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Call my name-心に響く声-  作者: 橙子
慎吾編
28/37

君のためにできること


 祐真のアパートに着いて、亜衣子と彼女を尾けていたような男の後に続き、階段を上がりかけた慎吾は、その上がりきる手前で、男女の穏やかとはとても言いきれない声音でのやりとりを聞きつけた。


「は…放してっ 放してくださいっ!!」


「だってこうでもしないと逃げちゃうでしょ? 俺はただ話がしたいだけなのにさあ」


「やめて…っ 放してっ 誰か…っ!!」


「無駄だよ~、こんな平日の真っ昼間、普通の社会人なら仕事に行ってるだろうし、でなくてもこのへんはうちの大学の奴が多いからね、そんな奴らはバイトや遊びで忙しいしさ」


 完全に自分の優位を信じきっているらしい男の声が、癪にさわる。亜衣子の悲鳴にも似た声を聞いた瞬間、もう何も考えられなくなって、一気に階段を駆け上がって廊下を走り抜ける。


「い、や…っ 誰か…誰か、助けてっ!!」


 亜衣子の涙声ともいえる叫びと同時に、男の肩を力強く掴んだ。そしてそのまま、力の限り引き寄せて、アパートの廊下の端にある柵に向けてたたきつける!!


「─────え…?」


 亜衣子の茫然とした声を背に聞きながら、訳がわからないといった顔で立ち上がろうとする男の胸ぐらをつかみ、そのまま力ずくで立たせる。もう、頭の中には怒りしかなかった。


「こ…?」


「…何を……やってるんだ、貴様は」


「こ…高坂っ!?」


「何をしてるんだと訊いているんだっ!!」


 まだ状況がわかっていないらしい相手を、答える間も与えずに殴りつける。どうしても、許せなかった。亜衣子自身が好きな相手で、相手も亜衣子を本気で好きなのなら、慎吾としても何を言う気も何もする気もない。ただの友達である自分にそんなことをする権利も資格もないと思っていたから。けれど、嫌がっている彼女をどうこうしようなどという暴挙を、誰が許せるものか!!


「あ…ぐあっ」


 男の悲鳴にも似た呻き声に、一瞬冷静になってその胸ぐらを掴んだ手を緩める。これ以上やったら、顔や内臓にシャレにならないダメージを与えることになると、無意識にブレーキが効いたのかも知れない。


「二度とこいつら姉弟に近づくなっ! 次は本気で潰すからなっ!!」


「ひいいっ!!」


 逃げ出していく男の情けない声を聞きながら、無言のまま肩で息をして呼吸を整える。そしてすぐに、亜衣子のことを思い出して慌てて振り返ると、亜衣子はあまりの状況の急変に全身の力が抜けてしまったのか、玄関に上がる手前のところでへたり込んでいて……まるで放心しているかのような表情でこちらを見ていたので、心配になってしまった。


「─────笹野…? 大丈夫か……? 驚かせて悪かったな」


 男なら見慣れたケンカの光景でも、女の子には刺激が強過ぎたかと思い、できるだけ静かな口調で声をかける。その声にも反応がなかったので、恐る恐る顔を覗き込むと、その目に自分の姿を映した彼女の瞳の色が少しずつ現実味を帯びていって、いつもと変わらぬ光を宿し始めたので、ホッとして安堵の息をもらしかけた瞬間、


「こ…怖かった……!」


 何の迷いもない様子で亜衣子が慎吾の胸に飛び込んできたので、呼吸が一瞬止まってしまった。予想もつかない行動だったがゆえに、いつもなら負けないであろう亜衣子の勢いにおされてぺたりと尻餅をついてしまったが、それでも慎吾は亜衣子の身体をしっかりと抱きとめ、強く強く…抱き締めた。


「無事で……よかった──────」


 自分の胸に縋りついて泣き続ける亜衣子が愛しくて……すんでのところで救い出せた幸運に感謝しながら、想いのすべてを込めながら、壊してしまわないように細心の注意をはらいながら抱き締める。


 自分のものにならなくても構わないから。彼女が傷つくことがないように…いつでも彼女が笑っていられるように、守り続けていたいから。許されるなら、いつまでもそばで彼女の幸せを見届けていたいから、だから。


 普段は大して信じていない神や仏に祈りながら、亜衣子の細い身体をぎゅ…っと抱き締め続けていた。


「───────」


 やがて、彼女が泣きやんで、現状を正確に把握して恥ずかしそうな声と表情で謝りながら慎吾の胸から身を起こすまで。愛しい想いを隠すことなく、みずからの胸の中に誰よりも愛しい存在を包み込んでいた…………。




                *   *     *




 どれほどの時が経ったのか、慎吾にはわからなかった。やがて、泣きやんだらしい彼女が落ち着きを取り戻すのにも気付いたが、どうしても離れがたくて自分からは決して動くことをしなかった。このまま、時が止まってしまえばいいと思ってしまうほど、ずっとずっと、彼女の細い身体を抱き締めていたかった。


「あ……」


「ん? どうした?」


 自分の腕の中、胸にすがりついていた彼女が小さく身じろぎをしたことに気付いて、優しく声をかける。返ってくるのは、慌てふためいたような声。


「ご…ごめんなさいっ いくら非常事態だったからって、こんなことしていいなんて理由にはならないわよねっ し、シャツもぐちゃぐちゃにしちゃって……ごめんなさい、いま祐真の服を出すから、代わりにそれ着て、そのシャツ洗わせてっっ」


 恥ずかしいのか、鼻から口元にかけてを両手のひらで隠しながら、俯いたままゆっくりと慎吾の身体から離れようとする亜衣子に名残惜しさを感じながらも、慎吾はゆるやかに腕を解いて、彼女を解放する。彼女の言う通り、自分の着ていたシャツは水分でえらいことになっていたが、愛しい彼女を助けた結果だと思うとまるで気にならない。


「ちょ、ちょっと待ってて…っ」


 立ち上がり、履いていたミュールを脱いで中に走って行った彼女の行き先は洗面所。年頃の女性としては、さすがにそのままではいられなかったのだろう。見えないところから物音と水音が聞こえてきた後、泣きはらした目をして顔を真っ赤にした彼女が再び姿を現して、その痛々しい姿に胸の奥が小さく痛む。誰よりも護りたい彼女にそんな顔をさせる原因となった例の男に、新たな殺意が芽生えるのを自覚するが、不必要に彼女を怖がらせたくなかったので、懸命に自分の中で押し殺す。


「と、とにかく上がって、ああごめんなさい、そんなところに座らせちゃって、ジーンズも汚れちゃったでしょ、どうしよう…っ」


 今度は先刻までとは違う意味で混乱している彼女が何だか可愛らしくて、思わず苦笑混じりに声をかける。


「笹野…大丈夫だから、少し落ち着け。笹野が無事でさえあれば、俺はそれで満足なんだから。気にするな」


 それは、まぎれもない本音。たとえ、自分のものにならなかったとしても、彼女がいつまでも笑っていてくれれば、自分はそれで満足だから。


「あっ あのっ た、助けてくれて……ありがとう──────」


 恥ずかしくて顔を上げられないのか、彼女は俯いたままで告げるが、心からそう思ってくれていることはちゃんと伝わっているから、別に気にならない。けれど、その後間髪入れずに続いた言葉は、さすがに聞き捨てならなかった。


「わ…私がもっとしっかりしていたら、あんな人につけ込まれたりもしなかったはずなのに……」


 まさか、よく聞く「痴漢などに遭うのはその女性に隙があるからだ」などという極論を信じているのか!? そんなことがあってたまるか。無言で靴を脱ぎながら中に上がって、亜衣子の頭をもう一度軽くたたく。


「そんなのは関係ないさ。しっかりしてようがしてまいが、つけ込む奴はつけ込むし、つけ込まない奴はつけ込まないよ」


 だから気にすることはない。


 そう続けながら、亜衣子が胸に抱き締めていたTシャツをスッと抜き取って、顔を上げた彼女に何気なさを装って訊ねる。


「これ、借りていいんだろ?」


 彼女がこくこくとうなずくのを見てから、深く考えることもせずに自分が着ていたシャツをその場で脱ぎだした…のだが。服越しに耳に届く小さな悲鳴に、ようやくハッとする。見ると、ついさっきまでこちらを向いていた亜衣子が、今度は完全に背中を向けていることに気付いて、しまったと思う。


「…あっ ご、ごめ…! 俺んち、女はおふくろしかいなかったから、ついいつもの癖で…」


 そうだった。亜衣子は身内の女性やバイト先の主婦たちとは訳が違うのだ。母親や叔母のみゆきは気にするどころか、「やっぱり若いお肌は違うわねえ」などと言いながら下も見たがるような相手だったから────もちろんそっちだけは死守して決して見せはしないが────まるっきり頭から抜け落ちていた。


「だ、大丈夫……祐真やお父さんで見慣れてるのに、私ったら…」


 明らかに平静を装いながら振り返って笑う彼女が、何だかいじらしい。


「じゃあ洗っちゃうから、そっちのシャツ貸して。この天気なら、いまから洗って干しても今日中には乾くから」


 素早く借りたシャツを着た慎吾の手から、脱いだばかりのシャツを受け取って洗濯機に向かう後ろ姿からも、彼女の動揺が見える気がして、こちらまで何となく気恥ずかしくなってしまう。上半身など、高校時代の体育の時やプールなどでも惜しげなく晒していた気がするが、そういえばそんな状況の時に亜衣子に面と向かって会ったことがなかったことを、いまさらながらに思い出す。もしかしてあれは、亜衣子のほうがこちらを避けていたのだろうか? 亜衣子の性格からして、あり得ないことじゃない気もする。逆に女子がプールに入る時などは、水着姿の彼女を真正面から目にするのが恥ずかしくて、横目や遠目で見るようにしていた自分自身のことも思い出してしまい、何となくばつが悪い思いを味わってしまう。渡部や他の友人たちからは、どこの中学生だよなどとからかわれたこともあるが、テレビや本で見る女性たちと亜衣子とでは、高坂にとってはまるで違うのだ。彼女の水着姿をマトモに見てしまったら、自分でもどこまで平静を保てるかわからなかったから、あえて正視しないように気をつけていたのだった。


 何を……やってたんだろうな、俺たちは。


 あの頃は、自分自身のことだけで手いっぱいだったけれど。いまなら、互いの考えていたことがわかるような気がするから不思議だ。


「とりあえず、こんなものしかないけど…どうぞ」


 そろいのグラスに冷たい麦茶を淹れて、亜衣子が戻ってきたのを見て、不毛な思考を打ち切る。


「あ、ありがとう」


「もう少ししたら、簡単なもので悪いけどお昼作るから、よかったら食べていって」


 その言葉にほとんど無意識に時計を見ると、なるほど時刻は昼の十二時を指していた。そういえば、と彼女の唇が小さく言葉を紡ぐ。


「高坂くんは…今日は何時まで時間大丈夫なの? 何か用事とかあるんじゃないの?」


「ああ、俺は今日は大丈夫だよ、とくに何も予定はない。むしろ暇してたぐらいだから、祐真に笹野の相手しててくんないかって頼まれたぐらいだし」


「え…っ」


 亜衣子の焦りを含んだ反応に、これは言うべきではなかったかと思いかけるが、そうなるとどうして慎吾がいつまでもここに居座っているのかということになり、つい先刻怖い思いをしたばかりの女の子に不必要な緊張と不安を味合わせることになると気付いて、やはり言っておいたほうがいいという結論にたどり着く。


「あ、祐真を責めないでやってくれな。あいつなりに姉貴を心配してのことなんだから。昨夜も独りで心細い思いをしたってのに、今日もこっちで独りじゃ意味ないだろうからって」


「祐真ったら、そんなことまで話したの!?」


 亜衣子の顔が瞬時に紅潮するのを見て、やはり可愛いと思ってしまう。


「でも結果的にはよかったよ。まさか、あんなバカヤローが出てくるとは夢にも思ってなかったから」


 ほんとうに。まさか、いまさらあんな危険人物が現れるなんて、夢にも思っていなかった。亜衣子も明らかにそんな気はないようだったし、祐真に追い払われたあの時点で普通なら諦めそうなものだが……ああいう奴が、いわゆるストーカーと呼ばれる類いの人種になるのだろうなと慎吾はしみじみと思った。自分には、まったく理解できない心境だけれど。


 そんなことを思っていたから、亜衣子の顔色がついさっきとまるで真逆のものになっていることに気付くのが遅れた。そうだ。一番怖い思いをしたのは、いま目の前にいる亜衣子自身なのだ。昨夜独りで心細い思いをしたばかりだというのに、慎吾が後ろから追って来ていたことも知らぬまま、自分ひとりの力ではどうしようもできない脅威にさらされて、亜衣子がいったいどれほどの恐怖を味わったのかと考えると、それだけで胸が痛くなる。


「…同じ大学の奴だからって訳でもないけど、男がみんなあんな奴ばっかりなんて……できれば思わないでくれ。大半の奴は、ちゃんと常識と礼儀をわきまえてるから。あんな奴は、それこそ滅多にいるもんでもないから」


 どれだけ努力したとしても、男である自分には亜衣子の心情を完全に理解してやることはできないから────まあこれは、まったく同じ体験をしたことのない同性でも同じことだったろうけど────せめて、男の全部があんな人間ではないことだけでもわかってほしくて、そんな言葉を口にしていた。善良な男性陣すべての気持ちを代弁したというより、何より自分自身があんな奴と同じような存在だとは亜衣子に思ってほしくなかったから、というほうが正しいだろう。亜衣子のためというより、誰でもない自分自身のエゴを彼女に押しつけているという自覚はあったが、言わずにはおれなかったのだ。けれど、返ってきたのは、慎吾の予想に反して明るさを取り戻しつつある彼女の言葉だった。


「大丈夫よ」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「男の人がみんながみんな、あんな人だとは思ってないから」


 その言葉に、思わず顔を上げていた。視線の先で、決して無理をしているようには見えない笑顔で、亜衣子が続ける。


「女の人だって、いい人もいれば悪い人もいるし。一部がそうだからって、一概に全員がそうだなんて思わないわ。同じ男の人でも…高坂くんみたいに、いい人だってたくさんいるの知ってるし」


 恥ずかしかったのか、最後のほうは俯きながらの言葉だったが、慎吾の耳にはちゃんと最後まで届いていて。言葉の意味を正確に理解すると同時に、口元が自然にほころんでいくのを、慎吾は止めることができなかった。ちらりと上目遣いでこちらを見やる彼女の姿がまた可愛らしくて、愛しい想いを隠すことなく穏やかな瞳で彼女を見つめる。慎吾がいまどんなに嬉しいか、彼女はわかっているのだろうか? あんな目に遭ったばかりで、男というだけで拒絶されても仕方がない状況だというのに、誰でもない彼女にそう言ってもらえることが、どれほど慎吾の心を救ってくれるのか─────きっと彼女は知らない。


 再び俯いてしまって顔を上げられないらしい彼女に、何と声をかけてやればよいのか思案しているうちに、洗濯を終了した旨の電子音を告げる洗濯機。ホッとしたように立ち上がってそちらに向かう彼女の背に、万感の想いを込めてそっと告げる。


「ありがとう─────」


「…ちょ、ちょっと待っててね。これ干したらお昼作り始めるから」


 照れ隠しなのか、こちらを向かないまま言う彼女に、できるだけ何気なさを装って話題を変える。


「何か手伝おうか?」


「大丈夫、ほんとうに簡単なのしか作らないから。材料も大したものないし」


「今度、料理教えてくれないか? 俺ホントに簡単なのしか作れないから、いい加減飽きてきちまって」


「私でよければ」


 よかったと思う。心の傷はまだ癒えないだろうけれど、少なくとも自分のことを敬遠するような素振りは見えない。ただの友達でもいい。彼女の心の拠り所のひとつにでもなれれば、自分はそれでいいから。一日でも早く、彼女が元の明るさを取り戻してくれればいいと……そっと思う。


 それから。慎吾も手伝って亜衣子の作った昼食を食べてから、こちらに来る途中で借りてきた映画のDVDをふたりで観たりして過ごした。映画はかなり古いものだったけれど、世間ではオーソドックスな名作といわれているもので、亜衣子も楽しんでくれているようで安心する。あとは、簡単な料理のレシピを教わったりして、亜衣子のレパートリーの多さに改めて感心したり、意外な組み合わせに純粋に驚いたりと穏やかに過ごした。こんな穏やかな時間がずっと続くといいと、内心で願いながら……。



 やがて、時刻は夕刻に近づいて。


「祐真は夕飯は家で食べるって話なのよね。高坂くんも一緒に食べていけるでしょ? 材料もロクにないし、私ちょっと買い物に行ってくるわ」


 そう言って、亜衣子がスーパーにでも買い物に行こうと思ったのか立ち上がりかけるのに、慎吾も続く。一緒に行くと告げると、驚いたような反応を見せる亜衣子をうまく言いくるめて、自分のTシャツに着替えて同行した。いまの彼女を独りで外出させるのは不安も残ったし、何より一時でも離れていたくなかったから。


 亜衣子もやはり多少は不安に思っていたらしく、慎吾の提案にとくに異を唱えることもなく、共に祐真の部屋を後にした。


「高坂くんは、何が食べたい?」


「んーと…やっぱり和食がいいかなあ」


「お肉よりはお魚のほうがいいかしら」


「そうだなあ、前は肉じゃがを作ってもらったから、今度は焼き魚か煮魚とかがいいな」


「そうねえ、いまの時期なら鰈の煮魚とか……焼き魚だと種類が多くて迷っちゃうなあ」


 近所のスーパーの中で、そんなことを呟きながら亜衣子が鮮魚売り場を見にいくのを二、三歩遅れて続こうとしていた慎吾の耳に、主婦らしい年配の女性たちの会話が飛び込んできた。


「まあ、奥さん見て見て」


「あらあら、可愛らしい若夫婦だこと」


「あら、夫婦じゃないみたいよ、名字で呼び合ってたもの。まだつきあい始めの恋人同士とかかしらねえ」


「じゃあ今日は彼女がご飯を作ってあげるのかしらねえ、私も若い頃を思い出すわ。結婚前の主人はまだぺーぺーのサラリーマンでねえ」


「あら、奥さんは恋愛結婚だったの? うちなんてお見合いで、会って三ヵ月で結納よー」


 後はすっかり自分たちの思い出話に移行してしまったが……本人たちは内緒話のつもりだったかも知れないが、その前の会話はしっかりと慎吾の記憶に刻まれていて。はたから見ると、自分たちはそんな風に見えるのかと慎吾は顔が紅潮しそうになるのを懸命にこらえる。


「ねえ、高坂くんはどれがいい?」


 何も気付いていないらしい亜衣子がくるりと振り返ってきたので、一瞬どきりとしてしまう。


「…どうかしたの?」


「い、いや、何でもない。で、何だって?」


「あのね……」


 慎吾にもわかりやすいように魚の違いを説明してくれる亜衣子の横顔を眺めながら、先刻の主婦たちの会話を思い出し、いつか、ほんとうにそうなれたらいいなと思う自分を止められなかった。まだ、告白すらできていないくせにと、嘲笑う自分も心のどこかにいるのもまた事実なのだけど。


「…と、いまの季節ならこんなところかしら。高坂くんは、何がいい?」


「あ、鰈の煮魚だっけ? それでいいよ。魚の旬なんて、秋刀魚ぐらいしか知らなかったなあ」


「野菜よりわかりにくいものね」


 言いながら、亜衣子は必要なものを手に取って、慎吾の持っていたカゴに入れていく。


「そういえば、前に約束したお弁当、もう少し涼しくなるまで待ってね。さすがにいまの時期はちょっと怖いから」


「ああ、全然構わないよ。ノロとかもあるし、一人暮らしで体調を崩すのは怖いからな」


「そうなのよねー。だから、祐真も変なもの食べてないかって母が心配してて」


 そんな風に、いつもと変わらないように見えたから、慎吾も午前中の出来事などすっかり忘れかけていたのだけれど。それはうかつな考えであったことを、その直後存分に思い知らされることになる。


 スーパーを出てから、こちらになどまるで気付いていない様子の男子校生たちが談笑している姿を見て、亜衣子の全身が小刻みに震えだしたのがわかったからだ。忘れられたように見えていたが、やはり心の傷はまだ生々しくて、こんなふとしたことででも恐怖と不安があふれ出してしまうのだろう。


 俺は……何をしてやればいい? 俺には何ができる?


 自問しても頭の中では答えが出ない。代わりに、身体が勝手に動き出していた。一向に震えが止まる気配のない彼女の肩にゆっくりと手を伸ばし、その細い肩をぐっと抱き寄せる。一瞬彼女の身体が大きく震えて慎吾の顔を見上げてくるが、決して目をそらさずにまっすぐ彼女の瞳を見やる。亜衣子は驚いたような顔を見せてはいるが、拒む様子はまるで見せなかったので内心で思わず胸をなで下ろしながら、さりげなく男子学生たちとは反対側になるように、荷物をもう片手に持ち換えながら彼女を誘導する。


「!」


 お互い一言も発さないままだったが、何も言わなくても互いの心の中がわかるような気がして────むしろ言葉が邪魔になるような気がして────何も言わずに歩き続ける。自分たちに気付いたらしい男子学生たちの間からひやかしの意であろう口笛も聞こえてくるが、慎吾はまるで気にしなかった。そんなことより、ようやく震えの止まった彼女の肩を支えてやるほうが大事だったから。こんなに華奢な身体で、どれだけ怖かったのだろうと考えると、自分にできることならどんなことでもしてやりたいと思う。たとえ彼女に気付かれないようなささいなことでも、労力を惜しむつもりはなかった。


 そんなことを考えていた矢先に、彼女の背に回していた腕に触れる彼女の髪が、微かに動いた気がして、ハッとする。心なしか、彼女の頭が少しずつ自分の肩に近づいているような…? 半信半疑なままよく確かめようとした、まさにその瞬間。


「…………何か。俺がいないうちに、すっかり仲良くなっちまったみたいだなー」


 バイト帰りらしい祐真の、驚きを隠そうともしない声が背後から聞こえてきて、慎吾の心臓が────恐らくは亜衣子のそれも────いまにも止まらんばかりに飛び上がった!!


「ゆ、祐真っ」


「ち、違うの、これはっ」


「あー、はいはい、今更言い訳しないでもいーっスよー。別に反対なんかしないし、むしろ賛成? な気分なんだから。あー、未唯菜ちゃんにも後で報告しとかないとなー」


「だから、違うんだってば!」


「頼むから、俺たちの話を聞けーっ!!」


 焦りまくったふたりの声が、ようやく薄暗くなり始めた空に響いた…………。

亜衣子編にて慎吾がタイミングよく助けに入れた理由が

これでおわかりになったかと思います。慎吾、頑張りました。

切るのにちょうどいい所がなくて、長くなってしまいました。

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