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第一章 気化葬 其の伍

 八月末日 久遠 駆流


 「うぉい、駆流!この前の可愛い子ちゃんが来たぞ!!」

 おい、保科。お前の眼鏡には美女センサーが搭載されているのかと、その俊敏性に感心してしまうよ。


 また坊主男を引き連れた真白詩希は、緑色のワンピースを着て僕に声をかける。

「あ、お母さんのお気に入り!この前はお財布ありがとね。」

 タメ口をグッと堪えて客席へ案内するが、小娘は口の前で人差し指を左右に揺らした。


「チッチ♪今日はお客様でなく、彼と歌いにきたの。」

 確かに坊主男はギターを背負っている。

「みろさんとしーちゃんよ!check it out!!」

 天井を震わせる甲高い声に、前回以上に笑いを堪える。


「またお呼ばれされるでしょうから自己紹介しとくわね。私はボーカルの真白詩希、グリーン東京の歌姫よ。彼はギタリストの弥勒院愛有人みろくいん あるとさん。本物のお坊さんでもあるの。」


 手で口を覆いながら今晩のバンドリストを確認し、二人を楽屋に案内した。(お母さんのお気に入り)を切り取られ、関係を疑った保科に長時間拘束を受けていると、珍しく黒電話が鳴る。イベント日にさえ顔を出さない店長からだ。


 「駆流か?」

 「ええ。」

 「実は大事な話がある。」

 こんな店長はクビになって当たり前で、店長交代なら大歓迎だ。

 それともようやく仕事ぶりが評価されての時給アップ。それもいい。


 「今日で店を辞めてもらう。」

 「は?」

 「安心してくれ。次の職場は用意してある。給料は大幅アップだし、正社員だぞ。」

 「訳が分かりません。それに僕がいなくなったら…」

 「それも安心してくれ。ピチピチの新人さんを採用してあるから心配無用だ。」

 「こんなの不当解雇ですよ!僕が何したって言うんですか?」

 「強いて言えば、店の商品であるボトルを無断で持ち出したことかな。」

 「信じられない。仕事をしない人間に、無欠勤の僕がリストラされるなんて!」


 「お前は良く働いてくれたよ。退職金は色付けて、明日付で振り込んでおく。だからお前はオアシスさんで働くんだ。」

 オアシス…記憶を穿り出す。漫画喫茶、キャバクラ、ホテル…

 「オアシスって、どこの職場ですか?」

 「お前が日本酒を届けた場所だ。」


 その場に凍り付く。

 有り得ない。僕が遺体安置所で働く?人の死はもう懲り懲りなのに。


 「幾らもらったんですか?あの女性支配人に!」

 虚しくも、既に電話は切れていた。


 気付くと僕は具合が悪いと保科に告げて、店の裏庭で冷蔵庫から拝借したラムネジュースを口にしていた。炭酸を摂取したのはいつぶりだろう?

 安定した平凡な日々が、父の死を皮切りに一月足らずで破壊されてしまった。自ら何も欲していないのに、大きく変化を遂げた東京の空の下で、僕は初めて仕事をサボっている。

 

 変わっていく。

 ブラックホールに吸い込まれるように、駆けたことのない世界へ導かれていく。


 しばらしくて店内へ戻ると、元放送部の保科が、マイク片手に曲紹介をしている。


 「皆様!続いては初登場にして本日の大トリ!グリーン東京に突如舞い降りた十九歳の女神が降臨!可愛らしいビジュアルに反し、珠玉のバラードで店内に涙の雨を降らせるボーカルのしーちゃん。そしてセクシーな指使いでオーディエンスの心を掴んで離さない旋律の坊主、みろさん。それでは聴いてください。みろさんとしーちゃんで(雪の華)。」


 無駄に長い文はオアシスの娘が書いたものに違いない。どうでもいい。ただのマネ歌ごっこじゃないか。こんな店、未練なく辞めてやる。


 疎らな拍手が止むと、長い脚を組んだ坊主がギターを弾く。薄暗くなったステージの上から、空き時間に保科と千切った白い紙吹雪がひらひらと舞う。そして結んでいた髪を解いた彼女は、開いた両手に何枚かの雪を掴んで歌い始めた。


 小娘の皮を被った化け物が、目の前にいる。

 幾つかの時代を渡り歩いた聖母マリアの化身が囀り、僕は彼女が言った通りに涙した。

 人の歌を聴いて、初めて泣いた。

 何故、彼女はこんなに切ない歌声を奏でられるのだろう。

 靴も履かずに、雪の上に立っていられるのだろう。


 彼女の声が訴える。

 生きることは難しいよね?

 聴衆が抱える不安や悲しみを揺さぶって、滅多に表情を変えない東京に涙を流させる。

 でも彼女はそこで終わらない。透き通っても強く、通り過ぎても耳に残る美しい歌声が、死するまで前を向いて生きていけと訴える。

 数分の時間の中で、脱力と未知なる希望を味わった僕は、彼女に釘付けになった。


 曲を終えた店内は、くの字に膝が曲がったスタンディングオベーションに包まれた。客も保科もおしぼりで涙を拭いている。そしてニューヒロインの誕生に、岡林さんはステージに上がって彼女に握手を求めた。


 僕は帰り支度をした彼女に声をかけられるまで、魔法のかかった雪の上で掃除機をかけていた。


「どうだった?私の歌。」

「バラードは好きではないんだ。」

 違う。間違いなく、人生史上最高の生歌だった。


「あらそう。さておき、明後日からせいぜい頑張ることね。」

「お宅で働くなんて、まだ決めていないよ。」

 クスっと笑い、真白詩希は店を出て行った。


 友人の僕が退職することより真白詩希の家で働くかもしれないことに、嫉妬、発狂した保科は、翌日から元地下アイドルの美女がバイトに来ることを知らずに「やけ酒だ!」と店の大吟醸を盗み飲んだ。


 その晩、店長の情報漏洩により一通のメールが届いた。


― 明後日の来社、楽しみにしております。黒いスーツと革靴、持っていらっしゃるかしら?無ければ明日中に用意をお願いします。費用はこちらで負担します。くれぐれもランニングシューズで仕事をすることがないようにお願いします。 真白 希樹 ―


― 御社で働くとは言っていません。勝手に決めないで下さい ―


 そう伝えた翌日。

 僕はみのり商店街でスーツと革靴を購入し、振り込まれたばかりの退職金で欲しかったランニングシューズを買ってしまった。シューズ代も請求してやろうと考えたが、まずは会って給料を聞いてからと布団に潜り込んだ。

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