奇跡の黒猫
とある大きな都市の住宅街に、小さな家がありました。
その家には、ティムという名前の男の子と、その両親が暮らしていました。
ティムは心の優しい少年でしたが、両親からはいつも『どじで、まぬけで、のろまなティム』と言われて、事あるごとに叱られていました。
そんなティムが、ある時良い事をしました。
前足にケガをした黒猫が、自宅の庭でぐったりしていたのを看病してあげたのです。
家の中からガーゼと包帯を持ってきて応急処置をして、お腹が空いているようだったのでミルクもあげてやりました。
黒猫はミルクを飲み干すと、そのままどこかに行ってしまいました。
それでもティムは、自分がしたことに満足していました。
ところがその夜、黒猫を手当てした事を両親に話したら、ティムは両親になじられました。
両親は口をそろえて『黒猫なんて不吉なものを助けようとするだなんて信じられない』と言いました。
黒猫が前を横切ると不幸な目にあうとか、死が迫っている人の前に黒猫が現れるとか、だから黒猫は悪魔や死神の使いなんだとか、そんな事を両親から言われました。
折角良い事をしたつもりだったのに、両親を喜ばせるどころかものすごく怒らせてしまったとティムはひどく落ちこみました。
ティムの両親は、ティムをほめる事はほとんどありませんでした。
それどころか、何かいい事をした時でも両親はティムにああするべきだった、こうしておけばよかったのにと言う事がしょっちゅうでした。
怒られるような事もほめられるような事もしていない時でも、両親はティムに何かを言わずには気がすまない様子でした。
人にはやさしくしなさい。けんかをしちゃダメ。何か良くない事があったらまず自分が悪かったのではないかと考えなさい。
女の子の前では紳士でありなさい。人前ではずかしくない行動をしなさい。危ない遊びはやめなさい。
弱い人には親切にしなさい。学校の勉強はとにかく頑張りなさい。怠けてはいけません。
とにかくパパとママの言うことを聞きなさい。いい子にしなさい。いい子にしてなさい……。
何かをするたびに注意される毎日でしたが、ティムはそれでも両親に腹を立てたりしませんでした。
ティムは元々気弱な子どもだった上に、『どじで、まぬけで、のろまなお前が考えていることが正しいはずがない』『お前はパパやママの言うことに黙って従っていればいい』とさんざん言われていて、それが正しい事なのだと信じていたからです。
毎日いい子にしようと気を付けるのですが、学校の勉強も上手くいかず、小さな失敗も日常茶飯事でした。
両親からは『これだけ言い聞かせてもダメだなんて。一体何度注意すればあなたはまともな子になるの!?』と何度も言われました。
ティムが黒猫を助けてからしばらく経ったある日のことです。
学校から帰ってくる途中で、あの黒猫がティムの前に現れました。
包帯が取れた足も、すっかり良くなっているようです。
「君はあの時の黒猫かな? ケガした所ももう大丈夫みたいだね!」
ティムが黒猫に話しかけた時でした。
「お前さんがこいつを助けてくれたのかね?」
背後から地の底から響くような低い声がして、身体中に寒気が走りました。
声の主を確認するために振り返ってみると、そこには恐ろしいものが立っていました。
黒いローブをまとった、見上げるような大きさの骸骨です。
その姿はまさに……。
「し、死神!!」
おどろいたティムは、その場にしりもちをついてしまいました。
黒猫は死神の足元に近寄っていきます。
「いかにも、私は死神だ。そしてこの猫の主人でもある。お前さんはこいつがケガをしたときに、世話をしてくれたそうじゃないか」
死神はしゃがみこんで、ティムと目線の高さを合わせました。
目の前に頭蓋骨が迫ってきて、ティムは恐怖のあまり思わず叫びました。
「た、魂だけはとらないで……!!」
「安心したまえ。恩人の命をうばったりするものか。今日はただ礼を伝えに来ただけだ。お前さんは良い事をしたのだからな」
そう言って、死神は笑いました。
「お前さんは当分死ぬことは無い。だが、もしお前さんが死を迎える時には、この礼は必ずさせてもらう。その時にまた会おう」
そのように告げると、死神も黒猫も、一瞬でそこからいなくなりました。
残されたティムは慌てて家にかけこみました。
黒猫を助けたせいで、自分はこんな恐ろしい目にあったのでしょうか。
だとすれば、両親が怒るのも当然なのかもしれません。
ティムは、明日からはもっと両親の言うことをきちんと聞こうと考えました。
ティムは学校では一生懸命勉強しました。
悪い友達とも極力付き合わないように気を付けました。
親から禁じられている下らない遊びはせずに、本をしっかり読んで勉強するように心がけていました。
それでもティムの学校の成績は良くならず、友だち付き合いもあまり上手くいきませんでした。
ティムは学校を卒業した後に、小さな会社で働き始めました。
真面目に働き、酒やたばこやその他の悪いことなどもせずに頑張りました。
それでも仕事の成績は振るわず、上司から怒られたり同僚からバカにされる毎日を過ごしていました。
周りの人間からいいように扱われることもしょっちゅうでした。
ティムは何も言い返せませんでした。
自分を抑えて生き続けてきたティムは、こうなってしまったのも全部自分が悪いのだと考えていました。
どじで、まぬけで、のろまの自分は、周りから何を言われても仕方ないし、周りの言うことに従うしかないと自分に言い聞かせていました。
人にバカにされたり、大切に扱われなかったり、自分を素直に出せなかったりするのは悲しく辛いものですが、大人になったティムは周りに従う以外の生き方を知りませんでした。
さらに年を取るにつれて、悲しいとか、辛いとか、そういう気持ちを感じる事自体も無くなっていきました。
やがて父親が死に、その後は母親と二人暮らしが続きました。
ティムの稼いでくる給料では、母親とティムが暮らしていくのがやっとです。
おまけにティムは、他人と楽しく会話をするのがものすごく苦手でした。
当然、ティムはお嫁さんを見つける事も出来ませんでした。
その事について、母親はよく『私や父さんがあんなに言って聞かせて育てたのに、なんでこんな子に育ったのかしら』『本当に子育てって割に合わない』と愚痴をこぼしていました。
ティムは申し訳ないという気持ちを抱えながら、年老いた母親の世話を続けていました。
さらに月日が流れて、母親もあの世へ旅立ち、残されたティムも年を取ったために仕事を辞める事にしました。
家族もおらず、妻も恋人も友だちもいない。
他人にも軽んじられ、親にも愛された記憶がなかったティムは、まったく独りでした。
それでも死ぬまでに何とか生きていけるだけの蓄えはありました。
ティムは残された人生を、せめて自分が穏やかに過ごすために使おうと考えました。
しかし、その願いが叶う事はありませんでした。
ある日、ティムの家に強盗が押し入りました。
ティムの頭を棒で殴りつけて動けなくすると、家じゅうの金目の物を持ち去ってしまいました。
頭をひどく殴られたティムは、声を出すことも出来ず、身じろぎさえ出来ません。
自分はこのまま助けも呼べずに死んでしまうのだと悟りました。
どじで、まぬけで、のろまで、頑張っても人並みの生き方が出来なくて。
人の言うことに従っても、人に良くしてもらえることも無く。
親の期待に応える事も出来ず、こんなみじめな死に方をするだなんて。
本当に辛いだけの人生だった。
そういえば、自分は両親から『いい子になりなさい』と何度も何度も言われていた。
一方で、生まれてからだれからも、幸せになるようにと願われたことは無かった。
両親ですらも、自分が幸せになる事なんか望んでいなかったんだな。
どれだけ人の期待に沿うようにしても、その結果はこんなみじめな死に方でしかなかったんだな。
もう全てに疲れた。
もういい。
このまま目を閉じれば、それで終わりだ。
せめて辛い人生を送った分、あの世では心安らかに過ごせればいいのだが。
ティムがそう思いながら目を閉じようとしたその時でした。
「……お前さんのように、人に愛されたり大切にされたりした記憶が無く、幸せを感じる事も無かった者は、怨霊になりやすいから早めに迎えに来てやったのだが」
どこかで聞いた事がある、地の底から響くような低い声がしました。
ティムは目を開きました。
さっきまでもうろうとしていた意識が、なぜだが急にはっきりとしています。
「お前さんはあの時の少年で間違いないな?」
「あなたは……あの時の死神ですか?」
声のする方に目をやると、そこにいたのは確かにあの時の死神でした。
黒いローブをまとった大きな骸骨。右手には、あの時には持っていなかった大鎌を携えています。
「私を……迎えに来てくれたのですか?」
死神はそうだ、と深くうなずきました。
「死神様、私はこんな人生でしたが、それでも私なりに必死に生きてきました。人の言いつけも守り、悪い行いもせず過ごしてきました。私は、死後に天国に迎え入れられて、辛かった人生を過ごした分の慰めを得る事が出来るでしょうか?」
懇願するように問いかけるティムを見ながら、死神は答えました。
「お前さんは親の言うことをよく聞き、悪事にも手を染めず、真面目に生きてきた。ただ……私の見立てでは、お前さんが天国に行けるとは思えんな」
「そんな……」
死神の言葉に、ティムはショックを受けました。
「私は今までずっと真面目に生きてきたんです。何があっても自分が間違っているせいだと考えるようにしていたし、悲しいとか辛いとか感じるのも我慢してきた。それなのになんで……」
ティムは死神に対してまくしたてます。
まさか自分が、こんな人生を送ってきた自分が地獄行きだなんて。
自分を抑えて必死に生きてきて、その上あっけなく命をうばわれてしまったのに、あの世でも慰められることがないだなんて。
「こんなの、あんまりじゃないですか! 私の人生は一体何だったんだ!」
「そうだ。それこそが問題なのだ」
死神はティムを指さして言いました。
「人の言うことに従って生きてきたのに、だれも自分を顧みなかった。幸せになれなかった。辛い思いをしたんだから自分は報われないとおかしい。お前さんはその思いが強すぎる」
「ですが、そういうものでしょう!? 天国は辛い目にあった人のためのものではないのですか?」
「自分は辛かった。我慢してきた。そう語るお前さんの心の底にあるのは、強い怒りと憎しみだ。自分では意識すらしていないのかもしれんがな。そういう感情を抱えている限り、天国の門はくぐれまい」
必死に訴えるティムに対し、死神は事もなげな様子で答えます。
怒りだとか憎しみだとかいう死神の言葉に困惑するティムでしたが、とっさに死神に問いかけました。
「そうだ。あなたは子供の時の私に、『君が死を迎える時に、この礼は必ずさせてもらう』と仰いましたよね? あなたのお力で、何とか天国に行かせて頂けないのですか?」
「私はあくまで魂の管理者に過ぎない。この世に留まっている魂をあの世へ導いたり、怨霊になるのを防いだりするのが仕事だ。死者の魂が天国と地獄のどちらに行くかを決めるのは、私の仕事ではない」
「そんな……あんまりだ……」
ティムはうなだれました。
「まあ、落ち着くがいい。お前さんにも同情できるところはある。それに、私は確かにあの時の礼をしようと考えているぞ」
「お礼と仰いましても……あなたは私を天国に連れていく事は出来ないと先ほど言ったばかりではないですか」
ティムがそう訴えると、死神は答えました。
「天国に連れていくことは出来ない。だが、お前さんが生き直すチャンスを与えてやることは出来るぞ」
「生き直す……チャンス……?」
死神が何を言っているのか、ティムには良く分かりませんでした。
「お前さんにはしばらく私の手伝いをしてもらう。十分な働きが出来れば、天国の門をくぐれる可能性も出てくるかもしれんぞ」
「死神の……手伝い?」
「お前さんが助けたあの黒猫。あれは元々私の使いを買って出た人間だったのだ。今はもう私のもとを離れているし、おかげで私は随分と忙しくしているのだがな」
「つまり、私に黒猫になれと?」
「そういう事だ。ただ、もちろん無理にとは言わない。決めるのはお前さんだ。嫌だと言うのなら、このままあの世に行ってもらっても構わない。さて、どうするね?」
とにもかくにも自分はもう死んでしまっているのです。
おまけに今のままでは地獄行きだというではありませんか。
辛いだけの人生を送った上に、そのような結末を迎えるのは、とても受け入れられるものではありません。
ティムの答えは決まっていました。
「分かりました。あなたのお手伝いをさせて下さい」
「良いだろう」
死神は持っていた大鎌の柄で床をドン、と叩きました。
すると老人だったティムの身体はみるみるうちに縮んでいき、小さな黒猫の姿に変わりました。
(これは……)
ティムは自分の全身を見回しました。
手は黒い前足に、足は黒い後ろ足に変わっており、黒い耳としっぽは自在に動かせます。
身体の感覚も変わっており、今ならあちこちを飛びはねる事も容易に感じました。
「にゃーお」
試しに鳴いてみると、自分の喉から猫の鳴き声がしました。
(おどろいたかね?)
「ふにゃあっ!?」
ティムは思わず鳴き声をあげました。
自分の頭の中に、死神の声が響いたように感じたからです。
「おめでとう。これでお前さんは正式に私の使いになったわけだ。これからは例え離れていても、今みたいに念じるだけでお互いの声を伝え合うことも出来るぞ」
(そんな事が……?)
「まあ、ひとまずはここをあとにするぞ。私の使いとしてやってもらう仕事を教えなければならないからな」
死神はそう言うと、黒猫となったティムを連れて、小さな家をあとにしました。
ティムの任された仕事は以下のようなものでした。
都市全体を見回って、命が尽きそうになっている人を見つけること。
街をさまよっている怨霊を探し出し、死神に報告すること。
黒猫になったティムには、死神と同じように、死を迎えようとしている人の気配や怨霊の存在を感じ取る力が備わっていました。
とはいえ、ティムが出来る事は念じて死神を呼ぶだけで、死者の魂をあの世に送るのはもっぱら死神の仕事でした。
ティムは与えられた仕事を真面目にこなしました。
生前は『どじで、まぬけで、のろま』だったティムの仕事を、死神はそれなりに評価してくれました。
エサと寝る場所は死神が用意してくれます。
街中を歩き回っていると、自分が黒猫だという理由で追い回されたり、ひどい目にあわされそうになる事もありましたが、ティムは黒猫の身軽さを活かして何とか逃げ切っていました。
ティムは、黒猫になってから初めて、自分が自由に生きているという気持ちになる事が出来ました。
もちろん、死神の手伝いは良い事ばかりではありませんでした。
かつてのティムのように、強盗におそわれたり、殺人事件に巻きこまれたりして命を落とした人達をあの世に送ったりもしました。
治る事のない病気であの世に旅立った人達もいました。
誰にも顧みられることなく命を落とし、町をさまよっている怨霊の相手もしました。
それでも、ティムは死神から与えられた自分の役割を全うしようと働き続けました。
それにしても、人の死というのは不思議なものです。
この大きな都市には様々な人が暮らしているので、その死に方も、魂のありようもそれと同じくらい様々でした。
とても豊かで恵まれている人生を送った人の魂が、あと少しで怨霊になりそうなほどの怒りや憎しみを抱えていたり。
人々のために働きながらも貧しさの中で人生を終えた人の魂が、よどみのない清らかなものであったり。
そういった様々な魂を見るたびに、ティムは自分が生きてきた人生について考えさせられるのでした。
「お前さんは、生きている間に自分が幸せだと感じる事は一度も無かったのか?」
ある夜、死神がティムに問いかけました。
ティムは少しだけ黙りこんでから念じました。
黒猫の身体では人間の言葉を話せないので、死神とやり取りをするためには念じて伝えるしかないのです。
(生きている時に心から幸せだと感じたことは無かったです)
「それは一体なぜだ?」
(だれも私が幸せになるように願ってくれなかったからです。親でさえもそうでした)
ティムは死神を見上げながら続けました。
(でも、それは私が悪いんです。私がどじで、まぬけで、のろまだから、親の期待に応えられなかったから。私の能力が低いから、人に大切にされることも、幸せを願われる事も無く、むしろ人にバカにされてばかりの人生を送ることになってしまったんです)
「つまりお前さんは、人に従って、人の期待に応えなければ幸せを得られないと考えていた、という事だな?」
(その通りです)
死神はその答えを聞いて、しばらく考えてから言いました。
「だが、人に従って生きてきたお前さんは、人に軽んじられて一生を終えたわけだ。だとすると、お前さんのその考え自体が間違っていたという事になるのではないかね?」
(ですが……)
「結果が出ていれば人に大切にされて、幸せを得られていたと思うか? それはお前さんにとって本当に幸せだと言えるのかね?」
(……)
今度はティムが考えこむ番でした。
(……だとすれば、私はどのように生きていれば、幸せを感じる事が出来たのでしょうか?)
「発想を変えればいい。人から幸せを与えてもらうのを期待するのではなく、自ら幸せを得られるように努めなくてはならない」
(そんな事が……出来るのですか?)
「お前さんも、色々な人間の死に様を見てきただろう。おだやかな死に方もあれば、そうでない死に方もあった。どのような死に方なら、天国に行けると思うか?」
(それは……)
ティムは今まで見送ってきた人たちの事を思い出しながら、死神に答えました。
(私が見た限りでは、自分の持っているものを人々に差し出したり、人々のために力を尽くして働いた人たちは、おだやかな死に方をしていました。そうした人たちは、天国に迎え入れられる可能性も高いのではと思います)
「そうだな。だとすれば、自ら幸せを得る者は、人に幸せを分け与える事が出来る者ということになるな」
(……人間だった時の自分には、それが出来ていなかったということでしょうか?)
「お前さんは人の言いつけをよく守っていた。だがそれは『何々をしなさい』『何々をしてはいけません』というものばかりで、お前さんはそれを必死に守ってきていただけだった。それでは相手の気分を多少良くすることはあっても、相手を幸せにすることはない、と考えられないかね?」
(……よく、分かりません)
死神が何を伝えようとしているのか、ティムにはよく分かりませんでした。
「人の言うことに従って、自分の考えを否定したり、表に出さないようにする。そうすると、知らず知らずのうちに心に怒りや憎しみが積もっていくものらしい。ましてそれで相手からぞんざいに扱われたりすれば『こっちは我慢して言うことを聞いているのに』という気持ちになるのは当然のことだろう?」
(つまり、私は親や他人の言うことに従いすぎたせいで怒りや憎しみを心にためすぎていた。だからあなたは私が天国に行けない、と仰ったということですか?)
「あくまで私見に過ぎないがな。人に幸せを分け与えるには、自らの考え、自らの心に従って行動しないといけないのかも知れんな」
死神の言葉を受けて、ティムは考えをめぐらせました。
自分は親の言うことに従ったり、人に迎合したりすることが自分が幸せになる方法だと信じ過ぎていたのかもしれない、と考えました。
(だとしても、これから私はどうすれば……)
「それは自分で考える事だ。今までお前さんはずっと人の言うことに従うことばかりしていた。時間はかかるだろうが、何をすれば自分が幸せを感じられるか、考えてみればいい。時間はたっぷりあるからな」
(分かりました……)
死神の言葉はすぐに受け入れられるものではなかったですが、今までのティムにはなじみがない考えだったので、一応覚えておくことにしました。
ティムと死神がそんな会話をしていたその時でした。
今まさに死に直面している人間特有の気配を、ティムは感じ取りました。
(この気配は……!?)
「分かっている。行くぞ!」
死神はティムを抱え上げ、建物の屋根を飛びこえて、気配の元へと向かいました。
「良くない気配だな……無念さが空気の中にまで漂ってくる。丁度お前さんが死ぬ時も、こんな感じの気配だったな」
ティムは死神の言葉に応えず、黙りこんで考えました。
この気配の主は、いったいどんな人物なのだろうか、と。
死神とティムがたどり着いたのは、貧しい人々が暮らす地域でした。
都市の中にこういう地域があるという事はティムも知っていましたが、生きている間は一度も近寄ったことはありませんでした。
せまい路地に面した建物の屋根の上に降り立ち、路地をのぞきこみます。
その一角に、ごみがうずたかく積み上げられており、ごみの山の中から赤ん坊の泣き声が響いていました。
「あの……まさか、これから死を迎えるのって……」
「どうもそのようだな。ほら、そこを見るがいい」
死神が指さす方に、黒い影が現れました。
それは、オオカミと見間違うほどに大きい一匹の野犬です。
うなり声を上げながら、赤ん坊を見すえています。
このままでは、弱った赤ん坊は野犬に食い殺されてしまうことでしょう。
「こういった事は決してめずらしくはない。お前さんが生きている間に、私はだれにも顧みられることなく命を落とした孤児をどれだけあの世に導いてきたか、思い出すのも難しいほどだ」
死神はティムを屋根の上に下ろしてやりながら、そのように語りました。
「そういった孤児は強い無念さを抱えている。だれかが手を差しのべてくれれば生きられたかもしれないのに、といった具合にな。その分、強い怨霊になりやすいのだ」
死神はどこからともなく大鎌を取り出し、両手で構えます。
「だからその魂を速やかに刈り取って、あの世に送ってやらねばならぬ」
あの子はこのまま、犬のえさになってしまうのか。
だれにも生まれてきたことを歓迎されず、だれにも死んだことを悲しまれることなく。
路地の向こう側から何人かの大人たちが赤ん坊を見ているが、犬が怖いのかだれも近づこうとはしない。
このようなことがあっていいのか。
死神の仕事は、命をうばうことでも、命を救うことでもない。
ただ、さまよう魂をあの世に導くだけ。
人の生き死にに干渉することは死神や自分の仕事ではない。
そんな言葉で、あの子を見殺しにすることが許されるのか。
自分の人生に幸せな事が無かったと言ったのは事実だし、だれからも自分が幸せになる事を願われたことは無かったと記憶している。
だったら、自分が他人のために何かをしてやる理由はないだろう。
他人は、この世界は、自分が望むものを何も与えてはくれず、むしろ一方的に自分のことをいいようにもてあそんできたのだから。
それなのに、ああ、なんで自分はあの子を助けたいと考えているのだろうか。
「お前さん、妙な事を考えているな?」
突然死神から声をかけられ、ティムははっとしました。
「言っておくが、お前さんの力ではあの犬に勝つことは出来ん。お前さんが赤ん坊のかわりにあいつの腹の中に納まるだけだ」
ティムは、死神の言葉を黙って聞いています。
「お前さんの今の身体の強さは普通の黒猫のそれと変わらない。かみつかれればケガもするし、ケガがひどければ命を落とす。魂はあの世に送ってやるが、前にも話した通り、死んだ後にお前さんがどこに行くかは私にはどうにも出来ないぞ?」
(ですが……、あなたは先程、自らの考えに従えと仰いましたよね?)
「自らの命を捨てろ、とまでは言っていない。それに、もし行くというならお前さんとの付き合いは今日までだ。いいのか?」
ティムは小さくうなずきました。
「ウウ……バウバウッ!!」
野犬が一気に赤ん坊に飛びかかり、大きく口を開き、牙をぎらつかせました。
あと少しで牙が赤ん坊の首筋に届きそうになった時。
「フニャア!!」
ティムは黒猫の身体のすばしっこさを活かして、屋根の上から一直線に野犬に飛びつきました。
野犬は黒猫に突然飛びかかられたことで動揺して、赤ん坊そっちのけで身体を激しくゆさぶります。
必死に野犬にしがみついていたティムですが、ついに振り落とされて、地面に叩きつけられてしまいました。
痛む身体を無理矢理起こしながら、ティムは考えました。
勝てなくてもいい。何とかこの犬の気を引くことが出来ればいい。
自分が犬をおびき寄せてここから離れれば、見物人のだれかが赤ん坊を助けてくれるかもしれない。
少なくとも、このまま食い殺される可能性は減るはずだ。
ティムは野犬の方を向いて、精一杯の威嚇を行いました。
「フシャアアア!!」
全身の毛を逆立てて、野犬をにらみつけます。
野犬の方も、赤ん坊ではなくティムに関心が移ったようで、ティムの方へと向かってきました。
このまま犬を連れて出来るだけ遠くに逃げれば、この赤ん坊は助かる。
そう考えて、ティムが野犬に背を向けて走り出そうとしたその時でした。
野犬が飛びはねて一気に距離をつめ、ティムの首根っこにかみつきました。
「ニャアアア!!」
ティムは痛みのあまり、思わずみっともない声を上げてしまいました。
このままでは死神の言った通り、自分が赤ん坊のかわりに食い殺されてしまいます。
いや、もしかしたら自分も赤ん坊も食い殺されてしまうかもしれません。
見物人たちも、近づいてくる様子はありません。
――自分がここで何とかしなければ。
ティムは最後の力を振りしぼりました。
「ウニャア!」
首根っこをかまれたまま、ティムは思い切り身をよじり、後ろ足で野犬の左目を蹴り上げました。
「グウッ!!」
目を蹴られた痛みからなのか、野犬は妙な鳴き声を上げて、かみつく力を弱めました。
野犬の口から解放されたティムは、痛みをこらえて野犬に飛びかかると、そのまま鼻にかみつき、ありったけの力で顔面をひっかいてやりました。
「バウッ!!」
あまりの痛みで、野犬はのたうち回りました。
「キャン! キャン!」
野犬はすっかりひるんだ様子で、ティムをふりほどくと路地の向こうへと逃げ出してしまいました。
「犬が逃げたぞ! 気をつけろ!」
ティムの耳には、路地の向こうからそんな声が聞こえてきました。
何人かの足音がして、赤ん坊の方で止まるのも感じました。
赤ん坊から漂っていた、死に直面した人間特有の気配は、いつの間にか無くなっていました。
――ざまあみろ。それにしても、どうやらあの赤ん坊は死なずに済んだようだな。
強い痛みにおそわれながら、ティムはそのように考えました。
ケガがあまりにひどいので、自分はもうこのまま死ぬのだとはっきりと分かりました。
いつか強盗に殴り殺された時よりもひどい痛みに感じましたが、不思議とティムの心は落ち着いていました。
あの時と違って、やるせなさや無念さを感じる事もありませんでした。
「おい、お前見ていたか。この黒猫、赤ん坊をおそった犬に飛びかかって、追い払ったんだぜ!?」
「まさか、猫が赤ん坊をかばったって言うのか? 信じられないよ」
「でも、こいつひどいケガしてるぜ。残念だけど、もう助からないだろうな……」
遠のく意識の中で、ティムはそんな言葉を聞きました。
「全く、お前さんはとんでもないことをしてくれたな」
ティムの意識の中に、あの死神の声が響きました。
さっき犬にかみ殺されたばかりだというのに、なぜか意識がはっきりとしています。
「しかし、お前さん。随分と気配が変わったではないか。あの時のような怒りや憎しみがもうほとんど感じられない」
死神は、本当におどろいたという様子でティムに語りかけます。
「これが、お前が幸せを得るためにと考えた上での行動というわけか?」
(分かりません。ただ……あの時は、無我夢中でした。あの子をあんな悲惨なまま死なせるわけにはいかない。自分と同じか、それ以上に恵まれない子を放っておけないという気持ちしかありませんでした)
それを聞くと、死神は笑いながら答えました。
「今のお前さんは、幸福そうな顔をしているぞ」
(そうですか……あなた、猫の表情が分かるんですか?)
「お前さんは以前、だれも自分に幸福を与えてくれなかった、と言ったな。だが、今のお前はだれかから幸福を与えられずとも、自ら行動したことで幸福を得たのだよ。お前自身の考えが、心が、この結果を導いたのだ」
死神はあの大鎌を取り出しました。
「さて……そろそろ話は終わりだ。お前さんを向こうの世界に送ってやらねばなるまい」
(分かりました。もう思い残すことはありません。私の人生は不幸だったかもしれませんが、あなたが生き直すチャンスをくれたので、意味のある事を成しえたと考えています。あなたには本当に感謝しています)
死神は大鎌を構えて、最後にティムにこう語りかけました。
「本当にいい顔をしている。今のお前さんなら、天国に迎え入れられる可能性もあるかもしれんな」
その後、都市ではある出来事が人々の話題をさらいました。
貧しい人々の暮らす地域で、孤児が野犬に食い殺されそうになったこと。
その時一匹の黒猫が現れて、自らの危険を顧みずに野犬を追いはらって赤ん坊の命を救ったこと。
不吉な黒猫がどうして人助けをしたのか、そもそも本当に人助けをしようとしたのかはだれにも分かりませんでした。
それでも人々の間では『黒猫が自らの命を投げ出して赤ん坊を救ったのだ』という風に語られることとなりました。
この出来事は多くの人々の感動を呼び、『奇跡の黒猫』という見出しで新聞にも取り上げられました。
都市の人々は、このようなことが二度と起こらないようにと、貧しい地域や孤児への支援を積極的に行うようになりました。
あの赤ん坊も、街の教会に引き取られ、大切に育てられています。
そして、奇跡の黒猫の銅像は都市の観光名所の一つになっているそうです。
人々も、黒猫に少しは優しくしてくれるようになったらしいですよ。