助けて、助けて、お母さん、お父さん、僕はここにいるよ。助けて!
あたしのてをひくのはだぁれ? おかあさんじゃない。ここでまってていったのに、おやくそくをやぶっちゃった。だってこのおじさんがおかしくれた。あっちでおかあさんがまってるって。まわりにはだぁれもいなくなってる。どこまであるいたのかわからない。だぁれもいない。だんだんこわくなってきた。おかあさんはどこ? もうすこしだよって、おじさんさっきからそればっかり。ここはなぁに? どうしてこんなにさむいの? まどがわれてる。なぁんにもない。おじさん、どうしてそんなにあたしをみるの? くるしい。やめて、どうしてくびをしめるの? おかあさんはどこ!? こわいコワイこわいコワイこわい! おかあさぁん!
「凛!」
後ろから誰かが凛の身体を抱き起こした。
子どもの目線だった視界は急に上がり、自分の身長を思い出す。引き剥がされた感覚にほっとすると同時に、恐慌が湧き上がる。
「い、や、いや! いやだいやだ、離してぇ!」
「凛! 落ち着け! あれは他人の過去だ! お前の傷でも僕の傷でもない!」
自分がどこにいるのか分からない。誰なのかも分からない。流れるように何十人もの断末魔を聞いた。老若男女、統一性のない人々の死と同調した。幾度死んだのか。それら全てが凛の死だった。
死を恐れる誰かの感情に飲み込まれる。
「いや! 助けて! 嫌! 怖い! 殺さないで! 死にたくない、死にたくない!」
視界の中に『死』が刻み込まれて消えない。見たくないのに目が離せない。誰かの死が降ってきて、べちゃりと粘着質な音を立てて広がった。
金切り声を上げた凛の視界を何かが覆う。背後から押さえ込んでいた手が上がっきて視界を塞いだのだ。身動きできないほど抱きしめられて、ようやく自分以外の体温に気がついた。しかし、それはおぞましいものだと『凛』は判断をしてしまう。
「いや……たすけっ……」
「落ち着け。お前は何も害されていない。あれは過去だ。……凛、息をしろ!」
息をしていないことにも気づかなかった。
慌てて酸素を取り入れようともがく。酷く咽こんで初めて、これが生きるために必要な行為だと思い出す。必死に呼吸している凛を、静かな声はずっと待っていてくれた。
「そうだ……落ち着け」
咽こんだ息を整える。散った涙で頬は濡れていた。
「悪かった。あれは僕が過去視したものだ。橘に視せられたものが蘇った」
「過去、視……どうして、こんな」
「僕の母があいつを捨てたから、あいつは僕が憎かった。報復として、警察の協力を装った精神崩壊を謀った。生憎と憎悪は育てど崩壊はしなかったが」
淡々とした声音に感情は見つけられない。抱きしめられたままの手に安堵した。離されると二度と立てなくなってしまいそうだ。
首筋に吐息を感じる。おぞましい『記憶』が蘇りそうになるが、支える手の温度が勝った。繋ぎ止めるほど強いのに、傷つかないくらい優しい。両親に愛された記憶が、他者の温度を心地よさに摩り替える。
人の手は優しいのだと、両親は凛に教えた。凛に刻まれているのはおぞましい記憶ではなく、両親がくれた温かさだ。
固く目を閉じて、長く息を吐き出す。
「あんなに、小さかったのに……」
「人はいずれ死ぬ。何時如何なる時も、何処でだって人は死んでる」
感情の無い声に凛は苦笑する。苦笑であろうと笑える自分に安堵した。
「藍が、だよ」
「…………見たのか」
被害者の遺品を手に倒れていたのは、十にも満たぬ子どもだった。
幼い子どもが『自分』が犯され、殺され、害される瞬間を繰り返し見せられている様こそが、地獄だ。
つらい? 苦しい? 大丈夫? なんて、分かりきっていて口に出せない。きっと、つらくない、苦しくない、大丈夫と返してくるだろうから。
「主! 主!」
子どもの声が空間を切り裂いた。凛の意識は精神から肉体へと舞い戻る。膝の力が抜けてコンクリートに叩きつけられた。
「なんか私、最近こんなのばっか……」
震えていないのが救いだ。霰は凛の手を引いて走り出した。
「見つかった! 主、逃げて!」
子どもの甲高い声に、弾かれたように振り向く。遅れてひるがえった髪が視界を覆うも、その隙間から外国人二人が立っているのが見える。観光客だろうか。違う。咄嗟にそう思った。ここは工場の敷地に入るか否かのギリギリの位置だ。観光する場所などない。何よりあんな歪な笑顔は浮かべない。
目の前のフェンスに手を掛けて登る。あっという間に反対側に飛び降りた凛に、金髪の男は早口の英語で罵った。
警備会社の警報が鳴り響く。こっちはなんとでもなる。変質者に追いかけられましたと言えばいい。あながち間違いでもない。あれが鈴木さんが話していた『後続』だろうか。だとしたら間一髪だっだ。
人のいる場所へと走り出した凛の耳に聞き慣れない言葉が届く。振り向く暇もなく背中に衝撃が走った。
「主!」
「主、じゃない、凛だからそこんとこ宜しく!」
よろけただけで霰の手を掴み、凛は速度を上げた。背後で驚愕の声が上がる。背中を風が通る感触がしていた。鋼蔦の服、着込んでいて正解だ。ただし、お気に入りのコートが使い物にならなくなった。
再び聞き慣れない言葉が紡がれたと同時に、霰が立ちはだかる。
「封鎖!」
叫んだ声で攻撃が弾かれた。『だから……封鎖は意味が少し違う』と、頭の中で藍がぼやく。
三発目は顔を出した二葉が防いだ。よく見れば手の先が千切れている。一発目を止め損ねたのだ。
「二葉、後でお菓子あげるからそれで回復して! ごめん、痛い思いさせて!」
「わ、蜘蛛だ! 主、遊んでいい!?」
「よくはない。一人のお前だと逆に喰われるぞ」
霙の尻尾が、ぴっと足の間に巻き込まれた。
間髪入れずに続く四発目と五発目は、俊敏な動作で避けた! わけではなく、単に蹴躓いてつんのめっただけだ。結果的にはよかったが、腹は立つ。
「こ、の、や、ろ、う!」
殺す気でくる相手に手加減は必要ない。鞄から取り出した扇を片手で開く。
「忍法霞扇の術!」
明確な意思を持って風が渦を巻いた。藍に放ったような生易しい風ではない。彼岸香を纏った扇だ。死にはしないが毒性がある。身体が痺れ、意識を奪う。追っ手は驚愕の表情と叫びを上げて倒れた。かなりオーバーリアクションだ。死にはしないのだが。
「これが世界に誇るジャパニーズ文化だ!」
ガッツポーズには誰も反応してくれなかった。寂しい。寂しさを感じ取ったのか、二葉が真ん中当たりの足をふよふよ動かしてくれる。優しい。
騒ぎを聞きつけて集まってくる気配を感じ、霰は慌てて凛の手を引いた。
「御方様! こっち!」
「あれ!? 凛って言ったよね!?」
「主は御館様なの。主といる女人は御方様なの」
「それ大分違う!」
子どもはどんどん手を引き、建物と建物の間に飛び込んだ。隙間は三十センチもない。物の怪道だと気づいた凛は、躊躇いなく後に続いた。