第一話 曲がり角の先に1
白泉紡――俺が小説を書き始めたのは、実に単純で明快で笑える理由だ。
というのも、そのきっかけというのが好きな女の子に褒められたからだ。とてんじゃないが誰にも言えない。もしも誰かに聞かれでもしたら、すぐさま穴に閉じこもってしまうだろう。本当に恥ずかしい。
でも、もう『彼女』はいない。
だから俺は筆を折った。
彼女のめだけに俺は小説を書いていたから。他の誰のためでもない。自分のためでもない。
大好きだった彼女のためだけに。
だから、もう、俺は小説を書くわけがないと思っていた。
なのに、俺はまた書き始めた。
これまたきっかけは、実に単純で明快で笑える理由だ。こんな俺に対して『本を書いてください』だなんていう図々しい『アイツ』との出会いだ。
これは彼女とともに季節を巡る――春夏秋冬の物語だ。
♪♪♪
「ヤッホー、つむぐん!」
自宅近くにあるレトロな喫茶店に入ると、自分の耳に聞きなれた明るい声が届いた。
その声を聞くだけでなぜか溜息が漏れる。このまま立っていても仕方がないので、顔見知りである店長に軽く挨拶を済ませると、俺は喫茶店の中で一番日当たりのいい場所を陣取っている女性と相席した。
「どうも、朝河さん」
「久しぶりだね、つむぐん」
店長と同じように軽い挨拶を口にすると僕に対して、朝河美咲は前髪を揺らしながら人好きする笑顔を浮かべ微笑みかけてきた。
少しだけ目のやり場に困って視線を逸らす。何つーか可愛かったから。
「おお、どうしたのかな、つむぐん? お姉さんがかわいく見えた?」
え、なに、エスパー? 彼女は丸で俺の心を見透かしているかのように言い当てて見せた。長い付き合いだからなのかもしれないが、どうも腹が立って仕方がない。
「いやあ、またシワが増えたなあと思いまして」
「つむぐんはドラム缶にコンクリート詰めでマリアナ海溝にドボーンされたいのかな?」
「わあ今日もお綺麗ですね」
傍目から見えても心のこもっていない言葉に、朝河さんは呆れながらも「よろしい」と呟くと、先に頼んでいたらしいカフェラテでのどを潤す。その間に俺は、店長に自家焙煎のコーヒーを頼んだ。
視線を正面に戻すと、朝河さんは相も変わらずにっこりとほほ笑んでいた。
「ほんと久しぶりだね。つむぐんてば、こっちから連絡しない限り電話もしてくれないんだもん。あーあー一夜を共にしたのに、本当にひどいなあ」
「誤解を招くようなことを言わないでください! 打ち合わせで徹夜しただけでしょ!」
周りから変な視線が集まったような気がしたので、慌てて否定する。だが、当の変なことを口走った本人である朝河さんは、何やらご満悦のようで性格の悪い笑みを浮かべている。きっと、俺をからからかえたことに満足しているのだろう。
この人は昔からこうなのだ。
俺がこの人と知り合ったのは約三年前。あることがきっかけなのだが、出会った当初からこの人はこういった冗談でからかってきていた。今はたまにしか合わなくなったが、いまだに彼女は冗談ばかり言う。
「あははは、冗談冗談!」
「朝河さんの冗談は、笑えないっすよ!」
はあ、とため息をつくと、ちょうど運ばれてきたコーヒーが注がれたカップに口をつける。舌の上をほのかな苦みと香りが通り抜け、気分がだいぶ落ち着く。朝河さんとのコントで疲弊しきった心が少しだけ癒された。
カップを受け皿の上に戻したところで、バッグから小包を取り出した朝河さんが話し始めた。
「改めまして、久しぶり。それと、成人おめでとう。少し遅れちゃったけど、はい――お祝い」
「あ、どうも」
手渡してきた丁寧に包装された小包を、素直に礼を言い受け取った。
「もう三月だってのに、真面目ですね」
「うふふふ、まあね。開けてみて」
「……、」
でも、俺は素直には小包を開けず、袋を上下左右から眺める。さらに、少し離れてから指先でつついてみる。一見奇怪な動きをしているように見える。俺とてこんなことをしたくはないが、やらないと安心しない。
朝河さんも俺の可笑しな動きに対して、
「何やってるのかな?」
「時限爆弾が爆発する前に解除してるんです」
「どういう意味かな⁉」
「どうもこうも昔、びっくり箱とかで驚かされたんで疑ってんですよ!」
あれはたしか、出会って半年後の俺の誕生日だった。
お祝いと称してプレゼントを渡してきたが、箱を開けるとそこからテレビで見るような、ばねに繋がった人形が飛び出してきたのだ。
あの時は本気で驚いた。そして、しばらくの間人間不信に陥ったことを今でもはっきりと覚えている。
「今回は大丈夫だよ。まったく、人を信じられなくなるなんてひどいなあ」
「アンタのせいだよ!」
そう叫び終えると、俺はようやく包装を解き、小包を開けた。
彼女の言葉通り、今回は何の仕掛けもない。安堵の息を吐きながら、中に入っているものを確認するとネクタイがあった。
「……これって」
「形式上は大人になったからね。実用的なものを選んでみました。どう、偶にはまともなことをするでしょ」
「偶にはってところで、普段ろくなことをしないって自覚してますね」
分かっていてやっているのなら(知ってはいるが)余計にタチが悪い。
はあ、と何度目かわからないため息を吐きつつも、小包の中に入っているネクタイを手に取ってみる。
「気に入ってくれた?」
「それは、まあ。感謝していますよ。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、礼を言う。
ここまで来るのに余計な時間(冗談)が多い気もするが、俺とて貰い物をされれば礼は言う。
そんな俺の素直さに朝河さんはまた温かい笑みを見せると、カップに残っているカフェラテを一気に飲み干した。
何かこれから用でもあるのだろうか。
「急ぎですか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど、早めに片づけたほうがいい仕事があって」
「ああ……催促ですか」
催促というのは、別に借金を取り立てようだなんてことではない。そもそも、そういった仕事は朝河さんには似合っていない。
では、何かというと、
「そそ、鈴村先生の原稿が遅くてね。急かすのは好きじゃないんだけど、少し催促しとかないとね」
原稿を催促するということだ。
そして、俺が昔お世話になっていたというのはこのことだ。実は、俺は小説家だった。朝河さんと知り合いなのは、俺の担当編集が彼女だったからだ。
とはいっても、もう三年も前の話である。
「鈴村さんは相変わらずですね。仕事がのんびりしているというか、丁寧だというか」
「あははは、丁寧なら私も文句は言わないよ」
その言葉だけで、何事かを察する。それに、朝河さんの渇いた笑い声でもわかる。
「マイペースなんですね」
「うん。読者としては面白い作品を書いてくれるから嬉しいんだけど、担当編集者としては仕事を早くしてほしいよ」
そうですね、と言葉を返しておく。
編集者の苦労というのは俺にもよくわかる。お世話になっていたころ、寝ていないんじゃないかと思うくらい、朝河さんは取材やら打ち合わせで動いていた。
走り回る朝河さんを見て、苦労しているなあと思っていた。美味しいコーヒーでも飲んで少しでも肩の力を抜いてほしいと思い、ここの喫茶店にも時間さえあればよく誘っていた。
ただ、その時は俺と朝河さんだけではなく『彼女』もいた。
「でも、まあ、根本的に書かない小説家よりはマシだよ。ねえ、つむぐん?」
口の端を持ち上げ、実に性格の悪い笑みを浮かべる。もともと、可愛い顔をしているのでその表情は実に小悪魔的だ。
「………………誰のことですかね」
「あははは、誰だろうねえ?」
そう知らないふりをしつつ、朝河さんは俺の顔を先ほどの表情のまま睨んできている。俺は顔を引きつらせ、逃げるように視線を窓の外に逸らした。
だが、さっと細い腕が伸び、綺麗な手が俺の顔を力強く掴んだ。脱出しようとするが、あまりにも力が強すぎて、引きはがせない。
「何するんですか、朝河さん⁉ 痛いですってば!」
「……、」
爪が肌に食い込んでものすごく痛い。なのに、朝河さんは何も言わない。ただ、逃げるようとする俺を真正面に捉え、じっと睨み続けている。
これが何もなければ可愛い容姿をした朝河さんに、頬を赤らめ目のやり場に困っているだろう。だが、状況が違った。
「こーらー逃げないの! まったく、あれだけ良い作品が書けるのに!」
「いたたたっ! ちょっと離してくださいよ! そ、それに俺にだって理由があるんすよ」
そこまで叫んだところで、朝河さんはようやく俺を解放してくれた。
めり込んだ爪の痕がまだ残っていて、少しだけ痛い。でも、そんなことよりも朝河さんの顔の方がものすごく怖かった。
「そんなことは分かってる。分かってるけどさあ……やっぱりもったいないよ!」
「分かってるんならそれ以上何も言わないでくださいよ」
「言いたくなる気持ちも分かるでしょ! 新人賞を獲った作家が高校生で、そのまま作品が映画化も出しちゃうんだもん。もったいないよ!」
「あーはいはい、そうですねそうですね」
もう面倒になってきたので、適当に話を流すことに決めた。でも、朝河さんは適当な態度に唇を噛み、眉間に深いシワを作る。怒っていることが、ありありと伝わってくる。
そして、朝河さんはしつこく言葉を重ねてくる。
「あーもーもったいないよお! こん畜生なんだよ! まったくなんだよ!」
ギャーギャーと騒ぎ立てる朝河さん。
女性を泣かせる青年、という風に周りからは見えるので凄く居心地が悪い。
「あの……静かにしてください」
「今は叫びたい気分なんだよーっ!」
あーもーうるさい! 自分の気持ちに素直な彼女につくづく呆れさせられる。
この人は冗談だけでなく、はっきりとものも言う。一見冗談を言う人間は、本当のことをはぐらかすように思われる。でもこの人は違う。
冗談もよく言うし、嘘を吐かずはっきりとものを言う。
何と言えばいいのだろうか。傍若無人……竹を割った……? いや違うような気がする。
元小説家ではあるが、この人の性格を表す言葉が見つからない。
「気持ちは……わかりました。でも……もう小説は書きませんよ。誰に何といわれようと」
「………………私もわかってるよ」
朝河さんはぽつりと呟く。
「もう、彼女はいないものね。でもさ――」
一拍間を置いてから彼女は告げる。
「もしも、また書く時が来たらどうする?」
♪♪♪
喫茶店で朝河さんと別れると、俺は素直に帰路へとつくことにした。朝河さんはというと、話していた通り、鈴村さんのところへ向かうために駅に向かった。途中まで送ろうかと話したが、急いでいるからと断られた。
ただ、別れる間際、
『女子に真摯な対応ができるようになるなんて、お姉さん嬉しいよ』
本気で嬉しそうだった。
素直にそのことを認めるのが癪だった俺は、
『鈴村さんの小説が早く読みたいからですよ』
少々ひねくれた言葉を返しておいた。もちろんそんなことで話しの矛先も、素直になれない気持ちを誤魔化せるわけもない。ましてや朝河さんの慧眼をもってすれば、俺の浅はかな考えなど鈴に見抜かれる。朝河さんは微笑を浮かべると、
『そういうことにしておくよ』
余裕ありげに言い残して、駅へと向かった。その背中は何だか楽しそうでもあり、嬉しそうにも見える。多分、俺をからかえたからだと思う。
――ほんとにいい性格してやがる。
帰り道を歩きながら思い出すたびにそう思う。
「はあ……ったく、敵わないな」
密な時間を共にしたせいが、俺のことを理解している。良いことも悪いことも含めて俺のことがよく分かっている。
そう、俺が小説を書かない理由も。
俺が小説を書かなくなったのは今から約二年前のことだ。高校を卒業して少しのことだった。その頃、俺は新作の小説に取り掛かっていたもののとてもかけるような状態ではなかった。
その理由は俺の核となる部分にある。
恥ずかしくて周りにあまり言わないが、小説を書き始めたきっかけを与えてくれたのは幼馴染だ。いつも下らない妄想話をしていた俺に、彼女が本でも書いてみたらと言ってくれたのだ。
頭の中にある想像を形にし、彼女に読んでもらったら、彼女は太陽みたいに暖か笑みで『面白いよ』と言ってくれたのである。それが、とても嬉しかった。
その出来事が、小説を書き始めるきっかけなのだとはっきりと覚えている。
小説家を目指そうと思った際も、
『つっくんなら必ずなれるよ』
と言ってくれた。
躓きそうになる俺をいつも支えてくれた。
でも、もう彼女はいない。
この世界に。
約二年前のあの日に、病気で亡くなってしまった。
だから、
「――もう小説は書かない。俺には書くための理由がないから」
帰路を歩きながら呟く。
何となく足を止め、駅のほうへ振り返る。
視線の先には、答えを知りたいはずの彼女の姿は当たり前のようになかった。




