【怖い話】罵詈雑言
雨野遥香、二十六歳。都内の中小企業に勤める、ごく平凡な事務職員である。
今日もまた、上司にこっぴどく叱られた。
大きなミスをしたわけではない。ただ、上司の機嫌が悪いときに声をかけてしまった。それだけの理由で「空気が読めない」と罵倒されたのだ。
電車に揺られながら、遥香はスマホを取り出す。視線を下げるだけで、涙が今にも溢れそうになる。けれども、画面の光が暗い心を照らしてくれている気がした。
開いたのは、いつもの小説投稿サイト。そこは、彼女にとって唯一の逃げ場だった。
読み専である遥香にとって、「感想投稿欄」は憂さ晴らしの場。
普段なら口にできない言葉。
胸の奥に溜まった苛立ち。
──それらを匿名の下で吐き出すとき、ようやく息ができる気がする。
『なにこれ? 支離滅裂で意味わからない』
『日本語勉強してから書け』
『こんなのを人に見せるとか頭おかしい』
文字を打ち込むたび、胸にこびりついた黒い霧が少しずつ晴れていく。怒鳴られた屈辱が、誰かを突き刺す言葉で和らいでいく。
(匿名だ。誰も自分を特定できやしない)
そう確かめるたび、背中の緊張がゆるみ、呼吸が楽になった。特に、ランキングに突然現れた新人作家を叩きのめす瞬間には、言いようのない快感を覚える。
その夜も、ターゲットを見つけた。
作者名は「K・K」。作品は流行りの“ざまぁ”もの。恋愛ジャンルを掲げながら、恋愛描写はほとんどない。それでも、一定の人気を集め、評価ポイントも伸びている。
『なんなの!! 最近の恋愛ジャンルといえば、“ざまぁ”ばかり。恋愛の“れ”の字も入っていない。こんな作品で恋愛を語るなんて、頭が悪いんじゃない!』
「はい、送信っと」
小さく呟いた瞬間、視界がわずかに明るくなった気がした。
解放された──そう錯覚する。
これが、遥香の習慣だった。
そして、遥香の投稿をきっかけに、「K・K」の感想欄は、罵詈雑言で埋め尽くされた。
◇
数日後。夜道でふと視線を感じた。
残業を終え、人気のない住宅街を歩く。靴音だけが規則正しく響くはずなのに、時折、自分のリズムに重なるように別の足音が聞こえる。心臓が高鳴り、耳が熱を帯びる。振り返っても誰もいない。歩道の街灯が照らすのは、影の伸びた電柱とゴミ袋だけ。すぐに自分を嘲笑する。「考えすぎだ」と。
だがその夜から、奇妙な違和感が日常に忍び込んできた。
アパートに帰ると、テーブルの上のコップの位置が微妙にずれている。昨日は右側に置いたはずなのに、今日は左寄りに。閉めたはずのクローゼットの扉が開いており、ハンガーから何枚もの洋服が落ちている。
泥棒かと思い、慌てて警察を呼ぶ。だが、玄関の鍵は壊されていない。監視カメラにも人影は映っていなかった。
「気のせいじゃないですかね」
刑事は困ったように笑った。
気のせい──そう思い込もうとした。だが、夜毎強まる気配は否応なく彼女を追い詰めた。ベッドに横たわっても、耳元で誰かの呼吸が聞こえる。背後に人影を感じて振り返っても、壁しかない。喉の奥が乾き、何度も水を飲んだ。眠ろうとしても、天井を何かが蠢いている気がして、浅い眠りしか訪れなかった。
◇
ある夜、夢を見た。
ぼんやりとした光の中、長い髪の男がじっとこちらを見ていた。動かない瞳に、身体の自由を奪われ恐怖を覚えた。
青白い顔、腫れたまぶた。目からは黒い涙のような液体が滴り落ちている。唇だけが異様に動き、声にならない呻きを繰り返していた。その口の動きを凝視した瞬間、胸が締めつけられるような痛みを感じた。
『な……なんで、なんで……あの作品だったんだ。俺が……俺が、命をかけた作品だったのに……。のろってやる……お前だけは……ゆるさない……』
その言葉が途切れた瞬間──
ぼとり、と嫌な音が響いた。
男の首が、何の前触れもなく肩から落ちた。
白い光に照らされた身体だけがその場に立ち尽くし、切断された首がゆっくりと床へ転がっていく。
冷たい汗で全身が濡れ、喉が塞がれて悲鳴すら上げられない。足が凍りつき、ただその首を眺めるしかなかった。
「はっ……!」
目覚めると、枕元のスマホが点灯していた。開かれた画面には、あの日罵倒した小説が映っている。手を震わせながら作者のページをタップすると、そこには短い告知があった。
『作者K・Kは、昨日自宅にて亡くなりました』
日付は、遥香が感想を書きこんだ翌日だった。
息が詰まり、スマホを床に落とした。胸の奥で鼓動が暴れ、視界が揺れる。「まさか……」と否定する声と、「やっぱり」という囁きが同時に頭の中を渦巻く。自分の指先が、他人の命を押し潰したのだと気づいた瞬間、全身が氷のように冷たく感じた。
◇
パソコンの電源が勝手に入る。画面に文字がびっしりと浮かぶ。
『なぜ』
『お前のせいだ』
『ゆるさない』
その一文字一文字が刃物のように胸に突き刺さり、恐怖が濃くなっていく。
「違う……わ、私は悪くない……! あ……アンタが悪いの……! あんな作品を投稿した……アンタが悪いのよぉぉ!!」
震える声でそう呟く。あの夜、罵詈雑言を送信した瞬間から、全てが始まったのだ。
「K・K」は、自分の小説を罵倒され、誰にも救われぬまま自殺した。その霊が今も、この世に留まっている。彼女を責め、取り憑き、逃がすまいと……。
眠れぬ夜、遥香は鏡の前に立ち、自分の顔を見た。蒼白で、目は落ち窪み、唇は乾きひび割れていた。見慣れたはずの自分の顔が、次第にあの夢の男と重なっていく。瞬きをした瞬間、鏡の中の自分が笑ったように見え、悲鳴を上げて床に崩れ落ちた。
謝罪の言葉を書き込もうとするも、画面には遥香を非難する文字が次々と浮かび上がる。夜が来るたびに現実と幻覚の境界は曖昧になっていた。
◇
眠れぬ夜を過ごしても、それでも翌朝には出勤していた遥香だったが、もはや職場でも幻聴や幻覚に怯えるようになっていた。
その日も、書類を抱えたまま机の下に身を隠し、何かに見つかることを恐れるように身を縮め、震えながら息を殺していた。
「雨野さん……?」
同僚が心配そうに声をかける。
「ひっ……!」
その声に顔を上げた瞬間、遥香の身体が大きく震えた。目の前に立っている同僚の顔が、あの夜、夢の中で見た男の顔と重なったのだ。
青白い顔。
腫れ上がったまぶた。
黒い涙を流しながら、じっとこちらを見つめる瞳。
「こ、来ないで……!」
同僚が一歩近づく。
「雨野さん、大丈夫だから」
「来ないでぇぇっ!」
悲鳴を上げながら、遥香は机の下から這い出すと、手にしていた書類を床へ放り出し、そのまま逃げるように廊下へ飛び出した。
「雨野さん!」
「待って!」
背後から同僚や上司の声が聞こえる。
「来ないで……来ないで……!」
階段を駆け上がり、屋上へ続く扉を乱暴に開ける。強い風が吹きつけ、髪を激しく揺らした。
「雨野さん、そこから離れて!」
屋上へ出てきた同僚と上司が、息を切らしながら遥香へ駆け寄る。
しかし、遥香は恐怖に歪んだ顔で首を激しく横に振った。
「来ないで……来ないでぇぇ!!」
その背後には、屋上のフェンスがあった。
遥香は逃げ場を求めるようにフェンスへ手をかけ、そのまま乗り越えてしまう。
「危ない!」
誰かの叫び声が響くが、もう遅かった。
「来ないでぇぇぇぇっ!」
最後にそう叫びながら、遥香の身体はフェンスの向こうへ消えていった。
◇
小説投稿サイト。
遥香の投稿した感想に、返信が書かれていた。
『感想ありがとう。これで、あなたも……』
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