雨道の死臭
残酷な描写はないつもりですが、想像力が豊かである種のものを想像してゲロガしそうな方はUターンを推奨します。
俺は素人で物書きをやっていたものです。ちょうど良い場だから一筆書かせていただきます。
実は少し前にこんな感じの企画(賞金が出る賞)に作品を送るためネタを探してる時期がありました。
言うまでもなく、ホラーですが。
読んでくれた方々に俺が言いたいのは、飛び切り怖いものをと意気込んで、あまり好奇心を放し飼いにしないほうが良いという事です。
霊って奴はかなり敏感のようでして、どこにいるんだか、そう言う気配を感じ取ったら真っ先によってくるみたいなんです。
俺もそうでした。
俺みたいな人間が二度と出ないように、できるだけ正確に思い出して書きます。
興味のない人は帰ってください。それが正解です。
――――
去年の夏です。大雨の日で部屋にいたのは覚えています。
俺は社会人1年目のペーペーで、まだ金にゆとりのある人間ではありませんでした。本当は休日ならばどこかに繰り出したいところだったけど、そんな理由から出来るだけ涼しい部屋の隅でゴロゴロしてる日が多い生活でした。
せっかく時間があるのに、もったいない。
ふと思った俺は、小遣い程度の小金を稼げないものかと考えました。無論、会社にばれないようにバイト以外の方法で。
こんな考えが浮かんだのも、会社に慣れて落ち着いてきた時期だったからかもしれません。勤めていたのはブラック企業とかではなく、いたって普通の会社です。だから特にやめたいとも思っていませんでした。環境も良かったし。
だけど金は欲しい。
考えた結果、賞金とか謝礼とかの形で稼いだ方が安心だろうという結論に辿り着き、とりわけ、興味のあったライター系の仕事に手を出すことにしてみたのです。
倍率が低そうな、マイナーのホラー大賞を選び、俺は早速ネタを探したんです。
とは言え、行き着くのは学校の怪談染みた話だったり、人間関係のもつれが及ぼした怨恨話だったり、これだと思うものがありませんでした。
加えて、ここはマンションです。上の部屋だかの物音がうるさくて、なかなか集中できない環境ではあります。
やっぱりやめるかな、と思い立ったその時、パトカーのサイレンが遠くで鳴りました。
「ああ、そういやこの辺事故物件多かったっけ……」
少し前も何件か先に警察と消防が駆けつける騒動があったのを思い出す。治安が悪いんだか、年寄りが多いんだか。都心に近いこの薄汚れた街ならば別に珍しくもないことです。
だけど、俺はこれにピンときた。ネタの仕入れ場所として最適なところを思い出し、すぐにパソコンを開いた。
知る人ぞ知る、事故物件の某紹介サイトだ。
試しに俺の家の周辺を調べてみれば、出てくる出てくる事故マーク。正直、鳥肌モンでした。
特にやばかったのは、マンションの道沿いです。綺麗に事故マークが数件置きに並んでて、ほぼ毎年誰かしらお亡くなりになっているようです。
サイトにはご丁寧にその事故物件たる理由(主に死因)も記載されていたので、これをネタに何かかけるだろうと俺は筆を取りました。
そこまではよかったんです。
魔が差した俺が、興味本位で外出するまでは。
行き詰るまで時間は掛かりませんでした。そうなるとやっぱり、現物を見て刺激を得たいと、妙な好奇心に身体が動かされます。
雰囲気だけ。
そんな気持ちで俺は部屋を出ました。
外は土砂降りで、湿気のせいかやたら溝の匂いがしていました。
プリントアウトした地図によると、一番最寄の事故マークはすぐそこでした。実際に見てみると、至って普通のマンションと民家です。雰囲気も何もないやと、期待を外した俺は帰ろうとしました。
すると――
……ドン……ドン……ドン。
「ん?」
小さく重いその音に俺が振り向くと、この土砂降りに傘を持たないで、ずぶ濡れの男が1人、すぐそこの民家(事故物件じゃない)のドアにうな垂れてるのが目に入りました。
背丈は俺より高いくらいで、古びたスーツにボロボロの靴を履いていましたが、顔は確認できませんでした。鞄も持ってないことから訪問販売の類でないことは一目瞭然です。
しかもそいつ、ずっとドアに頭を打ち付けてるんです。さっきの音はこれだったわけなんですが、あまりにも気持ち悪すぎて、俺はすぐにそこを立ち去りました。
よほど嫌なことがあったのか、ヤバい人なのか。部屋に帰っても、あの男のことが気がかりでなりませんでした。
今思うと、俺はこのときすでにあいつの術中にはまっていたんだと思います。
事態が動いたのは、数日後です。
会社から帰ると救急車が一台、マンションの近くに止まっていました。まさに搬送真っ只中で、現場があのリーマンを見た民家だったため通り過ぎることが出来ませんでした。
「何があったんですか?」
俺は近所のコンビニのおばちゃんに聞いた。
「熱中症らしいよ。そこの家の人でね、よく来るお客さん」
「男?」
「そうよ。一人暮らしなんですって」
そう聞いて、俺はあのリーマンのことだと確信した。あれだけ沈んでいる様子だったんだ、疲労で体調を崩してもおかしくはありません。
――何だ、思い過ごしか。
ただの気苦労だったと帰ろうとしたその時、民家の中から消防隊が担架に人を乗せて出てきました。
「え……」
驚きました。てっきりリーマンが担がれてくるかと思いきや、担架に乗せられていたのはただの老人だったのですから。
「え? ご老人なの?」
「そう。今年の夏も暑いからねぇ……具合も悪くなるわよ」
「あれ……もっと若い人じゃなかったっけ?」
「違うわよ。あのおじいちゃんはずっと一人。息子さん、別のところに住んでるの」
そこまで話すと、俺はもうその場にいないほうがいい気がして、アパートに戻りました。
寒気が止まらない。
ただの年寄りが熱中症で倒れただけというのに、この異常な気味の悪さは何か。
でも、予感は現実となりました。
2日後、民家の前にはお通夜の看板が立っていました。
帰宅最中の俺は思わず手から鞄を落として、しばらく茫然としていたと思います。
後で知ったのですが、死因は確かに熱中症だったらしいです。
しかし、不可解なことに老人の身体は異常に衰弱していたそうです。それにもかかわらず、発見時、窓は全て締め切られていたみたいで、エアコンに至っては点いていた形跡もないとか。
変だと思いましたが、不運な事故だと自分の中でそう片付けました。深く考える必要なんてないんです。元々、自分には関係のない人間の死なのですから。
それから数日、俺は何もなく過ごしていました。
執筆はと言うと、気が進まず放置状態です。なるべく思い出したくなかったのです。あのリーマンのことを。
だけど、その日は突然やってきました。
あろうことか、俺の上の階で。
その日、俺は残業でくたくたになっていました。心身ともに疲れきった俺は、半分寝そうな足取りでマンションの階段を上っていました。
「あれ……」
案の定、俺は疲労の勢いで回数を間違え、一つ上の階まで登ってしまっていたのです。
間違いに気づいた俺は戻ろうとしましたが、ふと、辺りがやたら溝臭いことに、俺は足を止めました。
いや、動けなくなたのです。まるで、金縛りにあったみたいに――
……ドン……ドン……ドン。
聞き覚えのある物音に、俺の心臓は止まりかけた。
ドン、ドン、ドン――
物音は強さを増し、間隔は次第に狭まっている。
何かに取り憑かれたのか、俺の身体は俺の意に反して、階段の踊り場を上り、上の階の通路を覗き込んでしまいました。
そこには、あのリーマンがいた。
ドン、ドン、ドン、ドン、ドン――
相変わらず彼は頭をドアに打ち付け、それ以外のことに見向きもしませんでした。
暗くて顔はやはりわからない。だけど、とんでもないことに俺は気付きました。
リーマンの足元がびとびとに濡れているのです。全身に目を凝らすと、川にでも落ちたのか頭の先からつま先までびしょ濡れで、ヘドロや藻のようなものがスーツにこびれついていました。
この臭いだったのです。あの溝みたいな異臭は。
あの日は雨だったから気づかなかった。この男は明らかにおかしい。この辺りには川も池もない、あんな姿でここに来られるはずがはい。
――やばい。
我に返った俺は真っ先に自分のマンションから逃げ出しました。部屋に帰れる勇気なんてありません。必死に駅まで走りました。
やっと後を向けたのは、駅に着いたときです。
奴の姿はない。ひとまず安心した俺は、近くのカプセルホテルで朝を待つことにしました。幸い次の日は休みでしたし、朝日が昇ってから家に帰ることが最善の策と勘は言っていました。
でも、それまでの時間が地獄でした。
あいつが来るんじゃないかと脅えながらの夜明かしは、俺の人生の中で最も辛い経験と記憶に焼きついています。
そして、朝を迎えた。
いつもに増して重い身体を引きずりながら帰路につくと、パトカーが止まっているのが見えた。
精神がおかしくなりそうでした。
俺のマンションの入り口を警官達が「KEEP OUT」のテープで封鎖し、ブルーのビニールシートで人目を遮断しているのです。
まさに、あれです。ニュースで見る殺人事件の現場捜査と同じです。
住人と言えど通してくれる気配がないため、俺はどうしていいのかわからずキョロキョロしていました。
その際、一人の警官が半泣きの女性に話を聞いている様子が目に入りました。彼女は酷く動揺しているようで、顔は真っ青です。
一体何があったのか、恐る恐る、俺は近くの警官に声をかけました。
「すみません。俺、ここの住人なんですけど……何があったんですか?」
「あ、ご迷惑をおかけしてます。今ですね、最上階の部屋の方がお亡くなりになりまして、現場検証中です。もう少々時間が掛かりますので、ご協力をお願いします」
「まさか、殺人事件とかですか?」
「いえ、これから調べることになります」
その会話の最中、警官の背後をブルシートに包まれた何かが通過していった。
――上の住人だろう、あの中にいるのは。
半泣きしていた女の悲鳴を聞いた時、女々しくも俺は気を失いそうだった。
そんな様子だから、警官も不審に思ったのでしょう。
「……すみません、ちなみにお部屋はどちらですか?」
「え?」
「あなたの」
「あ……○○号室です」
「……真下か。すみませんが、任意でお話聞かせていただけませんか?」
断る理由はなかった。だけど、警官の視線はやたら癪に障った。
聞かれたことは、やはり上の階の住人についてでした。変な物音はしたか、不審な人物を見なかったか、など予想通りの内容です。
当然ですが、俺はあのリーマンのことを口にすることは出来ませんでした。
だって、気づいたんですよ。あいつ、あんなにずぶ濡れにもかかわらず、俺が上がってきた階段には水滴一つ落ちてなかった――
「――ありがとうございます。もう少しで、立ち入り禁止も解除しますので」
「……あ、はい」
警察は部屋には鍵がかかっており、チェーンもしてあったと言った。
じゃあ、あいつはどこから来たのか。
思い出してる今も吐きそうになる。
この警官にはとりあえず、妙に物音がうるさかったとだけ話しておいた。それは事実だったし、現に執筆活動に励もうとしていた際も、そのせいで集中力を欠いて――
「……あれ」
部屋に帰った時、俺を待ち構えていた伏線の回収劇に言葉を失った。
パソコンの電源が点いている。身に覚えがない。
キーボードを見下ろしたとたん、俺は悲鳴を上げ腰を抜かした。
「うわぁぁぁ!?」
一面が苔と泥のようなもので塗れていたのです。そして、電源の入ったディスプレイにはこんな文字が。
『つ ぎ』
あのリーマンは俺に何を訴えているのか、その時はわからなかった。ただ恐怖に支配された俺は、気が違ったように部屋中の隙間と言う隙間をガムテープで塞いだ。この暑い中、風さえ通る隙も与えず、俺はその密室で眠れぬ夜を過ごし続けたのです。
後日、上の住人の死が熱中症であったと知らされた。遺体は浴室で発見されたらしいが、その室内温度は捜査に入った警察官でさえも気を失いかけたほどであったらしい。異常な湿度にも関わらず、部屋は締め切り、これもまたエアコンを点けていた形跡はなかったと言う。
以上のことは、捜査に再び訪れていた警官(俺に事情聴取をした奴)が、教えてくれた。変死と言うことでマスコミにも小さく取り上げられてた気がします。
ご覧の通り、俺は知らぬ間に彼らと同じ行動心理を体現していました。
何でこの街には事故物件が多いのか、答えはこれです。身を以て、首を突っ込むべきでなかったと後悔する毎日でした。
それからの生活はと言うと、極力、会社には行っていました。ストレスから出勤中に何度もゲロを吐きかけたことでしょう。でも、一人でいるよりはマシだったのです。
誰かと話しているほうが何倍も。
「お前、最近顔色悪りぃよ? 大丈夫か?」
「何か……胃腸系がやられたみたいで、飯食うの辛いっす」
「マジか。仕事で何かあったか?」
「いえ、ちょっと彼女と一悶着あって……」
「ストレスまでなるって相当だな……まぁ、何かあったら言えよ。相談ぐらい乗るぜ?」
「ありがとうございます。そん時はお願いします!」
具合が優れなさそうなのは誰が見ても明確で。俺は度々、こんな感じに彼らの質問をはぐらかしました。本当のことなど言えない。言ってしまったら、何らかの迷惑が掛かる可能性だって否定できない。
だけど、心配して先輩達が声をかけてくれる、この優しさが今の救いだった。
破局秒読みの振りをして、何度か先輩や友達の家に泊まりこんだ日も少なくなかった。実際、彼女とは少し前に別れていたし、付き合っていたころのことをあまり人に話してはいませんでした(話す暇がなかった)ので、都合のいい風に思い出を捏造するのは簡単でした。
何日も何日も、俺はこれでやり過ごせました。あいつは一向に現れる気配がない。
とにかく無理やりにでも笑っていれば、気を明るく持っていれば、奴は来ないと信じていた。根拠もなく、俺は信じていました。
だから、もう諦めてくれたんだろう。平穏な生活に俺はそう確信していました――
「ん? 水道が詰まってるな……」
「本当だ。使えなくなると厄介ですね。業者呼びます?」
「そうするか」
男子トイレでの会話でした。俺の勤め先の会社は小さなビルのワンフロアを占めていますが、トイレはオフィスの外にあります。各階に一つずつ備えつけられていますが、他社の社員がいるため自分のフロア以外のトイレは何となく使いづらい雰囲気がありました。
なるべく、その展開は避けたい。
何気ない理由から、ビルの管理会社に業者を呼んでもらいました。水道は完全に詰まっていたわけではないため、思ったよりも早く工事は済みました。
ただ、
「何か流したんですか?」
「……え?」
「こんなもん詰まってるなんて異常ですよ。普通じゃあり得ない」
業者に呼び出されトイレに着てみれば、見せられたのは大量のヘドロと水草――
「オフィスで魚飼ってる奴らが、わざわざここで水槽の掃除でもしてたんじゃないのか?」
「……最悪っすね……」
「だな! 管理会社には報告して注意書きでも作ってもらうか」
俺はその時先輩に同調するしかなかった。一刻も早くこの場から逃げ出せないかと気が気でありませんでした。
場所など関係なかった。あいつにとって、いつ俺を殺そうかなんて、自由だったのですから。
その日、何かの予兆か午後から雷を伴う大雨に見舞われた。首都圏の交通が悉く停止しかけると、会社はすぐに社員に帰宅を促しました。
俺が最寄のバス停に着いたのは、5時近くだったか。終点近くだったため、バスには俺を含め数人しか乗っていませんでした。
バスを降りると、反対車線にも滑り込むようにバスが停まり、乗客を下ろして走り去ったのです――
「……」
果たして、降ろしたのは乗客、いや、人間だったのでしょうか。
向かい側の公園で、俺と対峙するように佇んでいるアレは、人間のはずがありません。
あんな腐乱した肉体を、生きている人間と認められるはずがない!
「あああああぁぁぁぁああぁぁぁぁッ!?」
逃げた。無我夢中で走った。
少し離れていたのにはっきり見えた。今でも鮮明に思い出せる。
脹れ上がった白い顔、目玉のない暗い眼。頭蓋骨の輪郭にそって、その腐った肉は今にも垂れ落ちそうだった。
あいつの仕業か、通りには誰もいなかった気がします。誰とも会わずに、文字通り死ぬほど走って、部屋に飛び込んだ。鍵やチェーンを閉め、引き出しからお守りや数珠などを引っ張り出し、それに縋って震えていました。
暑かった。気絶しそうなくらい。だが、エアコンなんかつけられる余裕なんかありません。なぜなら――
ピチャ。ピチャ。ピチャ。
俺は相当な速さで部屋まで走って来たはずです。数分もしないうちに雨水より滑り気のある足音が、マンションの通路から響き、止まったのです。
俺の部屋の前で。
ドン、ドン、ドン――
始まった。あいつがドアに頭を打ちつけ始めた音だと、すぐにわかりました。
破裂しそうな心臓を抑え込んで、お守りを片手に布団を被った。持久戦に耐え忍ぶ覚悟で、俺はいるかもわからない神様に命請いをしていました。
ドン、ドン……ドン……。
突然、音が小さくなった。諦めてくれたのかと、俺は身を起こしました。
でも、その時――
ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ!
激しい殴打に俺は飛び上がった。怒り狂うようなノックの勢いは増して、
ガン! ガン! ガッ! ガッ! ガッ!
鋭利な硬い音も混ざってきました。何か金属のような物がドアにぶつかっている感じがしました。
――何をする気だ。
焦った俺は布団から飛び出し、ついにドアの覗き窓からヤツの顔を至近距離で見たのです。
腐敗臭の中で俺は息を呑んだ。白く腐乱した顔面は一心不乱にドアに頭突きをかまし続け、ペチャペチャと自分の一部を撒き散らしていました。剥き出しの歯茎と、目玉のない穴から水草と虫のような何かが飛び出ているのがわかりました。
だけどその顔には、想像もしなかった恐ろしい闇が隠されていたのです。
「ひっ……!」
俺は恐怖のあまり動くことも声も出せずに、ドアの向こうの気迫に押し殺されそうになっていました。
ガッ! ガッ! ガッ!
この音の正体はあいつの額にありました。腐った皮膚と滑った髪の境目に、釘が何本も打たれていたのです――
「や、やめろッ!」
溝の悪臭に咽ながら、俺は叫んだ。あいつは俺の精神を破壊するか、このドアを開けさせるまでこの行為をやめるつもりはないと感じました。
助けて欲しいのか。俺の命が欲しいのか。
わかならい。わからないけれど、一つだけ確かに言えることがあった。
こいつは間違いなく、額の釘を打ち付けている。かなりの太さがあるこの釘をもっと深く自分の頭に突き刺さるように、自分で自分を痛めつけているのです。
僅かでも冷静な自分がいたことが、俺が今ここにいることに繋がったんだと思います。
わかったんです。こいつの目的が――
「……違う……死んでんだよ、お前!」
ガッ! ガッ! ガッ! ガッ! ガッ!
「だから死ねぇんだって! そうやったってダメなんだよ! 俺は何もできねぇんだって!!」
ガッ! ガッ! ガッ! ガッ! ガッ!
「頼む、消えろよ! 俺は死にたくないッ! 死ぬのは嫌だ、頼むからッ!!」
ガッ! ガ……。
止まった。
こんな感じのことを俺はあの時叫んでいたと思います。何せ、記憶が定かではないんです。
気がづいたら、病院の中だった。
熱中症で倒れていたらしい。雨で帰れなくなった元カノ(退勤直後に電話があった)が泊まりに来たおかげで、俺は危ないところを助けられたらしい。
その後、俺の生活は嘘のように平穏に戻りました。
生きたいと願ったのか良かったのか、死んでると伝えたのか良かったのかはわかりません。
よくわからないけれど、あいつが俺に付きまとうことはありませんでした。
だから、最後に皆さんに伝えたいのは、好奇心でこういうことに首を突っ込んではいけないと言うことです。
運悪く見えてしまったとしても、絶対に。
――――
ごめん。やっぱり、ここで終わるのは嘘になる。
これだけは書くのをやめようと思いましたが、ここまで話して己がやらかした過ちを告白せざるをえません。
例え、どんな非難を受けようとも俺はそうするしかなったのです。
実は、あのリーマンはまだ近辺を徘徊しています。
たぶん、自分を殺してくれる人間を探しているのでしょう。いるわけもないのに。
あいつを最後に見たのは、この事件から3ヶ月後くらいです。その時は、まだ終わっていなかったのかと絶望に心が打ち砕かれそうになりました。
でも、今度は俺じゃなかったんです。
「……どうしたの? おじさん」
次の標的の家だったのか、あいつが佇んでいたところを不審に思った子供が一人、ヤツに話しかけてしまったんです。
俺は物陰でそれを見ていました。見ていましたが、悪魔の囁きに俺は魂を売ったのです。
その子を助けることなく、見殺しにしました。
人間の命が平等なら、幼い命だと言って助ける道義などどこにありましょうか。俺は生きたいのです。死にたくないのです。そう願って何が悪いのでしょうか。
ヤツは間違いなく、あの子の元へと現れたと思います。あの子の心が強ければ、あいつから生を勝ち取れるだろうと俺は無情な運命論を固く信じていました。
軒先の葬列を見ても、俺の考えは今も変わりません。
一番恐ろしいのは人間です。
俺はこの経験を味わって思い知りました。
あのリーマンよりも、あのリーマンの額に釘を打ち込んだ人間の方が恐ろしい。
彼は今も暗い水の底で、微生物の餌となっているのでしょうか。はたまた、すでに事件は解決されているにもかかわらず、そのことを知らずにさ迷っているのでしょうか。
とにかく、俺は明日引っ越します。
長々とありがとうございました。以上が、俺の体験談です。
豆腐メンタルなので、直前までアレ的なキーワードを「スタンド」に置き換えてました。彼は今、元気です。