美容サロン:エンジェルウィング
渋谷の雑踏を抜け、人通りの少ない路地裏を進むと、小さな地下への階段が現れた。
友人から聞いた、秘密の場所。どんな容姿の女性も、一夜でプリンセスのように美しくなれるという、夢のようなサロンだ。
小さな地下への階段を見つけた時、私の心臓は高鳴った。
看板も何もない、ただの灰色のコンクリートの入り口。でも、これが運命の扉なのだと感じた。
「うわ、すごい…!」
階段を降りると、私は息を呑んだ。
世界が変わった。壁一面にピンクの羽根が舞い踊り、月や星、宇宙飛行士が描かれていた。
天井からは無数のスワロフスキークリスタルが光を放っている。
まるで映画の中の世界のようだった。
「こんにちは、真子さん。お待ちしておりました」
振り返ると、白いドレスに身を包んだ美しい女性が立っていた。
完璧に整った顔立ち、まるで人形のような肌の美しさ。
私は一瞬で魅了された。この人のようになれるなら、どんなことでもしたい。心の底からそう思った。
「私はエンジェルです。エンジェル先生とお呼びください。あなたの夢を叶えるためにここにいます」
エンジェル先生の落ち着いた声に、私は夢中になって頷いた。
「夢の世界へあなたも行きましょう。あなたの望む美しさが待っていますよ」
案内された施術室は、さらに豪華だった。まるでおとぎ話の世界。
ベッドはピンクのシルクで覆われ、周囲には金の装飾が施されている。
天井の巨大なシャンデリアが、キラキラと光を反射している。
「カウンセリングも終わりました。では、早速始めましょうか」
エンジェル先生の手が私の顔に触れた。
その瞬間、私の意識は遠のいていった。
最後に覚えているのは、「やっと美しくなれる」という安堵の気持ちだった。
目を覚ますと、私の顔は包帯で覆われていた。
痛みはない。むしろ、不思議な高揚感に包まれている。ついに、ついに夢が叶ったのだ。
「おめでとうございます、真子さん。あなたは生まれ変わりました」
エンジェル先生の声が聞こえる。
私は震える手で手鏡を受け取った。
包帯の隙間から見える肌は、まるで陶器のように美しく、透明感に溢れている。
「本当に...本当に美しくなったんですね」
涙が止まらなかった。長年の悩みから、やっと解放されたのだ。
包帯が完全に取れるのが待ち遠しくて仕方がない。
「三日後にまたいらしてください。完成したあなたをお見せします」
帰り道、私の心は躍っていた。新しい人生が始まる。
美しくなった自分を想像するだけで、胸が高鳴る。
電車の窓に映る自分を見て、包帯の下の美しい顔を思い浮かべて微笑んだ。
でも、翌日から何かがおかしかった。
包帯の下から、嫌な臭いがし始めたのだ。
最初は微かで、「手術の後だから仕方ない」と思っていた。
でも、日を追うごとに強くなっていく。そして、包帯が湿っぽくなってきた。
「きっと治癒の過程なのよ」
私は自分に言い聞かせた。美しくなるためには、多少の不快感は我慢しなければならない。
そう思って、臭いを我慢し続けた。
三日後、約束の日。私は期待に胸を躍らせながら、再びエンジェルウィングへ向かった。
今日こそ、本当の私を見ることができる。
「さあ、包帯を取りましょう」
エンジェル先生の手によって、包帯が一枚一枚剥がされていく。
そして、鏡が私の前に置かれた。鏡に映っているのは、確かに美しい顔だった。
でも、その美しさは不自然で、まるで別人のような顔だった。
そして、よく見ると、皮膚の境界線がはっきりと見える。まるで、誰かの顔を私の顔に貼り付けたような...
「美しいでしょう?」
エンジェル先生が微笑む。
「この顔は...私の顔ですか?」
「もちろんです。あなたの望み通りの顔です」
でも、私には確信があった。これは私の顔ではない。
誰か他の人の顔だった。そして、あの嫌な臭いの正体も、なんとなく分かり始めていた。
家に帰った私は、恐る恐る鏡を覗いた。
異変は、さらに進行していた。移植された皮膚の色が変わり始めている。
最初は薄く赤みがかっていたが、今度は青黒く変色している部分がある。
「これは...一体何?」
声に出して言った瞬間、全身に震えが走った。
慌ててインターネットで皮膚移植について調べ始める。
そこで知ったのは、恐ろしい事実だった。
他人の皮膚を移植する場合、免疫抑制剤を使用しなければ、必ず拒絶反応が起こる。
そして、拒絶反応が起こると、移植された皮膚は壊死し、腐敗するのだ。
私の顔に起こっていることは、まさにそれだった。
翌日、私は総合病院に駆け込んだ。
診察した医師の顔が青ざめるのを見て、私の恐怖はさらに深まった。
「これは...皮膚移植ですね。しかも、かなり危険な手術です。免疫抑制剤は使用されていますか?」
「分からないんです。エンジェルウィングというサロンで...」
医師の表情がさらに険しくなった。
「エンジェルウィング?最近、似たような患者さんが何人か来られています。皆さん、顔面の皮膚移植を受けて、壊死を起こしているんです」
「壊死ですか?」
私の血の気が引いた。
「他にも同じような方がいらっしゃるんですか?」
「ええ。中には...」
医師は言葉を濁した。
「亡くなられた方もいらっしゃいます」
その夜、私は震えながらエンジェルウィングに電話をかけた。
でも、電話は繋がらない。翌日、サロンを訪れてみると、入り口は固く閉ざされていた。
騙された。利用された。そして、私は死ぬかもしれない。
私は警察に駆け込んだ。もう、他に頼るところはなかった。
警察で事情を話している時、私の顔の皮膚はさらに悪化していた。
黒く変色した部分が広がり、異臭も強くなっている。
「つまり、あなたの顔の皮膚は、他の誰かのものということですか?」
刑事さんの質問に、私は頷くしかなかった。
鏡を見るたびに、この顔が私のものではないことを実感する。
誰かの美しい顔を、私は奪ってしまったのだろうか。
数日後、刑事さんから連絡があった。
東京都医師会の調査により、恐ろしい事実が判明したという。
「移植に使用された皮膚のDNA鑑定の結果、全て10代の若い女性のものでした。そして、それらのDNAは、過去2年間に行方不明になった少女たちと一致したのです」
私は息ができなくなった。
「つまり、私の顔は...」
「行方不明になった少女の顔である可能性が高いです」
その瞬間、私は吐き気に襲われた。
私の顔についている皮膚は、殺された少女のものかもしれない。
私は、人殺しの片棒を担いでしまったのだろうか。
「でも、真子さんは被害者です。騙されただけです」
刑事さんの慰めの言葉も、私の心には届かなかった。
鏡を見るたびに、殺された少女の顔を思い浮かべてしまう。
「施術を受けた女性47名のうち、生存が確認できているのは3名のみです。真子さんは、幸い早期に治療を受けたので助かりましたが...」
数週間後、刑事さんから連絡があった。エンジェル先生の正体が判明したという。
「本名は田村美沙紀、42歳。かつては有能な美容外科医でしたが、5年前、自分の美容整形手術の失敗により、顔面に重篤な傷を負いました」
私は震えた。エンジェル先生も、私と同じように美しさを求めて、そして失敗したのか。
「彼女は自分の顔を修復するために、数十回の手術を繰り返しましたが、結果的に顔面の大部分を失ってしまったのです」
私の心に、複雑な感情が湧き上がった。
憎しみと、そして奇妙な共感。
彼女も、美しさを求めて破滅した一人だった。
「現在、彼女は精神病院にいます。会ってみますか?」
私は迷ったが、最終的に頷いた。真実を知りたかった。
病院の病室で、私は再びエンジェル先生と対面した。
顔全体を包帯で覆った彼女は、鏡に向かって同じ言葉を繰り返していた。
「夢の世界へあなたも行きましょう。美しくなりましょう」
私が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
包帯の隙間から見える目は、完全に焦点を失っていた。
「あら、真子さん。お元気ですか?あれからいかがですか?」
彼女は私を覚えていた。でも、現実と幻想の区別がついていないようだった。
「彼女は美への執着が異常に強く、患者にも完璧な美しさを求めていました。しかし、自分が醜くなってしまったことで、精神的に破綻したのでしょう」
刑事さんが横で担当医の先生と何かを話している。
「田村さん、あなたが行った手術について聞かせてください」
刑事の質問に、田村美沙紀は微笑んだ。
「手術?いいえ、これは魔法です。美しくない人たちを、プリンセスに変えてあげているのです。あの子たちも、きっと喜んでいるでしょう。美しくなれたのですから」
「あの子たちとは?」
「天使になった子たちです。彼女たちの美しさを、みんなに分けてあげたのです。素晴らしいでしょう?」
私の胸が苦しくなった。きっと犠牲になった子たちのことだろう。
彼女はなんとも思っていないのだろうか。美しさのために、他の命を奪ったことを。
「あの日の夢のように美しい世界を、あなたたちにも見せてあげたかった。私も魔法を使えるようになりたかったのよ」
加藤先生の言葉は、哀しいほど純粋だった。
狂気に支配されていても、彼女なりに人を幸せにしたいと思っていたのかもしれない。
後日、刑事さんから連絡があった。エンジェルウィングの地下に隠し部屋が発見されたという。
「聞きたいですか?でも、かなりショッキングですよ」
私は迷ったが、真実を知る権利があると思った。
そして、あの少女たちに謝らなければならないと思った。
地下の隠し部屋は、まさに地獄だったそうだ。
手術台が数台並び、周囲には血で汚れた医療機器が置かれている。そして、冷凍庫の中には...
大丈夫と言いながら、私は電話越しに吐いた。
美への狂気が生み出した、あまりにも残酷な現実がそこにあった。
彼女たちは、他人の美しさのために殺されたのだ。
「真子さん、何度も言いますが、あなたは悪くない。騙された被害者です」
でも、私には罪悪感しかなかった。
私が美しくなりたいと望まなければ、彼女たちは死ななかったかも知れない。
それから半年後、私は病院のベッドにいた。
移植された皮膚を除去する手術を受けるためだった。
手術前、医師に聞いた。
「元の顔に戻りますか?」
「傷跡は残るでしょう。でも、あなた自身の顔に戻ります」
私は安堵した。他人の顔ではなく、自分の顔に戻れるのだ。
たとえ醜くても、それが本当の私だった。
手術は成功した。鏡を見ると、深い傷跡が残っていたが、それでも私は微笑んだ。
左頬のあざも、相変わらずそこにあった。でも、これが本当の私だった。
「これが私です」
鏡に向かって、私は言った。初めて、自分の顔を受け入れることができた。
その後、私は犯罪被害者支援センターでカウンセリングを受けながら、同じような体験をした人たちの支援活動を始めた。
美容に関するカウンセラーとして、外見にコンプレックスを抱える女性たちの相談に乗るようになった。
「本当の美しさは、自分の中にあるものを大切にすることから始まるのです」
私がよく言う言葉だった。それは、あの恐ろしい体験を通して学んだ、唯一の真実だった。
あの事件から一年が経った。
エンジェルウィングは閉鎖された。
入り口にはコンクリートブロックが積まれ、二度と人が入れないようになっている。
でも、美への執着は消えない。今日も、どこかで「美しくなりたい」と願う女性たちがいる。
私たちは皆、美しくなりたいと願うだろう。それは自然な感情だ。
でも、その欲望が暴走した時、取り返しのつかないことが起こる。
私は彼女たちに伝えたい。
本当の美しさは、外見ではなく、自分らしく生きることにあるのだと。
加藤先生は今でも精神病院にいる。面会に行くたびに、彼女は同じ言葉を繰り返している。
「夢の世界へあなたも行きましょう」
でも、私はもう知っている。夢の世界は、現実逃避の場所ではない。
現実を受け入れ、自分らしく生きることこそが、本当の夢なのだ。
今日も私は、カウンセリングルームで相談者を待っている。
左頬のあざは相変わらずそこにある。手術の傷跡も消えていない。
でも、私は自分の顔が好きになった。
この顔で笑い、この顔で泣き、この顔で生きてきたからだ。
「先生、私も美しくなりたいんです。整形手術を考えているんですが...」
今日の相談者は、二十歳の女子大生だった。
彼女の悩みを聞きながら、私は一年前の自分を思い出した。
「美しくなりたい気持ち、よく分かります。でも、まず教えてください。あなたにとって美しさとは何ですか?」
私の質問に、彼女は戸惑った顔をした。
それは、かつての私と同じ表情だった。
私はゆっくりと話し始めた。自分の体験を、包み隠さず話した。エンジェルウィングのこと、あの少女たちのこと、そして学んだことを。
「美しさは、他人と比べるものではありません。自分らしく生きることから生まれるものです」
相談者の目に、少しずつ光が戻ってきた。
外では雨が降っている。でも、私の心は晴れやかだった。
あの恐ろしい体験も、今は人を救うための力になっている。
鏡を見る。左頬のあざのある、傷跡の残った顔が映っている。でも、私は微笑んだ。
これが私の顔。これが私の美しさ。
そして、これが私の選んだ人生だった。