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Call my name-心に響く声-  作者: 橙子
番外編
37/37

慎吾&亜衣子編

最後はやっぱり、このふたりで。


─────それは、ささやかな日常の一コマ。




 高校二年の秋。教室の引き戸のそばで渡部と話していた慎吾は、数メートル離れたところで困ったような顔をしている亜衣子に気が付いた。


「あ、笹野、もしかして通るのか? ごめんな、気がつかなくて」


 高校二年ともなると、既に身体は大人とほぼ変わらない。そんな大きい男子が二人、出入り口のそばで固まっていたら、内気な女子には通りづらいだろう。みずからの気の利かなさに辟易しながら、慎吾はすいと身を引いた。渡部はとうに場所を移動して、通り道をあけている。さすがに長くつきあっている彼女がいると違うなと、高坂は素直に感心する。


「ごめんなさい、自分でちゃんと言うべきだったのに……」


 ほんとうに申し訳なさそうに亜衣子が言うのに、慎吾はかぶりを振る。


「いや、こっちが悪かったんだから」


 笑顔で言ってやると、亜衣子はようやくホッとしたような表情を見せて、「ありがとう」と言いながら慎吾の前を通り過ぎようとした…のだが。


「痛…っ」


 その声に驚いて思わずそちらを向くと、まだ暑かったので上着を脱いでワイシャツだけになっていた慎吾のシャツのボタンに、亜衣子の長い髪の一部がひっかかっていて……通り過ぎる際に、からまったのだろう。


「えっ あっ ごめん、大丈夫か!?」


 慌ててひっかかっている髪の手前の部分をつまむと、信じられないくらいのやわらかさとさらさらした感触。自分の硬い髪とはまるで違う感触に、心臓が早鐘のように鼓動を訴え始める。


「ごめんなさい、私のほうこそ……すぐほどくから、少し待ってね」


 俯き気味の亜衣子の顔も赤くなっているように見えるのは、果たして気のせいだろうか。自分の節くれだったものとはまるで違う細い指が、ボタンにからんだ髪をほどこうとしているが、よほど複雑なからみ方をしてしまったのかなかなか解けないようだ。亜衣子の表情に焦りが見え始める。それを見た慎吾は、ひとつの決心を固める。


「おーい、誰かハサミかカッター持ってないかー?」


 教室内に向かって声を張り上げると、休み時間のために思い思いに過ごしていたクラスメートたちが一斉にこちらを向いた。


「俺、ちっこいカッターなら持ってるけど」


 普段から仲良くしている男子の一人が、ペンケースから小さなカッターを持ってきて、慎吾に手渡す。


「あ、そうね。最近切ってなくて不揃いになってるし、この際だからそこだけバッサリやっちゃって」


 ホッとしたように亜衣子が言う目の前で、カッターの刃を出した慎吾は無言のままで目測していた位置に刃を当てて、スパッと切った。ただし、亜衣子の言った髪の部分ではなく、みずからのワイシャツのボタンを縫い付けていた糸を。カツ…と小さな音を立ててボタンが落ちて、からまっていた亜衣子の髪の毛先が、ふわりと解放される。


「え……どうして…?」


 驚きを隠しもしない、亜衣子の声が慎吾の耳をつく。


「…だってさ。もったいねーじゃん。せっかくの綺麗な髪なのに」


 その瞬間、教室中から飛び交い始めるひやかしの意であろう口笛の音。


「うるせー、てめーらっ!!」


 あまりに恥ずかしくて、慎吾はそちらに意識がいってしまっていたから。その背後で、亜衣子の顔が真っ赤に染まっていることにも気付かなかった。


「ご…ごめんなさい、ありがとうっ!」


 かなり後になってから本人に聞いたことだが、やはりこの時は亜衣子も恥ずかしくて仕方がなかったので、それだけ言って走り去るのが精いっぱいだったのだそうだ。その後ひとり残された慎吾は、ボタンを拾ってカッターを持ち主に返してから、ひやかしてくる連中を黙らせるのに必死だったから、亜衣子の気持ちまで考える余裕はなかった。そしてその数分後に授業開始を知らせるチャイムが鳴り響いたので、皆即座に席に着いて────亜衣子もすぐに戻ってきたので、慎吾もホッとしながら席に着いた────教師がやってきて授業が始まった。


 そしてその次の時間は体育だったために、女子が更衣室に行ってしまった後、男子はそのまま教室で着替え始めて────男子更衣室もちゃんとあるにはあるのだが、面倒くさがってほとんどの男子は教室で着替えていたのだ────先刻落としたボタンを胸ポケットに入れたまま、他の上着や学生ズボンと共に机の上に置いて出ていってしまったから。慎吾は、その後そこで何が起こったのか知らない。


 更衣室で着替えた後の亜衣子が、「忘れ物を取ってくる」と友人に言い置いて、誰もいない教室に戻ってきたことも。亜衣子が自分の携帯用のソーイングセットで、手早く慎吾のワイシャツのボタンをつけ直したことも。そしてその後、ほんの数秒ほど何よりも愛しそうにそのワイシャツを抱き締めていたことも……慎吾は、知らない──────。


「あれー?」


 体育の後、何も知らずに教室に戻ってきた慎吾は、着替えようとしてボタンが全部ついていることに気付いて、驚きの声を上げた。


「どうしたよ?」


 近くにいた別の男子が問いかけてくるのに、無言でワイシャツのボタンを示してみせる。


「ボタンがどうしたってんだよ?」


「いや、このボタン、さっき糸をぶっちぎって取ったヤツなんだぜ? 帰ったらおふくろにつけ直してもらおうと思ってたのに、いま見たら全部ついてんだよ。誰がやってくれたんだろ?」


「靴屋の小人さんじゃねえの~?」


「わはははは」


 楽しげに笑う他の男子たちをよそに、慎吾は首を傾げるだけだ。その少し離れた席で着替えていた渡部が、何かを知っているかのような納得しているような顔で、何も言わないままその会話を聞いていたことも。慎吾は、何も知らない…………。




 そうして、それから四年後。


「え。じゃあ、あのボタンつけてくれたのって、亜衣子だったのか!?」


「だ、だって、私の髪のために取ってくれたんだもの、当然じゃない……」


 慎吾のアパートの部屋で隣に座りながら答える亜衣子は、とてつもなく恥ずかしそうだ。


「そんなの、気にしなくてよかったのに…俺むしろあの時は、ずっと触りたかった亜衣子の髪に意図せず触れてラッキーくらいに思ってたんだぜ?」


 自分はこんなに煩悩にまみれていたというのに、亜衣子はそんなに細やかな気遣いを見せてくれていたのかと思うと、何となく自分が恥ずかしくなってくる。


「だって、私あの時すごく嬉しかったんだもの……慎吾さんに髪を触れられただけじゃなくて、『綺麗な髪』なんて言ってもらえて…………とくにこだわりがあって伸ばしてる訳でもなかったのに」


 微妙に拗ねたように言う亜衣子が何だか可愛らしくて、黙ったまま腕を回してその背に流れる髪を一房軽く手に取ってみる。


「いまならこんなに簡単に触れるけど、あの頃はホントに触ってみたくて仕方なくて……夢にまで見るくらいだったってのに」


 まあ、触れたかったのは髪だけじゃなかったけれど……それは、言わないでおく。だいぶメッキがはがれたとはいえ、まだ亜衣子の中で息づいているに違いない自分に対しての偶像を、急いで壊すこともないだろうと思ったからだ────というのは体のいい建前で、まだ完全に自分の内面をさらけだすには勇気が足りないというのが本音ではあるが。


 それはともかく、指先だけで触れたあの時とは違って、手のひら全体で楽しむ亜衣子の髪の感触は、思っていたよりもっとずっといいもので。女の子の身体というものは、不思議なものだと慎吾に思わせる。


「同じ人間なのに、単に男と女ってだけでこんなに違うんだから、不思議なもんだよな」


「それは、私だって同じよ。私とだって全然違うし、同じ男の人でも祐真ともお父さんとも全然違うんだもの」


 父親はともかく、祐真とはそんなに変わらないと思っていたけれど、亜衣子にとってはそう思えるのかと慎吾にはますます不思議で仕方がない。


 まあそれもこれも、互いに勇気を出して想いを伝え合ったからこそ言えることで…………あの頃のままだったら、きっと一生わからなかったことだろう。




──────それはまだ、互いの想いになどまるで気付かなかった頃の、ささやかな日常の一コマ…………。

これで、「Call my name-心に響く声-」は完全に完結です。

最後までお読みいただいて、ほんとうにありがとうございました。

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