第一章 気化葬 其の三
八月十六日 木曜日
父の気化葬から二週間が経った。
グラスに残っていた銀歯をとあるお爺さんに届け、拾った食べカスをまとめてゴミ袋に入れる。再びカウンターに戻ると、同僚の保科が不気味な眼鏡を光らせる。客の目を気にせず大声で話しかけるKYだが、最近会話は減っていた。少しは成長したようだ。
「親父さんのことがあって、やる気なし、金なしなのは仕方ない。だからこそお互いに金を貯めて、プラチナ・アイランドのバーチャル風俗でストレス発散しようぜ。アプリで作る理想の女の子とあんなこと、こんなこと…」
荒い鼻息からミントが香る。バイト中にガムを噛みやがって。
巷で話題のバーチャル風俗は六十分で五万円はくだらない。ここの安い時給では相当な月日を要する。タクシー代や気化費用が余計な出費になったから、僕には気が遠くなる提案だ。
「保科の奢りなら考えておくよ。」
「ま、それならこの前のガールズバーで我慢しとこか。」
線香花火マインドの唯一の親友にげんなりする。
「すみませーん。」
黒い長髪を後ろで結び、紺のワンピースを着た若い女と、ピンクのシャツにタイトジーンズを履いた長身の坊主男が来店。席へ案内すると、坊主男からすぐさまオーダーが入る。
「私は平成風ジントニックで、彼女には昭和タイムスリップクリームソーダをお願い。」
異様に甲高い声が店内に響く。真っ赤な唇に麒麟のように長い首。良く見れば男は化粧をしている。「畏まりました。」と頭を下げつつ笑いが堪えられず、そのままの姿勢でカウンターに戻る。
「おい、あの娘、超可愛いな。やっぱり生身もいいよなあ。俺、声かけてきちゃおうかな。」
中学時代から知る保科にそんな度胸はない。異性と交際経験のない臆病者で、告白できないまま目移りした相手に鞍替えする典型的なムッツリ眼鏡だ。
新規客の二人は楽しそうに懐メロを聴いている。時折、席を立っては手足でリズムを取って、坊主男の妙なダンスを見て、女が手を叩いて笑って見せる。その様子に周囲の老人たちが手拍子を始め、小さなダンスホールが誕生した。そして閉店時間までライブを堪能した二人は満足げに席を立った。
「とってもいいお店ね。ドリンクメニューはユーモアたっぷりだし、あの金魚の形したガラス細工も凄く可愛い。お客のお爺ちゃん、お婆ちゃんも素敵な人ばかりだし、昔を大切にしている感じが大好き。無駄話をして呼んでも中々来ない店員はマイナスだけどね。」
形ばかりのお辞儀をすると、女はあっかんべぇして店を跡にした。一杯のアルコールも飲まなかった女は恐らく年下の未成年。腹が立つが、滅多に他客と話さない、通称(百年の孤独)と呼ばれる吉川の婆さんが女と仲良く喋り、坊主男が差し出した唐揚げを嬉しそうに頬張っていた。(コミュ力お化けの男女二人組)と強く印象に残るが、閉店作業は忙しい。今日は食べカスが多いと掃除機に勢いよく吸引させる。
「今日はかなり客入ったよな。可愛い子ちゃんも見れたし、高密度な一日であった。」
保科はエプロンを外し、今にも帰る体制を整えている。
「おい、まだリセット終わってないだろ!せこいぞ、お前!」
卑怯者を捕まえようと掃除機を離すと、女が座っていた席に緑色の財布を発見する。
「おいおい、勘弁してくれよ…」
客の見送りを終えてから優に三十分は経過した。
今更追っても無駄で、女が取りに来るを待つしかない。
…来ない。深夜零時を過ぎても、一向に来る気配がない。
嫌々に財布を開いて身分証を確認する。
真白詩希 二〇二一年生まれ 住所 グリーン東京第八地(旧 日ノ出町)…
一応、店長に電話して今後の対応を仰ぐ。
「警察に届けるのが一般的ではある。しかし、ウチは日本一親切な店だ。住所が分かっているなら、明日届けに行ってこい。」
交通費と休日手当てを催促する前に電話を切られてしまった。店長は明日、家族と水族館に行く予定があるそうだ。そんな時間いくらでもあるくせに…老人から巻き上げたお金で、カジノか風俗に行くに違いない。折角の休日なのに、山中の第八地区に財布を届けるなんて…
今月の僕は間違いなく呪われている。
八月十七日 金曜日
小鳥の囀りが無数の蝉の鳴き声に掻き消されようと、木々に覆われた山道は、曇った僕の日常より気持ち良い。凸凹に注意して、靴底にフィットする土の絨毯を進む。
奪われた休日を、絶交のランニング日和に仕立て上げる。道中で出会った丸太木の階段を何往復し、木陰に横たわってゼリーを吸引する。緑の世界は幻想的で、漂う空気の粒子がいちいち美味しい。
掌で額の汗を拭うと、目の前につぶらな瞳をした小鹿が現れて、僕に気付くなり颯爽と茂みの奥へと消えて行く。
―人間はお呼びでない―
その訴えに財布の存在を思い出し、道路に並行する歩道へとコース変更する。
途中で何軒かの家を見かけるが、人の気配がない。東京の山村部は空き家だらけとは聞いている。観光地周辺の物件は中国人が買い占めたらしいが、震災の復興が行き届かないこの地はどうなっているのだろう?
―お疲れさまでした―
棒読みの地図アプリに別れを告げると、青々と茂る木々に囲まれ、ひっそりとその場に佇む洋館を見つけた。
「ここだ。」
横長の二階建て。全ての窓は薄緑のカーテンで閉められている。建物の周りにはレンガに囲まれてカラフルな花々が咲いている。絵本に出て来そうなメルヘン調な世界線と思えば、他には何もない無機質さがある。
突然吹き荒れた強烈な夏風に、汗が引く。
―OASIS-
頑丈そうな扉の上に、褪せた金色で、そう書かれている。
入口へ近付く。清掃は行き届いているようだが、壁の所々がひび割れて年季を感じる。
「どうぞ、中へ入っていらして。」
チャイムを鳴らす前に、光ったセンサーの向こうから、低く良く通る女性の声が聞こえた。
咄嗟にズボンで手汗を拭って、金色のドアノブを握って中へ入る。
開放感のある吹き抜けのロビースペース。ワインレッドの絨毯が一面に敷かれ、空を飛び交う妖精がアレンジされたシャンデリアの光が煌びやかに室内を照らしている。板チョコみたいな腰掛けソファー、円の字みたいな縦長の窓、映画に出て来そうな暖炉に振り子のついた古時計。
ここは爺BARのような(レトロ)を売りにした民宿か骨董品店なのかもしれない。
「正面の階段を上って、二階へ来てくださいますか?」と先ほどの女性の声が届く。
僕が客だとして出迎えに来ないなんて、ウチの店と変わらないじゃないか。でも、ここがどんな場所かはどうでもいい。財布を届けにきただけだ。
二階へ上がるとドアが開いたままの部屋で、椅子に腰掛けるショートカットの女性と目が合う。女執事のように白いシャツと黒いパンツスーツを着て、「どちら様ですか?」と背筋を伸ばして穏やかに言う。
「うわぁ!」
女性の上に角を生やした鹿の顔が浮かんでいる!
「カナダから取り寄せたプロングホーン、別名エダツノレイヨウの剥製です。ご存じかしら?」
「いいえ…」
何処か遠くの世界へ引き込まれるような、独特な雰囲気を醸し出す女性だ。
真っ直ぐな瞳に目を逸らしてしまう。
「今日はどんな御用でいらしたのですか?」
昨晩の話をして財布を手渡した。
「あら、わざわざ娘の財布を届けて下さったのね。ありがとうございます。」
「はい。一応、日本で一番親切なお店らしいですから。」
振り絞った冗談は通じない。若いお母さん執事は真顔のままだ。
「娘の詩希は外出していて、夜まで帰りませんの。」
娘の名前は(しき)と読むのか。珍しい名前だ。
「お車でなく歩いてこられたのでしょう?何か冷たいお飲み物でもいかがですか?」
正直のどはカラカラだが、強烈な視線を浴び続けるのは辛い。
仕事があると嘘をついて失礼しますと言いかけた時だった。
「希樹さん、到着しました!」
一階から大きく太い、男の声が響く。
「いらっしゃったのね。」
女性はスッと立ち上がると、「急で申し訳ないのですが、少しお手伝い頂けますか?」と言い残し、美しい早歩きで階段へ向かった。
重い荷物でも届いたのだろう。
女性を追うと、開いた扉の前に黒いスーツを着た男が立っている。
「反町第三病院からの搬送です。明日の十五時に気化。オアシスの出発時間は午前十三時半予定です。体が重いですが、希樹さん大丈夫ですか?」
「右京さん、ご苦労様です。今日は日本一親切なお手伝いさんが来て下さっているのよ。」
搬送に気化。
覚え立てのワードが聞こえ、反射的に後ずさりしてしまう。
それでも男は躊躇なく大きな物体をロビーに運び入れる。
荷台に載り、白いシーツに包まれた物体。扉向こうの日光に照らされて、人型のシルエットが薄っすらと浮かぶ。嫌な予感が色濃くなるが、ここは気化施設ではないし、洋館の中に火葬場があるとは思えない。だとしたら、ここは何の施設だっていうんだ?
「付いてきてください。」
二人はそれぞれ頭部と足元を支えながら、荷台を押して、ある一室へ入って行く。
シンクに小型の冷蔵庫、それにリクライニングチェアにテレビもある。家具は木製で統一され、木々の香りが室内に充満している。生きる人のための宿泊施設だ。シーツの中身が人間なのであれば、まだその人は息をしている。そうか、ここは人生の終末を迎えた人々のための、ホスピスのようなホテルなんだ。
「故人様をカプセルベッドに移動します。この手袋をして、あなた様は腹部の下に両手を入れて、お体を支えて頂けますか?」
「故人…」
嘘だろ?何でこんな短期間に、亡くなった人間と遭遇しなければならないのか、意味不明だ。
「おい、ご友人を外で待たせているんだ。早くしろよ!」
荒々しい男の声に押され、ビニール手袋の装着にもたつく。更なる舌打ちにビクつくが、恐る恐るの手探りで、腹部の下に手を回す。手袋越しに想像以上の体温を感じる。そして男の掛け声と共に浮いた体をベッドに移し込むと、女性が額の上にかけられた白布を外した。
息をしていない遺体が、ベッドの上で横たわる。
首に蛇の痕はない。この人はどう死んだのだろう?
男は付添人を呼ぶと外へ向かった。女性は斜めになった額の角度を正面にして、「お疲れ様でございました。」と手を合わせ、乱れた髪を整える。
僕は一体ここで何を手伝っている?
呪われたどころではない。死神に憑かれているに違いない。それを祓うには、どこへ行けばいいのか、と真剣に考える。また父も死んだ後は温かかったのか?と疑問が沸いてその場に立ち尽くしてしまう。
「岡林さん!」
慣れ親しんだ仏頂面に思わず声をあげてしまう。朝から酒を呑んできたのか、顔一面が赤らんでいる。
「不愛想店員、お前何でこんな所に!」
相変わらずの無駄に大きい声と唾のスプリンクラー。
「僕はただ、店に忘れられた財布を届けに来ただけです。岡林さんこそ…」
「お前、顔を見ても分からんのか?ささやんが亡くなったんだ。それでお前んとこの店長に、俺達にぴったりな安置場所があるからって、ここを紹介されたんだ。」
いつもの眼鏡を外し目を閉じていたからか、故人がバーの常連である佐々木さんだと気付かなかった。そして岡林さんは今日の出来事を赤裸々に話し続けた。
今朝、将棋を指しに行こうと佐々木さんの自宅に行ったが応答が無く、アパートの管理人が鍵を開けて中に入ると、居間でうつ伏せに倒れた佐々木さんを発見。既に息がなかったそうだ。生涯独身の七十二歳。だいぶ前から肝臓を悪くしていたが、お金に余裕がなく、充分な医療を受けていなかった。それでも限られた年金でバーに遊びに来ていたそうだ。
「あのさ、一つお願いがあるんだけど。」
岡林さんは申し訳なさそうに女性に手を合わせる。
「今日ここで、ささやんと最後の呑み会をしたいんだ。いつものように、いつものメンバーで。」
「もちろんです。正しく、そのための場所ですから。」と女性は即答した。
「ありがとな。本当は遺骨にしてやりたかったけど、金がねえから高い火葬費用は払えん。だから明日の今頃にはささやんは骨にならずに消えちまうんだ。」
岡林さんは女性の案内で線香をあげると、お腹の上で組まれた佐々木さんの両手を握り、「待ってろよ、ささやん。直ぐに体を温めてやるからな。」と外へ飛び出していった。
気化とか火葬とか、自殺か病死とか、そんなことはどうでもよくて、同じ人間の死後がこうも違うものなのかと思い知る。
女性に挨拶して洋館を出ると、鳥たちが大空を飛び交っている。
父に問う。
あなたには、心を許せる相手が一人でもいましたか?
お前を一目見たい。お前と最後に一杯やりたい。
そう思ってくれる友人が、あなたにはいたのでしょうか?