水差し
綺麗な入れ物だった。
その美しい口の細い壺のような物は、年に一度の祭りの時に使われる。祭りの舞を舞う演者に捧げる飲み物を入れるのだ。井戸からの水を入れただけなのに、それはまるで甘露のような極上の味わいで、恍惚のうちに舞を終えるらしい。
いつからあるのかも、誰が用意したのかも不明で、いつの間にか祭りに不可欠な物になっていた。村で一番の長老に聞けば、子供の頃から有った気がすると言っていた。
それが飲めるのを楽しみに、舞の練習を頑張る子供たち、飲めるのは15歳からで、演者に指名されるように、頑張って覚えるのだ。飲んだことがある大人たちは皆口々に、なんとも言えない極上の味わいだったと恍惚の表情で語り、子供たちの期待は否が応にも高まっていく。
村の者なら誰もが知っていた。祭りの時期以外に、外に出してはいけないと。その理由を知らずとも、昔からの言い伝えなら、何か理由があるのだろうと、祭り以外で外に出したりはしなかった。
ある年の祭りのあと、厳重にしまわれたその入れ物を、盗もうと考えた者がいた。その者は、田舎暮らしに憧れたらしい家族で、都会から移り来て村に馴染めずに、村への仕返しをかねた嫌がらせのつもりだった。
「あの入れ物は、見た目も美しいから、良い値で売れることだろう。こんな田舎に有っては勿体無い」
「そうよね。せっかく私たちが都会から越してきてやったのに、野菜のひとつも寄越さないなんてあり得ない。売るほどたくさんあるくせに」
都会から越してきた、もとい、何かやらかして逃げてきたこの家族は、他人の畑から勝手に野菜を持ち帰ったり、荒らしたり、色々な家から出禁をくらい、村人たちから避けられていた。
全ての良くない物事は、他人が悪いと思い込む他責思考で、質が悪い。準備や片付けは一切手伝わないのに、打ち上げや振る舞いにだけは参加する。そして食い尽くす。
この家族、泥一家は、夫の沼夫、妻の棒女、息子の舟行という。妻の名前に至っては、出生届けの時に親が漢字を間違えた。この字は「棒」で「はる」とは読まない。本当は「榛女」とつけたかったらしい。その為、普段は名前を仮名で表記している。
「ねえ、いつにする?」
「まだ片付けで出入りしてるやつらがいるから、もう少ししてからが良いだろうな」
「それもそうね」
神社の宝物庫のような蔵に、祭りに使う祭具はしまわれる。舞に使用された舞台の飾りもしまうため、舞台の解体が終わっていないうちは、人が出入りしているのだ。
「パパ、ママ、いつになったら飲めるの?」
「もうすぐよ」
「俺も一度飲んでみたかったんだよ」
「私も飲んでみたいわよ。舞を覚えないと飲めないなんて、ケチ臭いこと言って、本当にムカつくわよね」
そんなに難しくない舞を覚えれば良いだけなのに、何がそんなに面倒なのだろう。
「片付けに混ざって、盗んでくれば良いじゃん」
「そうだな。手伝うふりして、場所を確認しとくか」
翌日から、片付けを手伝う振りをして、入れ物の場所を確認した。手伝う姿を見て、心を入れ替えたのかと、村の人たちは、少しだけ見直したのだった。
「どこにしまってあるのか、全く分からなかった」
「え、そんなに奥深くにしまわれてるの?」
「どうしたら聞き出せるか、考えてくれよ」
夫婦で考えてみたが、何も思い付かない。
「ママも手伝えば良いじゃん」
「仕方ないわね。私も手伝うふりして探すわよ」
「僕は、学校で聞いてみるよ」
翌日から、棒女も村の祭事に関わることを手伝うようになり、すっかり回りから見直されたのだった。
日に1時間くらい片付け、15分くらいお茶をして解散する。皆、農作業の合間に参加するので、お昼ごはんを食べたあとに少しずつ進めているのだ。
「泥さん、お茶にするよ」
片付けの最終日、棒女はお茶に誘われた。これまでは、何も持参してこない棒女はお茶に誘って貰えず、勝手に参加しては嫌がられていた。がしかし、最後の日くらいはと、気を利かせてくれた人がいたのだ。
「皆さん、お疲れさまでした。今年の祭りも、無事やりとげ、花飾りや舞の衣装も、正しくしまうことが出来ました。これからは、来年の祭りを楽しみに、頑張って行きましょう」
「おー」
「カンパーイ」
普段なら、あれもこれもと飲み食いするが、酔ってしまっては話が聞けないので、お茶だけをすすり、控えめに食べていた。
「はるめさん、お酒召し上がらないの?」
「今日は、ちょっと」
「体調、悪いの?」
「そういうわけでもないけど」
「無理しないでね」
「ええ、まあ」
親切な村人が、心配して尋ねてきた。棒女は適当にあしらい、どうしたら良いかと考えていた。
「泥さんの奥さん、体調悪いんですって? 大丈夫? 何なら飲めそう?」
祭りの実行委員長が、話を聞いて心配したらしい。
「舞の水なら、なんて、ははは」
「あー、あれ、美味しいわよね。でも、社殿奥の鳳凰の間に安置してしまったから、来年まで飲めないわね」
なんと、こちらから聞かずとも、情報を得てしまった!
「そ、そうですよね。来年飲むことにします。ちょっと用を思い出したので、この辺で」
棒女は、意気揚々と帰っていった。村人たちは、酒が入っていることもあり、棒女の不審な行動を、あまり気に止めていなかった。
「聞いてきたわよ!」
「出来した! 良くやった! おまえは、素晴らしい!」
「本殿の、鳳凰の間にあるって、実行委員長が話していたわ」
「本殿にあるのか! そりゃ蔵にはないわけだ」
今日で片付けが終わったので、もう蔵に出入りする人はいなくなるが、神社の本殿には神主がいるので、神主がいない日を狙おうと、夫婦で話し合った。
変に疑われないように、棒女は、少しだけ愛想良くして過ごしていた。すると、立ち話や、井戸端会議に混ぜて貰えるようになり、神主のスケジュールも分かるようになった。
「上京した息子さんが入院したらしくて、明日、明後日は社殿に誰もいないそうよ」
「あら、なにがあったの?」
「盲腸ですって」
「なら、心配ないわね」
これは、良い情報を聞いた!と、棒女は北叟笑んだ。
家に帰ると早速夫に話し、明日の深夜に決行することに決めた。
昼間は、誰かが神社の境内にいることがあったか、日が暮れてくると、人っ子一人いなくなった。
「ちょっと不気味ね」
「誰もいないからな」
「居たら困るわよ」
鳳凰の間がどこだかは分からなかったが、奥の方だろうと当たりをつけ、全ての部屋の戸を開けていった。
スッと開けた障子戸の先に、麻縄に白い紙が垂れ下がる、注連縄の結界の中に、それはあった。
「なにこれ? なんで回りに紐が有るの?」
注連縄結界を知らないらしい。
「なんでも良いからさっさとずらかろうぜ」
「それもそうね」
やはり、夜の神社は不気味なのだ。
注連縄結界を破り、美しいそれを掴み取った。一瞬、声が聞こえた気がした。
「何か言った?」
「俺は何も言ってないぞ」
「そうよね」
持ってきた袋に詰め込み、神社の本殿から逃げ出した。
家に帰りつき、袋からそれを取りだし、水道水を入れてみた。コップに注ぎ飲んでみたが、あまり美味しくない。
「何これ、全然美味しくないじゃない」
「あ、たしか、井戸水を入れるって聞いたぞ?」
ひっくり返して中身の水道水を全部出し、空にした。
「仕方ない。井戸水汲んでくるか」
「どこに井戸があるか知ってるの?」
「蔵の側に有るぞ」
それを持ち出して人に見られても面倒なので、鍋を持って井戸水を汲みに行った。
深夜の井戸は、それはそれは不気味で、跳ねる水音が耳元に迫ってくる。
「早く帰りましょう」
「そうだな」
急いで帰り、汲んできたばかりの井戸水を注ぎ込んだ。少し待ち、コップに注ぎ飲んでみた。
「旨い! なんだこれ?」
「甘いような、旨味があるような、不思議な味!」
本来は舞を舞う前に飲むが、この夫婦は舞いなんて知らない。当然、踊ったりはしなかった。なのに、ガブガブと飲み続けた。
まるで酒をあおるように飲み続け、踊りも踊らずそのまま寝入ってしまった。
翌朝、息子が起きてくると、キッチンに両親が倒れていたが、様子がおかしい。
「ママ? パパ? どうしたの?」
倒れている両親を揺すって起こそうとして気がついた。
足がおかしい。父親はズボンなのでパッと見では気がつかなかったが、スカートを穿いている母親の足が、細くごつごつしていて、まるで鳥の足のようなのだ。良く見たら、父親の足も同じように鳥の足なのだ。
「ギャー!!! 化物! ママとパパを返せー!」
息子が騒いだので、両親が目覚めた。
「舟行、何を騒いでいるの?」
「クケー、クケケ、クコー、クケケー」
母親は人の言葉を話したが、父親は人語を話せなくなっていた。
「あなた、どうしたの?」
「クコー、クケケー!」
息子は泣きながら外に逃げていった。
「泥さんの所のボウズ、どうしたんだい?」
「ママとパパが、ママとパパが」
「何かあったのか?」
たまたま息子に出くわした村人が、隣人を呼んで、泥家に訪問した。
そこは地獄絵図だった。
手足が鳥で、顔だけ人の顔をした、泥沼夫が、鳥のように鳴きわめき、足だけ鳥の泥棒女が、気が狂ったようにその夫を叩いていた。
そして、傍らにそれが転がっている。
「おまえたち、それを盗んできたのか!?」
「あ、祭りの水差し!」
村人が、水差しと呼んだ時だった。
「我は水差しなどではない」
頭に響くような声が聞こえた。村人たちにも聞こえたのだ。
「今の声はなんだ!?」
「誰の声だ?」
すると、水差しだと思っていたそれは、見たこともない不気味な鳥の姿になり、羽を広げて飛んでいってしまった。
我々は今まで、いったい何を飲んでいたのだろう。
適量を飲んで、舞を舞ったり、踊りを踊っておけば、体に貯まらず手足は変化しなかったのです。