7.溺愛は続く
毎朝恒例のお見送り。頬にキスをしようと思ってリクハルド様の首に腕を回すと、いつもより彼の体温が高い。慌てて額に手を当ててみる。
「大変! 熱があるわ」
リクハルド様はいつものように無表情だったので、今まで全く気づかなかった。よく見ると、少し顔が赤い。
「これくらい平気だから。あの、それでは、行ってきます」
いつものようにリクハルド様は少し屈んでいる。私のキスを待ってくれているみたい。期待されているようで嬉しいけれど、今はそれどころじゃない。
「駄目よ! 今日はお休みして」
結婚してもう一か月になるのに、リクハルド様は結婚式の翌日から出勤して今まで一度も休んでいない。いくらなんでも働きすぎだと思う。病気のときくらいはゆっくりと休んでほしい。
「本当に休むほどのことではないから」
リクハルド様は残念そうに背を伸ばした。
「お願い。行かないで。だって、リクハルド様がこのまま出勤してしまったら。心配で私も病気になってしまうわ。それとも、この家にいるのが嫌なの? 私のことが嫌い?」
こんなことを訊くなんてちょっと卑怯かなと思ったけれど、熱がある状態のリクハルド様を出勤させるわけにはいかない。
「そんなことない! ここの暮らしはとても楽しい。そ、それに、君が病気になったら困るから、今日は休むことにする」
リクハルド様は立ち眩みしそうなほど激しく首を横に振りながら、私の問いを全力で否定してくれる。それに、衛兵隊を休むことも了承してくれた。
衛兵隊へ病欠する旨の使いを出して、お抱えの医師に診察を頼むことにした。そして、リクハルド様を寝衣に着替えさせて夫婦の寝室へと連れて行く。
「今流行している風邪ですね。熱はそれほど高くありませんし、呼吸音も異常がみられません。喉が少し腫れているので、この薬を服用してゆっくりとお休みになってください。三日ほどで回復するはずです」
幼い時からお世話になっている老齢の医師は、見覚えのある水薬を処方してくれた。私が風邪をひくといつも飲まされていたとっても苦い薬だ。
「マーレトにすりおろしリンゴを作ってもらって」
侍女に頼むとすぐにすりおろしリンゴが届いた。それを見ていると、幼い頃の懐かしい思い出がよみがえるようだった。
『お薬を飲んだいい子には、このすりおろしリンゴを食べさせてあげますからね』
苦い薬を飲むのを嫌がる私に、母はこう言って励ましてくれた。そして、母は手ずから食べさせてくれたのだ。
「お薬は苦かったでしょう? お口直しにすりおろしリンゴを召し上がれ。はい、あーん」
ベッドに横たわったままのリクハルド様の口元にスプーンをもっていく。
リクハルド様は病気になっても薬さえ与えられていなかったらしい。その上、看病もせず放置されていたとのこと。それならば、私が優しく看病するまでよ。母にしてもらったように。たった一人で病気に耐えていた辛い記憶など、私の愛情で上書きして消えてなくなればいい。
「あの、自分で食べられるから……」
さすがにリクハルド様は恥ずかしそうにしている。
「病気の時くらい妻である私を頼ってください。それとも、嫌ですか?」
そう訊くと、リクハルド様は小さく口を開けてくれた。スプーンに載ったすりおろしリンゴを口に流し込む。ごっくんと喉仏が上下するのが見えた。それからは嫌がりもせず、すりおろしリンゴを完食してくれた。
「このまま手を握っていますから、ぐっすりとお休みになって」
クハルド様は小さく頷くと、ゆっくりと目を閉じた。あの苦い薬のおかげか、すぐに寝息が聞こえてきた。
医師が言った通り、リクハルド様は三日目の朝には元気になった。二日も休んだので今日から出勤するという。
「お休みを全くもらえないなんて、衛兵隊で酷い扱いを受けているのではないですか?」
そうであるのならば、コイヴィスト伯爵家として正式に抗議してからでないと、出勤させられない。これ以上辛い思いなんてしてほしくないから。
「いや。最初はちょっときつく当たられたけれど、剣の腕は認めてくれたので、今では皆俺を仲間として扱ってくれている。無視されていた近衛隊にいるより、よほど居心地がいいくらいだ」
「近衛隊では無視されていたの?」
お飾りの近衛隊副長だったわけではなく、騎士としてちゃんと体を鍛えていたのに、それでも、仲間扱いしてもらえていなかったの? だから、エサイアス殿下に身代わりを頼まれたとき、頼られて嬉しいと感じて断れなかった。本当に悔しい。そんな従兄弟に付け込んたエサイアス殿下も許せない。
「前の副長は俺が騎士として身を立てられるよう、徹底的に鍛えてくれた。貴族としての作法や勉強も副長が教えてくれたんだ。副長が鍛えてくれていなければ、俺は衛兵隊でとても勤まらなかったと思う。だけど、二年前、副長の父上が体調を崩して、近衛騎士を辞めて爵位を継ぐことになった。その時、身分が一番高いという理由で、空位になった副長の職を俺が務めることになったから、他の近衛騎士たちは気に入らなかったのだと思う」
前副長の話をするとき、リクハルド様の目がとても優しくなった。彼が幸せな記憶を持っていることがとても嬉しい。だって、十九年もの間辛い経験しかしなかったなんて、あまりに悲しすぎるから。
「お仕事が辛くないのなら良かった。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
いつものようにリクハルド様の頬に口づけをする。少し嬉しそうに頷いて、彼は出勤していった。
こうして、穏やかな日々が戻ってきた。これからもこんな日が続くと思っていた。
その訃報は突然もたらされた。第三王子が病気のため亡くなったというのだ。