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Call my name-心に響く声-  作者: 橙子
慎吾編
24/37

大切な君だから


 その後は、もう必死だった。完全に意識を失ってしまったらしい亜衣子の身体を両腕で抱え、祐真たちが見つけてきた救護室に運び込み、ベッドに寝かせた後は救護室のスタッフに従って付き添いに未唯菜だけを残して、自分たちは部屋の端に置いてあった椅子に腰を下ろして彼女が目を覚ますのを静かに待つ。


「お話と状況から察するに、貧血で間違いないと思います。とりあえず、目が覚めるまでここで静かに寝かせてあげれば大丈夫だと思いますけど……もし本人が気分がすぐれないと言うようなら、今日はもうおうちに帰らせてあげたほうがいいわね」


「わかりました。どうもお手数をおかけしました、ありがとうございます」


 祐真や未唯菜と共に、三人で深々と頭を下げる。


「そばにいてあげてもいいけど、なるべく静かにね。他にも休んでる方がいらっしゃるから」


「はい」


 それだけ話すと、スタッフの女性は元の席に戻っていったので、慎吾はできるだけ静かに動いて、亜衣子の寝ているベッドの脇のカーテンを引く。白いシーツと白い上掛けの掛けられたベッドの上で眠っている亜衣子の顔色は真っ白で、一瞬同化して消えてしまうのではないかという錯覚を慎吾に与え、どきりとさせる。


 ただの貧血でほんとうによかったと思う。万が一にも亜衣子がいなくなるようなことがあったら、自分はもうどうしていいかわからないのではないかと思えるほど、彼女が大切だから─────仮に他の誰かにさらわれてしまったとしても、この世のどこかで幸せになってくれるなら……自分はきっと、それだけで満足だろうと思うから。彼女が何の憂いもなく笑っていてくれるなら、自分はもう何も望まないから、だから。


「高坂先輩……先輩も顔色悪いです、そちらの椅子に座って休んでください」


 悲壮な想いが顔に出ていたのだろうか、未唯菜が心配そうな表情と口調で声をかけてくる。


「あ…いや、俺は大丈夫。それより、君が座ってくれ」


「えっ 私は大丈夫ですよ」


「いや、女性が付き添っていたほうがいいと思うし、目が覚めた時君がそばにいたほうが笹野も安心すると思うから」


「…そうだな、未唯菜ちゃん、姉ちゃんについててやってくれるかな。俺たち、さっきのとこで座ってるから、何かあったら呼んで」


 祐真にまで言われては、未唯菜も了承するしかなかったらしく、こくんと小さくうなずく。ベッド脇の椅子に未唯菜が腰を下ろすのを見届けてから、祐真と共に先刻の椅子に戻り、それから抑えた声で祐真に話しかける。


「……ところで祐真」


「…わかってます」


 おやと思ってそっちを見ると、いつも明るい祐真には珍しい沈んだ表情で、心もち俯いている。


「俺、調子に乗ってました。姉ちゃんが苦手な物ちゃんと知ってたのに。あんなに怒った姉ちゃん見たの、小学生の時以来っス。だから甘えてました。姉ちゃんなら、俺が何やっても『仕方ないわね』って笑って許してくれるって」


 悔恨の念に押しつぶされそうなのだろう、祐真の表情はほんとうに辛そうだった。


「何で忘れてたんだろ、姉ちゃんだって普通の女の子なのに」


 きっと、近過ぎるからこそ忘れてしまうのだろう。そう思ったけれど、いまの祐真には何を言っても気休めにもならないだろうと思い、慎吾は沈黙を守る。慎吾だって、姉や妹がいたら同じようなことをしてしまったかも知れないから。


「いくら焦ってたからって、姉ちゃんを傷つけたら意味ないのに」


 焦ってた? いったい何に?


「おい祐真。『焦ってた』って、何の話だ?」


 真剣に訳がわからなくて、つい問いかけてしまう。その声を聞いた瞬間、祐真はいま気付いたかのようにハッとしたような表情を見せて、その表情はすぐに狼狽のそれに変わる。


「あ、いや…何でもないっスよ、気にしないでくださいっ」


「何だよ、言いかけてやめるなよ、気になるじゃないか」


「いや、ホントに何でもないんですったらっ」


 怪しいと慎吾は思う。祐真のこの反応は、何か隠している時の態度だ。


「それより、ちょっと姉ちゃんの様子見てきます。あんまり目が覚めないようなら、親父に電話するかタクシー呼んで病院に連れていきたいし」


「あ、ああ、俺も行く」


 何だかうまくごまかされた気もするが、亜衣子のことが心配なのは慎吾も同様なので、その後に続く。


「未唯菜ちゃん。姉ちゃん、どう?」


「まだ、目が覚めないみたい…もうすぐ一時間よね。どうしよう?」


 未唯菜も不安そうな表情だ。


「いま先輩とも話してたんだけど、親父に車で迎えに来てもらうかタクシー呼んで、病院に連れて行こうかって」


「そうね…それがいいかも。なら私、亜衣子先輩の身支度簡単に整えるから、二人はちょっと後ろ向いててくれる?」


「うん、わかった」


 そう言って、慎吾と祐真が後ろを向いて数秒ほど経った頃。


「ん……」


 小さな小さな声と、未唯菜の驚いたような声が迸った。


「亜衣子先輩っ!? 大丈夫ですか、気分はっ!?」


 その声に、反射的に振り返る。


「笹野っ!?」


「姉ちゃんっ!?」


「わたし……?」


「貧血を起こして倒れたんだよ。覚えてないか?」


 簡単に説明してやると、どことなく焦点の合わなかった亜衣子の瞳が、少しずつ現実味を帯びた色になって。頭だけ動かして周りを見回して、ようやく事態を把握したのだろう、表情が普段とそう変わらないものになるのにそんなに時間はかからなかった。それを確認してからか、祐真が唐突に一歩足を踏み出して深々と頭を下げたので、慎吾だけでなく亜衣子や未唯菜まで目を丸くしてしまう。


「姉ちゃん、ごめんっ! 姉ちゃんが絶叫系とかホラー系とか苦手なの知ってたのに、俺悪ノリし過ぎちって……ほんっとーにごめんっ!!」


 放っておいたら土下座に発展しそうな勢いの祐真に、亜衣子がふ…っと微笑みを見せた。


「もういいわよ、ちゃんと反省してくれてるなら……ただし。今度やったら、二度と部屋の掃除もご飯作りもやってあげないわよ?」


 どうせ、しばらく行ってない間にまたすごいことになっているんでしょ?


 そう続けた亜衣子に、祐真は痛いところを突かれたと言わんばかりの顔で胸を押さえて。その様子に亜衣子がくすくすと笑うのを見て、慎吾もホッとする。とりあえずは、大丈夫そうだ。


「あたしも一緒になって調子に乗っちゃったし、お詫びに祐真くんとこのお掃除その他、手伝います!」


 連帯責任のつもりか、未唯菜も手を挙げて申告したので、ちょっと驚いてしまう。もしかして未唯菜は、祐真のことを異性として好きなのだろうか? そう思うが、他人の恋愛に口を出すほど野暮なこともないので、慎吾は何も言わないでおく。


「まあそれはともかく。気分はどうだ? 起きられそうか?」


 ふたりの懺悔を遮るように慎吾が声をかけると、亜衣子は一瞬驚いたように目を丸くして、それから普段と変わらない表情と口調で応えてくる。


「多分、もう大丈夫だと思うわ。それよりみんな、ずっとついててくれたの? ごめんなさい、せっかく遊びに来たのに」


 まったく。こんな時にまで、他人のことを気遣うなんて、彼女らしいというか何というか。そう言って、亜衣子が起き上がろうと身を起こしかけたところで、未唯菜の慌てふためいたような声。


「先輩、待って!」


「え?」


 未唯菜が伸ばしてきた手の先を追って、亜衣子と共に上掛けのずり落ちた彼女の肩をつい見やってしまう。それから、初めてその意図に気付いたが、もう遅い。彼女が羽織っていたはずの上着が脱がされていて、上半身はキャミソール一枚になっていたことに! 下着どころか胸の谷間まで見えてしまって、慎吾の脳内を衝撃がすさまじい速度で駆け巡る。


「きゃあっ!」


「男性陣、回れ右!」


 未唯菜の鋭い号令と共に、慎吾と祐真は慌てて後ろを向いた。が、たったいま見た光景はあまりにも衝撃的過ぎて、慎吾の脳内に強烈な印象を残してしまった。


「先輩ごめんなさい、言い忘れてて……」


 未唯菜のほんとうに申し訳なさそうな声。


「う、ううん、大丈夫よ」


 慌てふためいたような亜衣子の声。


「と、とりあえず俺たちは表に行っているから。支度が済んだら呼んでくれ」


 それだけ言って、慎吾は祐真と共にそそくさと救護室を後にする。外に出ると同時に自販機に向かい、一気に飲めそうな炭酸の入っていないものを選んでボタンを押す。そうでもしないと、いまにも鼻血を噴いてしまいそうだったのだ。


 マジ待ってくれよ、生太腿に、押しつけられた胸の感触に、更には生の胸の谷間って、もしかして俺の自制心を試してるのかよ、神に仏よっ!


 とくに信心深いほうでもないけれど、そう思わずにはいられない。それくらい、今日は刺激の強過ぎる一日だった。


 そんなことを思っていたところで、隣で同じように飲み物を飲んでいる祐真がちらりと見てきたのに気付いて、視線で問いかける。


「……実の姉だとわかってても焦るのに、先輩にとっちゃよけいっしょ。大丈夫っスか?」


 言われた瞬間、ごまかすことも忘れ、口に含んでいた分を吹き出してしまっていた。


「な、ななななななっ!?」


 慌てふためいた慎吾を見る祐真の目は、同情的だ。


「何つーか、あそこまで鈍い姉ですんません。これぐらいすれば少しは接近してくれるかと思ったんスけど、姉ちゃんの体力まで配慮が足んなくて、ホント申し訳ないっス」


「いいいいいいっ!?」


 いったいいつからバレていたというのだろう?


「俺の忘れた弁当、ちょくちょく先輩が届けてくれるようになった頃からかなー」


 渡部にも言われたけれど、まさかほんとうにこんなにも多くの人数にバレていたなんて。それも、よりによって誰よりも彼女に近しい祐真にまで!!


「ホントは高校ん時から、家にさりげなく先輩を呼ぼうかと思ってたんスけど、なかなかうまくいかなくて、どうしようかと思ってたら俺のアパートの掃除に姉ちゃんが来てくれるようになって内心でやったと思ってたんスけど、どうも姉ちゃんネガティブに考えちまう癖があるから、最近来なくなっちって……ホントどうしようかと思ってたんスよね」


 まさか、祐真がそんなことを考えていたなんて思いもしなくて、慎吾はもう茫然とするしかない。


「今日はチャンスだと思って俺焦っちまって、先輩にまでよけいな心配かけちって、ホントすんませんっした!!」


 祐真が深々と頭を下げる前で、慎吾はすっかり放心状態だ。今日の祐真と未唯菜は何か変だと思っていたが、自分の想いを完全に把握していただけでなく、まさかそこまで考えていたとは……。


「いやあの、気持ちは嬉しいけど、こういうことは俺一人の気持ちでどうこうできる問題じゃないから……」


「何でっスかっ 姉ちゃんはどう見ても先輩を嫌ってなんかいませんてっ 俺、先輩が兄貴になってくれたら、最高に嬉しいんスよっ 案外姉ちゃんだって、先輩のこと好きかも知れないじゃないですかー」


 渡部にも言われたが、亜衣子が自分を好きだなんて、そんな夢のような話、現実にあるはずがないだろうが。


「先輩、男は度胸っスよ! 剣道やってる時の、あの燃えるような気迫はどこ行っちまったんスかっ!?」


 ルールをきちんと守ってさえいれば、相手を倒せばそれでいい剣道の試合と、何よりも相手の気持ちを重んじなければならない恋愛とは訳が違うだろうと慎吾は思う。それ以前に、相手は自分のたったひとりの姉だというのに、慎吾をここまで煽って祐真はどういうつもりなのだろう。もしも亜衣子が慎吾を好いていなかった場合、傷つくのは慎吾よりも亜衣子のほうではないのかと思うが─────亜衣子の性格上、たとえ嫌いな相手に告白されたとしても、断ることにより相手を傷つけることで自分自身も良心の呵責に苛まれるであろうことがわかっているから─────それはとりあえず表には出さないでおく。


 そんなことを話しているうちに、未唯菜と身支度を整えた亜衣子が救護室から出てくる姿が見えて、軽く手を上げる。


「ごめんなさい、お待たせして」


「あ、済んだか?」


「姉ちゃん、ホントに大丈夫か?」


「大丈夫よ」


「でも、無理はしないほうがいいな。そろそろ帰ったほうがいい」


「えっ 大丈夫よ、ハードなものに乗らなければっ」


 きっと、皆までつきあわせて帰らせるのは悪いと思っているのだろう、亜衣子の口調は必死だ。けれど。


「ダメだ。また具合が悪くなったりしたら、ご両親に申し訳がたたなくなる」


 取りつく島もないほどに毅然として言いきると、亜衣子は目に見えて落胆してみせた。そんな悲しそうな顔を見せられると慎吾の心まで痛んでくるが、ここで無理をさせてまた倒れさせてはならないと思い、心を鬼にして表情も厳しくしたままにしておく。ご両親がどうこうというよりも、慎吾自身が亜衣子を心配で仕方がなかったのだ。けれど、そこで予想外の人物の声が高らかに響き渡った。


「ちょっと待ってください、高坂先輩。亜衣子先輩自身は自分が乗りたいものに全然乗ってないんですよ、それで帰れってあんまりです」


 それまで黙っていた未唯菜だった。


「しかし……」


 あまりにも信じがたい相手からの反論だったので、慎吾もすっかり当惑してしまい、どうしてよいのかわからずに祐真のほうを見やる。すると祐真は、未唯菜を止めるでもなく逆に援護するような言葉を平然と言ってのけたのだ。


「じゃあ先輩、あれならどうっスか? あれならゆっくり動くし、ただ座ってるだけでいいから姉ちゃんにも負担にならないと思うんスけど」


 そう言って祐真が指差したのは、園内でも一番目立っている観覧車。それを見た慎吾は、自分の表情が安堵に彩られていくのを自覚した。


「確かにあれなら……小さい子どもだって大丈夫だしなあ」


 いくら貧血を起こした後とはいえ、あの中でただ座っているだけなら、亜衣子の身体にも余計な負担はかからないだろう。


「じゃあ決まり! あれなら周りの景色も見えるし、あれに乗ってから帰ることにしましょう!」


 未唯菜の鶴の一声とも言えるひとことに、慎吾も「仕方ないな」と呟いて。四人で並んで、観覧車の列に並び始める。


「…ありがとう、未唯菜ちゃん」


「いいえー、これくらいお安いご用ですっ これなら、高所恐怖症でもなければ大丈夫ですものね」


 嬉しそうな亜衣子の声に、慎吾の心がちくりと痛む。ほんとうは慎吾だって、亜衣子が喜ぶことなら何でもしてやりたいのだ。けれどいまは、亜衣子の身体のほうが心配なので、つい厳しいことを言うしかなかった。自分がもっと器用だったなら、もう少し彼女を悲しませないようにうまく立ち回れたかも知れないのに。つくづく、自分の不器用さが呪わしくなってくる。


 その後のことは、ほんとうにしてやられたという他ない。最後の最後まで祐真と未唯菜の策略に嵌り、またしても亜衣子とふたり、観覧車のゴンドラに閉じ込められてしまったのだから。それまでのアトラクションと違い、意識している暇もないほどに素早く動く訳でもなく────そのわりには自分の無意識下の部分ではしっかり彼女を意識してしまったが────ゆっくりと動く密室の中では、もう鼓動が彼女に聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。やがて亜衣子が切り出した予想外の言葉に、そんな思いはあっという間に消え失せてしまうのだけれど。


「今日はホントに…ごめんなさい。最初から最後まで、迷惑をかけっぱなしで」


 顔は見えないけれど、亜衣子の声も細い肩も、膝の上に置かれた手も震えている。いまにも泣き出してしまうのではなかろうかと思い、慎吾は気が気ではなかった。亜衣子が言うような感情を、彼女に対して抱いたことなど一度もないのに、亜衣子自身はずっとそんな劣等感を抱き続けていたのだろうか? そんなに自分を卑下する必要なんかないのに。控えめでも口下手でも、亜衣子の笑顔はいつだって慎吾の心を暖めてくれたし、亜衣子の歌声はいつだって慎吾の心を幸せな想いで満たしてくれていたのに。いままで口に出したこともなく、これからも伝えるつもりはなかったけれど、いまこの場でどうしても言わなくてはならないことがあると思い、慎吾は強く決意を固めていた。


「──────迷惑に思ったことなんか、一度もない」


「!?」


 慎吾の力強い言葉に、亜衣子がはじかれたように顔を上げた……。

慎吾が思っていたより、深く傷ついていたらしい亜衣子の心。

慎吾は彼女を救えるか?

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