事象:パステルおじさん現象
井上(52歳)は、朝の通勤電車でいつものように疲れ切った表情でスマホを眺めていた。
昨夜も残業で終電ギリギリ、家に帰ったのは午前1時。
そしてまた朝が来て、変わり映えのない1日が始まる。
「...今日も会議か...」
深いため息をつきながら、井上は今日の予定を頭の中で整理していた。
9時から企画会議、11時から営業部との打ち合わせ、午後は資料作成。
毎日が同じことの繰り返しで、人生に彩りというものが失われて久しかった。
しかし、彼が新宿駅で電車を降りようとした時、突然全身にふわっとした暖かさが広がった。
最初は単なる疲労だと思っていたが、エスカレーターで自分の手を見た瞬間、井上は絶句した。
「なんなんだこれは…!?」
手が、ほんのりとしたパステルピンクに光っている。
慌てて近くのトイレに駆け込み、鏡を覗くと、井上の身体全体からキラキラと虹色の光が放射されていた。
顔も腕も、すべてが淡いピンク色に染まっている。
「これは…?」
井上は自分の頬をつねってみた。
痛い。現実だった。
大通り沿いの街頭ビジョンには、朝のニュースが映し出されていた。
「関東地方を中心に拡大している『パステルおじさん現象』について、厚生労働省が最新調査結果を発表しました。」
画面には街中でパステルカラーに光る中年男性たちの映像が流れた。
「現在までに全国で147名の発症が確認されており、患者の多くは40代から60代の男性サラリーマンとなっています。」
「『パステルおじさん現象』…!?」
井上は自分がまさにニュースで報じられている現象の当事者になったのだ。
とはいえ、始業時間が近づいていた。立場上、仕事を急に休めるわけもない。
彼は途方に暮れ、複雑な気持ちでビルに向かった。
エレベーターで同僚の森と鉢合わせした時、森は目を丸くして驚いた。
「井上さん...って、うわあああ!」
「森君、おはよう」
「いやいやいや、井上さん、なんで光ってるんですか!?」
「実は僕もよくわからないんだ」
森は困惑しながら目を擦ったが、しばらく井上の光を見つめているうちに、表情が和らいできた。
「でも...なんだか意味がわからなくて、見てると心が落ち着きますね」
「そう?」
「はい。なんか、ふわふわした気持ちになります」
受付の佐藤さんも最初は腰を抜かして驚いたものの、井上の光を見ているうちに変化が現れた。
「あれ...なんか、癒されますね...いつもはこの時間イライラしてるんですけど、なんだか心が軽やかになりました」
井上が自分のデスクに向かうと、課内は一時騒然となった。
しかし、10分ほど経つと、みんなの反応が変わってきた。
「あれ?なんか今日は朝からテンション上がるな」
「私もです。なんだか優しい気持ちになりました」
「井上さんの光、見てると心が落ち着きます」
同僚たちは井上の光を見ていると、なぜか優しい気持ちになり、心が落ち着くのを感じていた。
「どうなっているんだ…」
井上はただならぬ様子を見て、首をかしげるばかりだった。
自分以上に周りの人の方が順応しているように見える。
「俺はどうなるんだろうか…あ、はい、もしもし、井上です」
不安を抱えながらも、仕事をこなすしかない井上だった
部長の新城が会議室で深刻な顔をして話し始めた。
「えー、本日は緊急事態が発生しております。井上君が...その...光っているという状況でして」
井上は会議室の端っこでキラキラと輝いていた。
「すみません、部長。ご迷惑をおかけして」
「いやいや、君が悪いわけじゃないが...」
その時、経理の鈴木が手を挙げた。
「でも部長、井上さんの光、見てるとなんだか気持ちが穏やかになりませんか?」
営業の高橋も同調した。
「私もそう思います。いつもなら朝の会議はピリピリしてるのに、今日はなんだかほんわかしてますよね」
部長も井上の光をじっと見つめた。
すると、普段は眉間にしわを寄せている厳しい表情が、だんだんと緩んできた。
「うーん...確かに、心が安らぐというか...」
「本気で言ってるんですか、部長?」
井上が新城へ聞き返すと、彼は何か思いついたように頷いた。
「光っている以外はなんの害もないし。よし!会議を続行しよう。井上君はそのまま参加してくれ」
この日の会議は、井上の柔らかな光に包まれて、史上最も平和で建設的な議論が交わされた。
普段なら部長が机を叩いて怒鳴るところが、今日は違った。
「営業部の数字が目標を下回ってますが...まぁ、数字は厳しいけれど、君たちが頑張ってるのはわかる。来月は頑張ろう」
みんなが笑顔で議論を交わし、建設的な意見が次々と出てくる。
井上の存在が、職場全体の空気を一変させていた。
「…ただいま」
井上が疲れ果てた顔をして家のドアを開けると、妻の美香が洗濯物を干していた。
「お帰りなさい。今日は早いのね...って、きゃー!」
美香が洗濯バサミを落とした。
「美香、驚かせてごめん」
「なんで光ってるの!?病気?怪我?どこか痛いの?」
美香は慌てて井上に駆け寄った。
井上は朝から起きた一連の出来事を説明した。
「マジかよ!親父がRGBライトみたいになってる!」
息子の健太が部屋から出てきた。
高校生の彼は、父の変化に驚いたものの、すぐに興味深そうに観察し始めた。
「ゲーミングPCのライトアップみたいだな!すげー、本当に虹色に光ってる!」
夕食の時間、いつもならテレビを見ながら無言で食べる井上家だったが、今日は様子が違った。
「お父さんの光、なんだか温かいのね。見てると心が落ち着く」
「俺も。なんか今日は宿題やる気が出そう」
「本当か?健太がそんなこと言うなんて珍しいな」
「だって、親父の光見てると、なんかポジティブになるんだもん」
井上は不思議に思った。
家族がこんなに穏やかに話すのは久しぶりだった。
「でも、このままじゃまずいでしょう?」
しかし美香は心配そうに言った。
「いや、会社の人たちも最初は驚いてたけど、今は慣れたよ。どっちにしても、普段通り過ごすしかないよ」
翌日の帰宅時、満員電車に乗った井上。最初はみんな避けていたが、しばらくすると不思議な現象が起きた。
「あの...すみません。あなたの光、とても綺麗ですね。見てると、今日あった嫌なことを忘れられます」
向かいに座っていた女性が話しかけてきた。
「僕も同感です。なんだか心が軽くなりました」
後ろのサラリーマンも心なしか顔が穏やかだ。
井上の車両は、いつの間にか「癒しの空間」になっていた。
2週間が経ち、パステルおじさんとしての生活にすっかり慣れ始めた頃、彼のスマホに謎のメッセージが届いた。
「パステルおじさんの会 新宿のピンクカフェ『メルヘン』にて毎週土曜日14時から開催」
「パステルおじさんの会?なんだそれ?」
井上は首を傾げたが、興味は湧いた。
土曜日、井上は新宿のピンクカフェ『メルヘン』を訪れた。
2階に上がると、そこには信じられない光景が広がっていた。
10人ほどの中年男性が、それぞれ異なるパステルカラーに光りながら、ピンクのテーブルでお茶を飲んでいたのだ。
「お、新しい仲間ですね!」
ミントグリーンに光る男性が手を振った。
「はじめまして、田村です。3ヶ月前からライトブルーです」
「はじめまして、井上です。ピンクです」
「ピンク、いいですねぇ。私はイエローの佐々木です」
みんなが温かく迎えてくれた。それぞれが自分の体験を語った。
「俺は半年前。朝起きたらグリーンでした」
「私は4ヶ月前。会社のトイレで突然ブルーに」
「最初は治そうと思ったんですけどね。でも、家族も職場の人も、みんな優しくなったんです」
お茶を飲みながら話していると、井上の心境に変化が起きていた。
「あ、このマカロン可愛い!」
井上が思わず声を上げた。ピンクのハート型マカロンを見て、なぜか胸がキュンとした。
「井上さん、女子高生みたいですね」
「え?」
「最近、可愛いものに目がいくようになりませんでした?」
佐々木さんが聞いた。
「そういえば...昨日もコンビニでキティちゃんのペンを買いそうになりました」
「わかる!俺もうさぎのぬいぐるみ買っちゃった」
「パステルおじさんになると、心境も変化するんでしょうか」
井上はそう言われて驚いた。でも、不快ではなかった。
むしろ、心が軽やかで楽しみが増えたと感じていた。
それから1ヶ月が経った。井上の職場でも部長の新城がブルーに光り始めた。
「井上君。実は昨日の夜から...」
「部長!パステルおじさんになったんですね」
「君を見ていて、羨ましいと思っていたんだ。君の周りはいつも穏やかじゃないか。光っている以外はいいことだらけだしな」
昼休み、二人が街を歩いていると、通行人たちが振り返った。
「あ、パステルおじさんだ」
「二人もいる!写真撮らせてください」
もはや珍しい現象ではなくなったが、人々の反応は温かかった。
「緊急ニュースです。パステルおじさん現象について、厚生労働省が治療法を発見したと発表しました」
翌週、重大なニュースが発表された。その内容に、井上は息を呑む。
「唯一の治療法は『3日連続で激辛カレーを食べること』とのことです。ただし、この治療法の成功率は90%で...あれ?」
突然、男性アナウンサーの顔がほんのりピンクに染まった。
「え...えーっと...私...?私も...パステルに...なんだか...心が軽やかです...」
「『3日連続で激辛カレーを食べること』だって?」
井上は言葉を失った。
「でも、これで元の生活に戻れるわ。よかったわね。」
そう言って笑う妻の笑顔を、彼は複雑な顔で見つめていた。
その夜、美香は台所で、見るからに危険そうなカレーを作った。
「はい、どうぞ」
「これ、本当に食べるのか?」
「もちろんよ。早く元に戻りましょう」
「でも...」
井上は困った。確かに最初は治したいと思っていた。
「美香、僕、このままでもいいかもしれない」
「え?」
「みんな優しくなったし、職場の雰囲気もよくなった」
「でも、普通じゃないのよ」
「普通って何だろう?」
井上は真剣に考えた。
「以前の僕は毎日イライラして、君や健太にも冷たくあたってた。でも今は、毎日が楽しい。家族との時間も大切に思えるし、可愛いものを見ると心が踊る」
美香は困惑した。確かに最近の夫は以前より優しく、穏やかだった。
「そのカレー食べるの?」
息子の健太が横から顔を覗かせた。
「お前はどう思う?」
「俺?俺は親父が光ってても別にいいよ」
「そう?」
「親父が幸せならそれでいいんじゃない?」
その言葉に、家族は納得した。父の新しい幸せを受け入れようと決めたのだ。
翌日のパステルおじさん集会で、井上は治療法の話を持ち出した。
「皆さん、激辛カレーの件、どう思います?」
「あー、あれね。正直、食べたくないです」
「僕も。それに、なんで治さなきゃいけないんですかね?」
「そうそう、誰にも迷惑かけてないし」
みんなが同じ意見だった。
「僕の会社なんて、僕がいるだけで残業時間が減ったんですよ。みんながイライラしなくなったから、効率が上がったんです」
全員が治療を拒否する意見で一致していた。
「続いてのニュースです」
テレビでは、今度は男性アナウンサーがパステルブルーに光りながらニュースを読んでいた。
「パステルおじさん現象の患者数が、全国で500名を突破しました。厚生労働省の調査によると、治療法である『3日連続激辛カレー』を実行した患者は全体の10%以下で、90%以上の患者が『このままでも幸せ』として治療を拒否していることがわかりました」
1年が経つ頃には、全国のパステルおじさんは2000人を突破していた。
街中では様々な色に光る中年男性たちが普通に歩いており、彼らを見て癒される人々の姿が当たり前の光景となった。
井上の会社では、パステルおじさんが5人に増え、オフィス全体が虹色に包まれていた。
「今期の業績、過去最高を更新しました」
「それは良かった」
「パステルおじさん効果ですね」
家に帰ると、健太が大学受験に合格したと報告した。
「親父のおかげで、面接でも話が弾んだよ。『家族の絆が深い』って評価されたんだ」
パステルおじさんの会も50人を超える大所帯となり、取材も殺到していた。
「僕たちは病気になったんじゃありません。新しい自分を見つけたんです」
田村さんが代表して答えた。
井上は公園のベンチに座り、夕日と自分の光が混じり合う美しいグラデーションを眺めていた。
小さな女の子が近づいてきた。
「おじさん、なんで光ってるの?」
「うーん、よくわからないんだ」
「綺麗だね」
「ありがとう」
女の子の母親も現れた。
「すみません、娘がご迷惑を...もしかして、パステルおじさんですか?」
「はい」
「テレビで見ました。素敵ですね」
母親も娘も、井上の光に包まれて穏やかな表情になった。
家に帰ると、美香と健太が夕食を作って待っていた。
「幸せって、案外身近にあるものなんだね」
井上はそう言って窓の外を見た。
夜空に向かって、自分のピンクの光がほんのりと上っている。
現代社会で疲れ切った中年男性たちが見つけた新しい生き方。
治療という選択肢があっても、それを選ばない自由。
変化を受け入れ、新しい自分として生きる勇気。
パステルおじさんたちの存在は、忙しい現代社会に生きる人々に、本当の幸せとは何かを静かに問いかけているのかも…しれない。
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報告書
中年男性が過度なストレス負荷を受けることで発症する現象。全身の皮膚組織から波長380-700nmの可視光線を放射し、同時に体表面がパステルカラー(主にピンク、ブルー、グリーン、イエロー系)に変色する。発光強度は0.5-2.3ルクス程度で、暗所でも肉眼で確認可能。
極度の慢性ストレス状態にある中年男性の視床下部-下垂体-副腎軸(HPA軸)が過負荷状態に陥ることで発症すると推測される。理化学研究所の研究では既知の生物発光現象とは異なるスペクトラムパターンが確認されており、「別次元からのエネルギー流入」の可能性も指摘されている。詳細なメカニズムは現在も調査中。
パステルおじさんが在籍する企業では残業時間32%減少、離職率45%減少、労働生産性28%向上、職場内いじめ・パワハラ事案78%減少が報告されている。患者および家族の年間医療費が平均37%削減され、経済産業省試算では全国で年間約2,400億円の医療費削減効果が見込まれている。一部企業では「ヒーリング職員」として積極採用する動きもある。
発光メカニズムの完全解明、感染性の有無、予防法の確立等が今後の研究課題とされている。