アプリ:おやすみギフト
午前2時15分。僕は数学の宿題を前に、完全に心が折れていた。
「また分からない...なんで僕だけ」
明日は小テストなのに、二次関数の公式が全然頭に入らない。
クラスメイトの田島は「こんなの簡単じゃん」って言ってたけど、僕には暗号にしか見えない。
どうせまた赤点で、先生に呆れられて、母親を呼び出されるんだろう。
その日、机の上には今日返されたテストが散らばっていた。
英語38点、化学25点、古文19点。案の定、どれも平均点の半分にも届かない。
「僕って本当にバカなんだ...」
クラスでは田島とその仲間たちが、僕のテストの点数を見て笑っていた。
「おい、長岡また一桁じゃねーか」
「マジで中学からやり直した方がいいんじゃね」
言い返したかったけど、「そ、そんなことないよ...」としか言えなかった。
情けない自分が嫌になる。
谷本さんは今日も先輩と楽しそうに話していた。僕なんて透明人間みたいに素通りしていく。
話しかける勇気もない。どうせ「気持ち悪い」って思われるだけだ。
その時、スマホが光った。また通知だ。
「あれっ?」
最近、変な迷惑通知が増えている。
今日は見たことのないアプリアイコンで、「おやすみギフト♪」という通知だった。
「え?なんだろう...怪しいアプリかな」
普通なら無視するところだけど、疲れ切っていた僕は何となくタップしてしまった。
すると、勝手にアプリがインストールされ始めた。
「え...勝手にインストールされてる」
普通なら怖くて削除するけど、その時の僕は理性が働かなかった。
アプリのインストールが完了すると、自動的に起動した。
アイコンは淡いブルーで、月と星のマークが描かれている。
ホーム画面には、優しい色合いの中を宇宙飛行士が浮かんでいた。
ずっと見ていると、心が落ち着くような、不思議な安心感がある。
『今夜はどんな夢を見ますか?』
【好きな人と会う夢】
【空を飛ぶ夢】
【お金持ちになる夢】
【テストで100点を取る夢】
「え...何だこれ?」
どんな夢?夢を選ぶってこと?
僕は笑ってしまった。
笑ってしまうと同時に、夢でくらいいい思いしてもいいんじゃないかと思った。
「馬鹿馬鹿しいな…」
僕はそう言って「好きな人と会う夢」を選んだ。
谷本さんと話せたらいいな。そんな淡い期待を抱きながら。
次の朝、僕は信じられない気持ちで目を覚ました。
夢の中で、本当に谷本さんと話していたのだ。
それも、いつもなら目も合わせられない僕に、谷本さんの方から「おはよう、長岡くん」って笑顔で声をかけてくれた。
夢の中の僕は、なぜか自信に満ちていた。
谷本さんと自然に会話ができて、一緒に登校して、お昼も一緒に食べた。
「すごく...リアルだった」
でも現実は残酷だった。
学校ではテストの点数の件で先生に呼び出された。
僕の点数が、クラスで一番低いのだそうだ。
クラスに戻ると、田島とその仲間たちが僕を見て笑っていた。
「おい長岡、また呼び出しかよ」
「マジでヤバくない?そろそろ留年とか?」
「い、いや、僕は...その...」
みんなの視線が痛くて、席に座るのも辛かった。
まるで自分が教室の中で一番みじめな存在だって、全員に知られているような気分だった。
(机に突っ伏して隠れたかったけど、それじゃあますます惨めに見える…。)
かといって堂々としていることもできない。
どうしたらいいか分からなくて、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
「あっ…」
谷本さんは今日も先輩と廊下で話していた。話しかけようとしたけど、僕は近寄れもしなかった。
夜、宿題をしようとしたけど、また分からない問題ばかり。
現実が嫌になって、ついスマホを手に取った。
すると、同じアプリから通知が届いていた。今度は迷わずアプリを開く。
選択肢が増えていた。
【テストで100点を取る夢】
【人気者になる夢】
【世界旅行をする夢】
【好きな人と付き合う夢】
「こんなアプリなんて…」
心の奥底では、こんなアプリがまともなわけないって分かっていた。
見たい夢が見られるアプリ。信じられなかったけど、でも、現実逃避したい気持ちが勝った。
今の僕にはもう理性的に考える余裕なんて何一つなかった。
毎日の失敗と屈辱で心がすり減って、何かにすがりつきたい一心だった。
「今度は...人気者になる夢を選んでみよう」
それから毎日、僕は夢の世界で理想的な生活を送るようになった。
朝起きる瞬間が一番辛い。
理想の世界から、この地獄のような現実に引き戻される感覚。
夢の中では僕は、愛されていて、認められていて、価値のある人間だった。
夢の中の僕は、学年で一番人気のある生徒だった。
成績は学年トップで、インスタのフォロワーも1万人超え。
谷本さんとは恋人同士で、クラスメイトたちは僕を慕っていて、先生たちからも信頼されている。
でも朝起きると、地獄のような現実が待っている。
授業では相変わらず分からない問題ばかり。
体育の時間はもっと最悪で、バスケットボールでは必ずミスをして、「長岡のせいで負けた」と言われることもあった。
「ご、ごめん...」
謝るしかできない自分が情けなかった。夢の中では運動神経抜群だったのに。
昼休みは一人で弁当を食べ、放課後は一人で帰る。
友達なんて一人もいない。
谷本さんは相変わらず先輩と仲良くしていた。
今日は手を繋いで歩いているのを見かけて、胸が苦しくなった。
「僕なんて...生きてる意味あるのかな」
現実では誰からも必要とされない、透明人間みたいな存在。
落差が日に日に大きくなっていく。
本当は、誰かに「助けて」って叫びたかった。
でも、どうやって説明すればいいのか分からない。
「実は夢の世界でしか幸せになれないんだ」なんて言ったら、完全におかしな人間だと思われる。
この苦しみを分かち合うことはできない。結局、一人で抱え込むしかないんだ。
気がつくと、夢の時間の方が現実よりも大切になっていた。
1週間が過ぎた頃、アプリの選択肢が変わり始めた。
【ずっと夢の中にいる夢】
【現実よりも楽しい夢】
【目覚めたくない夢】
【完璧な人生の夢】
「なんか...前より選択肢が増えてる」
内容も、なんだか現実逃避を助長するようなものになっていた。
最初は「好きな人と会う夢」とか「空を飛ぶ夢」みたいな、無邪気で楽しいものだったのに。
今は明らかに危険な感じがする。
でも不思議と、その危険な選択肢に惹かれている自分がいた。
現実がここまで辛いなら、もういっそのこと...そんな破滅的な考えが頭をよぎる。
理性では「やめておけ」と言っているのに、感情は「もう楽になりたい」と叫んでいる。
でも現実があまりにも辛くて、僕は「完璧な人生の夢」を選んでしまった。
2週間が過ぎると、現実と夢の区別がつかなくなってきた。
学校で田島にからかわれても、「でも夢の中では僕の方が人気だし...」と思えるようになった。
でも同時に、現実での失敗がより辛く感じるようになった。
夢の中の完璧な自分と、現実のダメな自分の差があまりにも大きすぎる。
ある日の授業中、先生に質問された時のことだった。
「長岡、この問題の答えは?」
夢の中では即座に答えられるような簡単な問題だった。でも現実の僕は答えられない。
「え、えっと...」
クラス中の視線が僕に集まる。顔が真っ赤になって、声が震えて、何も言えなくなった。
「分からないなら分からないと言いなさい」
先生の呆れた声が教室に響いた。その瞬間、夢と現実の差を痛感した。
昼休み、谷本さんに話しかけようと思い切って近づいた。
「あ、あの...谷本さん」
「え?何?長岡くんだっけ?」
冷たい声だった。夢の中では「長岡くん」と親しげに呼んでくれるのに。
「そ、その...今度一緒に勉強しない?」
「は?ごめん、忙しいから」
即座に断られた。
「やっぱり...僕なんて相手にされないんだ」
その日のテストも散々だった。英語12点、化学8点。もはや一桁台が当たり前になっていた。
家に帰ると、母親がいつもより心配そうな顔をしていた。
「最近、本当に元気がないけど...何かあったの?」
「な、何もないよ...大丈夫」
嘘をついた。本当は何もかもが上手くいかなくて、生きているのが辛かった。
夜、アプリを開くと、選択肢がさらに変化していた。
今まで見たことのない、暗い雰囲気の画面が表示された。
背景色が淡いブルーから深い紫に変わっていて、星のマークも不気味に点滅している。
【永遠に眠る夢】
【現実を忘れる夢】
【二度と目覚めない夢】
【苦しみのない世界の夢】
「何だこれ...選んじゃダメなやつだよね」
今までの可愛らしい選択肢とは全然違う。
画面から発せられる雰囲気も、以前の優しくて温かいものから、何か底知れない闇を感じるものに変わっていた。
(これは完全にアウトなやつだ…!)
見ているだけで、明らかに危険な選択肢だった。頭では分かってる。
でも、心の奥では「もしかしたら...」という気持ちもあった。
毎日がこんなに辛いなら、いっそのこと現実から完全に逃げ出してしまいたい。
痛みも、屈辱も、絶望も、全部忘れてしまいたい。
そんな弱い自分が情けなくて、でも抗えなくて、結局誘惑に負けそうになっている。
アプリの雰囲気が変わったのと同時に、僕の心境も変化していた。
最初は「楽しい夢が見られるアプリ」だと思っていたのに、今では「現実から逃げるための道具」になっている。
いつの間にか、僕はこのアプリなしでは眠れなくなっていた。
「そろそろ、まずいよ…。」
今の状況に、僕は恐怖を感じた。けど、同時にどこかで大丈夫だとも思っていた。
所詮これはアプリなのだ。ボタンひとつで削除することができる。
そう思い、削除ボタンを押すと突然スマホにメッセージが表示された。
『本当に幸せを手放すの?』
胸がドキッとした。
『現実の君は何も持っていないよね?夢の中でなら、君は完璧なんだよ?』
急にそんなアプリのメッセージ通知が表示された。
突然のことに、画面を見つめながら、僕は震えていた。
(その通りだ。現実の僕には何もない。)
手が震えて、息も浅くなって、心臓がドキドキしている。
アプリの言葉が、まるで僕の心の一番深いところを覗き込んでいるみたいで怖かった。
でも同時に、やっと自分のことを理解してくれる存在に出会えたような、妙な安堵感もあった。
現実では誰も僕の苦しみを分かってくれない。でもこのアプリは違う。
僕の本当の気持ちを見抜いて、慰めてくれる。たとえそれが罠だとしても、今の僕にはこの優しい嘘が必要だった。
朝起きるのが辛い。
3週間が過ぎると、僕の生活は完全に夢中心になっていた。
夢の世界から引き離される感覚が苦しくて、二度寝三度寝を繰り返す。遅刻も増えた。
授業中もぼーっとしていることが多くなった。
現実の授業よりも、昨夜見た夢の内容の方がリアルに感じられる。
成績はさらに下がった。数学3点、英語5点、化学7点。もはや勉強する気も起きない。
昼休み、一人で弁当を食べながら、周りの友達同士の会話を聞いているのが辛かった。
「昨日のYouTuberの動画見た?」
「うん!めっちゃ面白かった!今度のオフ会あるんだって!」
そんな他愛のない会話が羨ましかった。僕には話す相手がいない。
谷本さんは今日も先輩と楽しそうに話していた。
二人でTikTokを撮影しているのを見かけて、胸が苦しくなった。
「僕には関係ないけど...」
そう思おうとしても、胸が苦しかった。
家に帰ると、母親が玄関で待っていた。
「今日、学校から電話があったの」
心臓が止まりそうになった。
「成績のことと、遅刻や授業態度のことで相談したいって」
「ご、ごめん...」
母親の悲しそうな表情を見るのが辛かった。
「何かあったら話してね。一人で抱え込まないで」
優しい言葉だったけど、どう説明すればいいか分からない。
夜、アプリを開くと、また新しい選択肢が追加されていた。
【現実との完全な決別の夢】
【永遠の幸福の夢(期間限定)】
【現実を上書きする夢(新機能)】
一番下の選択肢が気になった。『この夢を選ぶと、現実の記憶を夢の記憶で上書きします。辛い現実を忘れて、理想の記憶だけで生きることができます。』
「記憶を上書き...?」
誘惑的だった。田島にいじめられたことも、テストで悪い点を取ったことも、谷本さんに冷たくされたことも、全部忘れられる。
でも怖くもあった。それって、もう本当の自分じゃなくなるということじゃないだろうか。
しばらく画面を見ていると、急に選択肢が変わった。
今まであった複数の選択肢がなくなって、1つだけになっていた。
【完全なる解放の夢】
金色に光るボタンが、まるで僕を呼んでいるように脈打っている。
【おめでとう■■ます。あなたは現実の苦し■から完全に■■される資格を■■しました。この選択■を選ぶと、永■■美しい夢の■■で過ごすこと■■きます。もう■い思いをする■要はありませ■。完璧な理想■■で、永遠■幸せでいられ■す。】
「これって...」
どういうことだろうか。途中から文字の表記もおかしくなっている。
ところどころ滲んで、何だか見たこともないような字のようにも見える。
でも不思議と怖くなかった。
現実には何もない。友達もいない、恋人もいない、成績は最悪で、将来への希望もない。
指が画面に向かっていく。
しかし、その時、LINEの通知音が鳴った。
母親からのメッセージだった。
『お疲れ様。今日も一日頑張ったね。今度の休みに、お父さんと一緒に映画でも見に行かない?』
「お母さん...」
涙が出てきた。僕が何も言わなくても、母親は僕のことを愛してくれている。
でも、アプリの画面は相変わらず光っていた。
削除しようとすると、また例のメッセージが表示された。
『本当に幸せを手放すの?』
今度は今までより長いメッセージが続いた。
『現実の君を見てみなよ』
『友達はゼロ、恋人もいない、成績は学年最下位』
『クラスメイトには笑われ、先生には呆れられ、両親には心配かけてる』
『君の将来に希望はある?』
言葉が胸に刺さった。その通りだった。
『でも夢の中は違うよね?』
『そこでなら君は完璧だ』
『友達もいる、恋人もいる、成績も抜群』
『SNSでも人気者で、みんなに愛されて、尊敬されて』
『インスタでもバズって、みんなに愛されてる』
『どっちが本当の君だと思う?』
「そうだ...夢の中の僕の方が、本来の僕らしい気がする」
『現実なんて辛いだけでしょう?』
『でも夢の中なら、永遠に幸せでいられるよ』
時計は午前3時を回っていた。
僕はまだ「完全なる解放の夢」のボタンを見つめている。
タップすれば、きっと本当にすべての苦しみから解放されるだろう。
理想の世界で、永遠に幸せでいられる。
でも、それは本当の幸せなのだろうか。
「分からない...僕には分からないよ」
本当の幸せって何だろう。現実の小さな温かさと、夢の中の完璧な世界。
どちらを選べばいいのか、僕には分からない。
「どうしよう...」
僕の指は、まだ宙に浮いたままだった。
そして夜は、まだ終わらない。
おわり