97.漠然と
「フィリア! フィリア!」
うすぼんやりと目を開けると、よく知る顔が焦った様子で名前を呼んでいた。
ここは……洞窟か? こんなとこで何してたんだっけ。どうしてアルグレックに抱き締められて顔を覗き込まれているんだろう。
雨の音が聞こえる。
ああ、そうだ。遠征中で、沼タコが出て、魔コブラが出て、落雷石が、尻尾が――
「……っアルグレック! 怪我は!?」
「いやそれ俺の台詞だから!!」
「だって魔コブラの尻尾があんたに」
「咄嗟に身体強化したから平気。それよりフィリアだろ! 気を失ってたのに!」
フィリアは眉を下げ、アルグレックの首に腕を回した。肩の力が抜けて、はあと大きな安堵の息を吐いた。自分のせいでこの男が怪我するなんてあってはならない。
アルグレックは驚きの余り身を固めたが、すぐに抱き締め返した。
「よかった。私が、あんなとこに石を投げたから」
「フィリアのせいじゃない。あれは予測できないよ」
「でも」
「フィリアは? 怪我はない? 気分は?」
「別に何ともな、い゛っ」
身を起こそうとすると、右足首に激痛が走った。慌てたアルグレックは彼女を横向きに抱きかかえ、濡れていないところにゆっくり下した。
痛みに耐えながら靴を脱ぐと、足首が異常に腫れている。なるほど、おそらく魔コブラの尻尾が当たり、その痛みのせいで気を失ったのだろう。
「これは……」
「待って。可能性でも言うな。余計痛くなる。頼む」
「……分かった。ごめん、少し我慢して」
アルグレックは小枝を拾い、魔法で凍らせたハンカチを添えて固定した。触れた瞬間身体が勝手にブルブルと震え、脂汗が噴き出す。
「ごめん。俺、またフィリアを守れなかった」
「充分守ってもらってる。それに、あれは予測できないって言ったの、あんただろ」
「でも…………いひゃい」
耳どころか尻尾まで下げて見える大型犬のような男の頬を抓み、フィリアは無理矢理笑った。
「私も痛い。これでおあいこ」
「うう……俺の彼女が男前すぎる……」
「なんだそれ」
アルグレックと並んで外を眺める。緊急用の魔法陣で隊長には報せてあるらしく、終わり次第ここに来てくれるだろうとのことだった。
「寒くない? 温めようか?」
「寒くない。温々石もある」
「ちぇー」
騎士の制服は完全な防水になっているのに蒸れないからすごい。何かの魔獣の素材が使われているらしい。確か高級素材だったはずだ。
沼の主が出ても、魔コブラが出ても、特隊は誰ひとり慌てた様子はなかった。固まって動けなかったのはフィリアだけ。情けなさに溜息が出そうになる。
「今日はもう動かない方がいいだろうから、明日朝になったらすぐ城館に戻ろう。俺が付き添えたらいいんだけど」
「……え、なんで? どうせ荷台に乗せてもらってるだけなんだから、まだ大丈夫」
「大丈夫な訳ないだろ! その足、あの振動に耐えられるとは思えない」
フィリアは口を噤んだ。本来荷物だけを乗せる荷台は確かによく揺れる。もし骨に異常があれば、振動が響いて痛いかもしれない。
「我慢できる」
「ダメ」
「でも」
「フィリア!」
「だって…………ここの方が、安全な気がする」
最後はぽつりと零すようにフィリアは言った。
ルオンサの話を聞いてから、ずっと悪い予感しかしない。元両親はフィリアのことを道具にしか見えていない。だから簡単に切ったり戻そうとしたりとできるのだ。
元とは言え両親なのに、得体の知れない怖さ。あの歪んだ顔が不意にちらついて離れない。
それに、よく知らないあの人たちの欲の役に立つより、ここで微力でも役に立つ方が何万倍といいに決まっている。そのためなら少しの我慢くらいどうってことない。
だってこの我儘は、自分の為なのだから。
「……俺が、泊まっちゃダメかな。あ、も、もちろん疚しい意味じゃなくて!」
「疚しい? 別にご飯くらい出すけど」
「タダ飯狙ってる訳じゃないから! だから、その、あくまで護衛で! て、手を出したりしないから!」
顔は赤いのに真剣な顔のアルグレックに、フィリアは目を見開いた。顔色は心なしか……青い。
「その心配はしてなかったけど……え、アルグレック、まさか」
「そこは少しは心配してほしいような……」
「いやだって、男が手を出すのは結婚した相手か金を払った相手か、どうでもいい相手になんだろ?」
「は? はあ!? ちょっと待ってどういうこと!? 誰がそんなことを!?」
神父からそう学んだと伝えれば、アルグレックは頭を抱えた。
様々なことを教えてくれた神父はそういった教育もきちんと行った。
ただそこは敬虔な神父。俗世とは些かズレていた。
一向に仲間のできないフィリアの身を守るために大袈裟に言った可能性あるけれど。王族や敬虔な信者ならいざ知らず、今時貴族ですらそこまで厳しくない。ましてや庶民なら、婚前交渉があっても何も咎められない時流だ。
ともかく、フィリアは頬を引き攣らせている。アルグレックは必死に否定しながら、心の中でもう一度頭を抱えた。
これは早急に認識を改めてもらう必要がある。
けれどミオーナあたり相談すれば、どうしてそんな話になったのかと問い詰められるのは明白で。それにフィリアに必要以上に警戒されてしまうのも辛い。
すっかり気を許してくれているような気持ちでいたが、どうやらそれだけではないらしい。気分はすっかり複雑だ。
「じゃあ、骨に異常があったら帰る」
「じゃあってあのな……」
「だって、あんたも帰れるとは限らないだろ?」
「それは、そう、だけど」
「なら」
縋るような視線――それはアルグレックには上目遣いで甘えているように脳内補正された――で言われれば、言葉に詰まってしまう。
「………………隊長の、許可が下りたら」
「うん」
彼の精一杯の譲歩だった。
ホッとしたようにふにゃりと笑う彼女に、アルグレックは手を伸ばしかけて止めた。
抱き締めたい。でも勤務中は嫌がられると知っている。でも触れたい。触れたくて堪らない。ああ、うう、辛い。
今まで2人きりになれたらなんて思うことの方が多かった――むしろそればかりだったけれど、今は早く誰かここに来てほしいと思う。
人の目は抑止力になるのだな、と彼は学んだ。
しばらくすると特隊全員が洞窟にやってきた。沼タコも魔コブラも無事に討伐できたと聞いてほっとする。荷物も無事らしく、イデルに念の為と言って渡されていた薬を足に塗り込んだ。
「ふむ。骨に問題はなさそうだ」
「それなら」
「うーん……しかしなあ……」
渋顔の隊長は明朝に判断すると言われ、フィリアは肩を落とした。
薬は効いている気がする。だから、いつも通りくらいの足手まといで済むはずなのに。それに、魔幻黒蝶の森では少し役に立てるのに。
だからと言って隊長相手に強くは言えない。特隊員ですら酷い怪我の時は連れ帰られるという。それなのに、ただでさえまともに戦えないお荷物が、怪我をした上に我儘を言おうなんて。
でも。やっぱりまだここにいたい。
漠然とした不安の中、フィリアは必死に安心できる場所にしがみついているような気分だった。




