第四話 曲がり角の先に4
「初めまして。私は日向文菜って言います」
昨日の喫茶店内で、日向文菜と名乗る――少女はキャスケットをとり礼儀正しく頭を下げる。立ち話もなんだからと、喫茶店に誘ったのだ。
ただ、俺は彼女の様子を茫然と眺めていた。
というのも、つい先ほどに彼女の口から小説を書いてください、などと申し出されたからだ。しかし、それ以上に『死ぬ覚悟を決めるために小説を書いてほしい』という言葉のほうが、衝撃が大きかった。
いや、まず考えるべきことはそこではない。
「ええっと、確かに俺は白泉紡だけど、小説家の白泉紡ぐと同一人物だとは限らないだろ」
ごにょごにょと口もごもりながらも、同一人物ではないと誤魔化そうと何とか呟いた。
だが、彼女をそれで振り切ることはできなかった。
「先ほど、小説を書いていたと聞きましたけど」
「うっ」
「それとですが、ヒイラギ書店のご店主の方に確認済みです」
お、おじさんの野郎―! と心の中で叫んでも、本人には聞こえないので意味はない。
付き合いが長く色々と話せる間柄なので、ヒイラギ書店のおじさんも俺が小説家だった頃のことは知っている。そのおじさんが認めてしまったということなら、もう誤魔化すことはできない。それに――いや、今はいい。
覚悟を決めた俺は、はあ、といつも以上に深い息を吐く。
「ああ、俺が『空の花』を書いた白泉紡本人だよ」
「やっぱりですか! 本人に会えるなんて感激です!」
その本人に死ぬために小説を書いてほしいという君のことが、俺はとても怖いよ。
「で、何で、俺が小説を書かなきゃいけないんだよ。しかも死ぬために。俺は自殺に手を貸すつもりはないぞ」
そもそも小説を書くつもりはないのだが。
俺に小説を書く理由はもうない。とっくの昔に失われてしまった。
書きたい物語も紡ぎたい言葉もあったのに、原動力がない。
だから、俺は小説家ではないのだ。
残念ながら、何かしらわけがあったとしても小説は書くことはできない。
「安心してください。自殺をするためじゃないです」
安心をしてくださいといわれても、どっち道死ぬためなら恐いんですけど。そんなことを思われているとも知らず、彼女は真剣な表情で俺に頼み込んできた。
「私のために小説を書いてください。お願いします」
「……そう言われてもな」
あの日から書かないと決めているのだから、どれだけ必死に頼み込まれても俺は書かない。たとえ彼女の背景に何かしらの事情があったとしても。
「悪い……書かない、というより書けない」
「どうしてですか?」
澄んだ瞳に素直な疑問の色を宿らせながら、上目づかいに彼女は尋ねてくる。まるで、その瞳は俺を逃がすまいとしているように見えた。
本気だ。本気の目だ。
彼女は本気で俺に小説を書いてほしいのだ。
似ていた。
彼女の瞳に。
大好きだった彼女の瞳に。
「それは――、」
言いかけて口を噤む。その瞳を見て、俺はなぜだか自分の気持ちが失礼なように思えた。
俺は彼女から逃げるように視線を逸らし、注文していたコーヒーをすすった。
「白泉さん? どうして書けないんですか? もしかして、その理由が、ここ数年新作を出していない理由ですか」
「……と、とにかく書けないもんは書けないんだよ」
話題を変える様に、俺は早口に言いくるめた。
ただ、やはり彼女はそれで引き下がらなかった。
「何でですか? 教えて下さい、その理由を!」
「悪い。それについては話したくないんだ。お願いだから、聞かないでくれ」
ああ、情けない。
断るにしてはあまりにも不明瞭だ。
さすがの彼女も、空気を読んでくれたらしくそれ以上は尋ねてはこなかった。でも、かの序は力強い口調で言い放った。
「私は諦めません。絶対に諦めません」
♪♪♪
家に帰りついたのは、午後二時を過ぎてからだった。
二階の自分の部屋に荷物を置いた俺は、リビングのソファに深い息を吐きながら座り込んだ。
妹の面倒と万引き、そして日向文菜と名乗る少女のお願い。まだ半日ちょっとしかたっていないのに色々とありつかれた。
このままお昼寝してしまおうかと思ったが、そういうわけにはいかない。
俺はスマホを手に取ると、画面を操作してある人物に電話を掛けた。その人物はワンコールも終わらないうちに電話に出た。
『もしもし、つむぐん?』
「どうも、朝河さん。今大丈夫ですか?」
そう、俺が電話を掛けた人物は朝河さんだ。
朝河さんはいつもと変わらない明るい声で応対してくる。
『う、うん、先生の仕事場に行く途中だから構わないけれど、どうしたの? 君から連絡をしてくるなんて珍しいじゃない』
「言わなくても分かっていると思うんですけど」
『……あははは、もしかして文菜ちゃんとあったの?』
しばらく間を置かれて返された言葉から、彼女が驚いていることがわかった。
「ええ、会いました? 聞きたいんですけど、俺がヒイラギ書店に通っていることを教えたのは朝河さんですよね?」
『そうだよ』
淀みのない声で彼女は肯定した。
やっぱりそうか。これで、話にすべて辻褄がいく。
ヒイラギ書店のおじさんが、俺が小説家だったことは知っている。だから、日向さんは確証を得ることができた。でも、俺は一つだけ可笑しいと思ったことがある。
それは、どうして俺があのお店によく通っていることを知っていたのか。日向さんとおじさんは今日の様子から初対面であることは間違いない。となると、俺のことを話す人がいるとすれば、家族か友人か朝河さんだろう。
そのうち、家族と友人は俺が小説を書かなくなった理由を重々理解しており、個人的な情報を漏らすことはない。そうなると、迷惑だとわかっていても俺に小説を書いてほしいと願っている朝河さんが仕組んだことになる。
別に彼女のことを信用と信頼をしていないというわけではない。しているからこそ、こういった結論が出せるのだ。現に彼女は認めている。
「どうして、こんなことを……?」
『君も感じたと思うけど、彼女の真剣な気持ちに負けたからだよ。それに、私自身君にどんな形であれ小説を書いてほしいって思ってる。まあ、死ぬ覚悟を決めるためってのは、行き過ぎてるからもっと違う形で頼むようには話したんだけど……もしかして?』
「ええ、隠しもせずに言ってきましたよ」
もちろん、断りましたけどね、と付け足した。
電話越しに朝河さんの息が聞こえる。予想していただけに、余計にその吐く息は深かった。
『あの子は素直だからね。仕方がないか』
「ええ、素直でした」
『だよね。私もそう思うよ。それに――彼女に似てると思わなかった?』
「……、」
言葉を詰まらせる。
何て言葉を返せばいいのか分からない。
『似てたよね、彼女に』
「光にですか?」
『うん、光ちゃんに』
勇気を出して振り出した彼女の名に体が震える。
その瞬間、彼女との思い出が流れ込んでくるように再生される。楽しかった幾つもの思い出が。
「似て、いませんよ」
『そう?』
「はい。全然違います」
そう言いつつも、俺は嘘をついた。本当は少しだけ彼女と似たものを瞳から感じた。
でも、それがどうした。そんなことで俺は書きたくない。小説を書きたくない!
『つむぐん……ごめんね。文菜ちゃんには私のほうでも断っておくから。でも、これだけは忘れないで』
俺の気持ちを察したうえで朝河さんはなおも告げる。
嘘偽りない、本物の気持ちを。
『それでも、私は君に戻ってきてほしいんだよ』
♪♪♪
『……くん……っ……つっくんてば!』
『……ん、て、おおっいたぁ!』
瞼を開けると、すぐ目の前に天海光が顔を覗き込んでいた。突然の出来事に俺はひっくり返り、頭を教室の床に打ち付ける。あまりの痛みに生まれたての仔馬のように丸まったまま頭を押さえ、悶絶してしまう。
そんな俺を光は可笑しそうに笑いながら、手を差し伸べた。
『あははは、なにやってるの、つっくん。もう、ドジだなあ。はい、手を貸したげるよ』
『ありがと……っていうか、あれ? もう夕方?』
『そーだぞ! まったく、一日中寝てるなんてすごいね』
光は腰に手を置き、やれやれといった風に首を傾げている。
俺は口の端を引きつらせながら、
『仕方がないだろう。原稿の締切がもう少しで、徹夜しないといけないんだから』
『何言ってるのかな。君の本文は学業だぞ』
『うっ』
痛いところを突かれ顔を引きつらせる。確かに彼女がいうことは正しい。高校生である俺の本業というのは学業だ。本業をおろそかにしてはいけない。
別に彼女に言われるまでもなく理解できている。
『あははは、善処します』
『どうだか。一日中寝て、先生に呆れられるような人が真面目になるとは思えないよ』
言い返す言葉もない。
引き攣った顔のまま光に言われるがままで、もう泣きそうになっていた。
そんなことをわかっているのかどうかはわからないが、彼女はにこりとほほ笑むとノートを差し出してきた。
『はい、今日の授業で先制の板書をノートにまとめるから、家で写してね』
『ナイスだ、光! 助かる‼』
俺は手を伸ばし受け取ろうとしたが、ぱしんと手の甲を叩かれる。
痛い。すごく痛い。ジンジンとする。
『いっっってぇぇぇ⁉ 何すんだよ⁉』
『私が何の見返りもなしに、貸すわけないでしょ! 帰りに駅前のケーキ屋で奢ってね』
『ええ、またか! 勘弁してくれよ。今月はもう懐がやばいんだって!』
あれやこれやと小説を書くための資料を買いあさっているせいで、俺の財布事情は氷河期を迎えている。はっきり言ってケーキなどを奢っている余裕はない。
奢るより奢ってもらいたいというのが本音だ。
だが、光にこんなことを言ったところで聞いてもらえるはずがない。俺の本業は小説を書くことではなく、学校で勉学にいそしむことだ。
天秤にかけるまでもなく、俺の結論は出ていた。
『分かったよ。奢ります! 奢らせてください!』
俺の返答はやけくそ気味だったが、彼女はそんな俺の様子に満足したらしく実に性格の良い笑みを浮かべている。いつもの俺なら皮肉の一言でも呟いているのだろうが、容姿端麗なためか恨めしいよりも可愛らしかった。
『宜しい! はい、貸したげる。あ、そうそう、つっくん』
『何だ?』
ノートをしまい終え、顔を上げると、
『朝河さんから電話がかかってきてたよ! 私が代わりに出て「馬鹿は寝てるので、起きたら折り返すように言っておきます」って言っておいたから』
『ねえ、今馬鹿っていった? ねえ、言ったよね?』
『だから、早く電話かけてあげなよ。君も追い詰められているのはわかっているけど、朝河さんも追い詰められているみたいだから』
ああ、無視ですか。
俺は心の中でため息を吐くと、こめかみを押さえながら考えをまとめる。
『美咲さんには謝らないといけないよなあ』
学業との両立で編集長に色々と都合をつけてもらっている。なのに、いまだに小説が書けていない。締切までまだ時間があるとはいえ、お世話になっているので謝罪をせねばと感じてしまう。
だが、それとは別に俺は別のものを感じていた。
『美咲さんね。ふーん、つっくんは名前で呼んでいるんだ。へー仲がいいんだねえ』
『ひ、光⁉』
明らかに不機嫌な声ぶりだ。
実際に彼女の表情は唇を尖らながら、目を細め睨んできている。
『なんか誤解しているみたいだけど、別に変な意味でそう呼んでいるわけじゃないからな。作家と編集者として仕事が上手くいくように、そういう風に呼んでいるだけだから』
『ふーん、どうだか。朝河さんって結構美人さんだから、にやけてるんじゃないの、つっくん』
そう呟きながら、今度は何かを疑うような眼で睨んできた。俺と美咲さんとの仲に嫉妬しているのかもしれない。だが、今話した通り別にやましいことは何一つとしてない。
お互いに名前呼びしているのは本当に、親密さを上げ上手く話しができるようにするためだ。だから、本当にこれ以上の何かはない。
なのだが、おそらくそれを言ったところで余計に話がややこしくなるだけだろう。沈黙しているのも手だと思ったが、それはそれで面倒なことになるのでしぶしぶ誤解を解くために口を開いた。
『なわけないだろ。確かに美咲さんは美人だけど、お前が今考えているようなことじゃないよ』
『だったら、奢るケーキはホールにするね』
『いきなりなんだよ⁉』
『だってさ、本当にやましいことがなければ奢れるよね? 誠意を見せられるよね? ね?』
『誠意以前にそれはもう脅迫だ』
その反論に光は性格の良い笑みを浮かばせた。すぐに俺はこいつ狙ってやがったな、と光の考えを悟った。
美咲さんから電話がかかってきたのは本当だろうが、最初から俺にホールケーキを奢らせるための前ぶりだったのだ。
光のその図太さに俺は、呆れを通り越して尊敬してしまいそうになる。
『あーもうわかったよ。奢るよ、奢る。ったく、太っても知らないぞ』
『大丈夫、大丈夫。私って結構太りづらい体質だから』
そりゃよかったな、と適当に言葉を返し、美咲さんに電話を掛ける。電話越しでの打ち合わせを終えると、俺は光にケーキを奢るため、夕日色に染まる街に踏み出した。




