90.手料理
フィリアは全くと言っていいほど眠れなかった。
人々の目には張り切っているように映っていたが、彼女にとっては緊張と不安に押し潰されそうな気分だった。
ミオーナたちに聞いて――セルシオのアドバイスはさておき――料理やプレゼントは用意した。
けれど、それだけだ。言われたことを準備しただけ。
こんなことで本当に喜んでもらえるのだろうか。何度考えても、自分が祝ってもらった時のように、彼に喜んでもらえる自信がない。
なにせ、こちらは祝ってもらえたのは今年が初めてで、むこうはきっと祝われることに慣れている。
ああ、考えすぎて胃が痛くなりそうだ。今までなら、「経験がないんだから仕方ない」と諦めていただろう。けれど今回は諦めるどころか、考えれば考えるほど不安になっている。
足りなくてガッカリされるのも辛いし、多すぎて引かれるのも困る。過不足の程度が分からないのだ。
ぐずぐずしながら起き上がり、顔を洗う。鏡の中には薄っすら隈のあるみすぼらしい自分がいて、溜息をついた。
これは、諦めよう。
待ち合わせ時間ぴったりに鐘が鳴り、フィリアの緊張がピークに達する。ああ、とうとう来てしまった。
固い表情のままドアを開けると、そこには頬を少し染めて既に嬉しそうなアルグレックが立っていた。
「フィリア? どうかした?」
「いや……その、誕生日、おめでとう」
「ありがとう!」
眩しい笑顔に胸が痛い。いや、これは胃か?
中へ促すと、アルグレックはこの前買ったばかりの眼鏡入れを見てにまにましている。いつも通りの変な奴だと少しだけホッとした。
「うわあ、すごい!」
「……セルシオのに比べたら、大したことないだろ」
「そんなことないよ! これ全部フィリアが作ったの?」
「まあ、一応」
「どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい……! ほんとにありがとう!」
まだメインを置く前だというのに、テーブル前で感激しながら立ち尽くすアルグレックを見て、フィリアは大袈裟だと眉を下げた。
だってどう見ても、いつもセルシオがここで作る料理より見劣りする。彩りだって、味だってきっとそうだろう。
「フィリア、本当に何かあった?」
「いや」
「じゃあ体調悪い? 隈までできてる」
「別に。何でも……」
「なくないから」
フィリアはぐっと押し黙った。
確実に今日の主役に言うべきことではない。けれど簡単に引き下がるような相手ではないことも知っている。
「……言わないなら」
「待て。言う」
「まだ全部言ってないんだけど」
「なんか嫌な予感がした」
「えー、キスしようとしただけなのに」
ほら見ろ。とは言わないでおく。
フィリアは誤魔化すように空咳を零し、覚悟を決めた。
「……緊張してるだけだから」
「フィリアが緊張? 何に?」
「誰かを祝うなんて初めてだから……その、ちゃんと喜んでもらえぐぇっ」
「ああもう! 可愛い!」
「くるし……っ」
「ごめんごめん」
悪いとは思っていなさそうな明るい声。言い返そうと顔を上げて、すぐに止めた。
幸せそうに蕩けた顔を見たら、もう何も言えまい。
「俺、今世界で一番幸せな自信ある」
「大袈裟」
「いいや。そこは譲れない」
「何だそれ」
「フィリアに祝ってもらえるってだけで幸せなんだよ。だから、安心して祝って?」
つい小さく噴き出してしまった。ようやく肩の力が抜けたフィリアは、今度こそ仕上げに取り掛かった。
この前買った木の器に温めておいた巨大鹿のワイン煮込みをよそい、テーブルに並べる。魔羊の香草焼きにマッシュポテトを添える。具だくさんのチキンサラダとパンも置いてあるが、足りるか不安だったので焼くだけのミートパイも買って冷蔵庫に仕舞ってあった。
肉屋の号泣店長にオススメしてもらったワインを開けてアルグレックの前に差し出せば、驚いた顔をしていたがすぐに感激していた。
とりあえず、用意したことには喜んでくれたらしい。
「食べてみてほしい」
「その前に乾杯しようよ」
「あ……ごめん。じゃあ、改めておめでとう」
「ありがとう!」
形の違うワイングラスを掲げる。とても薄いガラスでできた高そうなワイングラスなので、割れないようにと合わせることはしない。
アルグレックは美味しそうな顔をしていることにほっとして、フィリアも赤ワインに口を付けた。確かに美味しい。
アルグレックは破顔で料理を取り、次々に食べていく。口に合うかどうかなんて顔を見れば分かったのに、それでもフィリアは言葉が欲しかった。
「全部めちゃくちゃ美味い!」
「……良かった」
大袈裟でも嬉しい。心の底から安堵したフィリアはふにゃりと笑った。味見は何度もしたが、やっぱり不安だったのだ。
アルグレックは初めて見る彼女の表情に、締め付けられた心臓を押さえた。
「なんか不味いのでも入ってた?」
「まさか! ほんとに美味いし、毎日食べたいくらい」
「毎日は無理」
「じゃあ週イチ?」
「うーん」
フィリアはワイン煮込みを口に運びながら考える。
あの店には程遠いけれど、初めて作った割には上手くできたと思う。
「それもいいけど、一緒に作る方が楽しいし美味い気がする」
「ああもう、この人たらしは……っ」
「? もしかして一緒に作るのは……」
「楽しいし好きだから! 毎日一緒に作ったっていいくらい!」
「いや毎日は無理だろ」
「えー」
アルグレックは意識的に毎日という言葉を使っている。
フィリアもアルグレックも20代半ば。この国の結婚適齢期はとうに過ぎており、付き合うということはどうしても結婚を意識してしまう。もちろん、彼が。
フィリアが全く意識していないだろうと思っていたが、やっぱりその通りだった。2回言ってもなんの反応もない。
想定内、想定内。先は長いのだ。これくらいでくじけていてはいけない。まだまだ話さなければいけないことだってあるし、じっくり行こうと決めているのだから。
すぐにそうなりたい訳じゃない。いつか彼女もそうなってもいいと思ってくれれば。
アルグレックは改めてテーブルに並べられた料理の数々を見つめた。
この巨大鹿の煮込みは、以前アルグレックが美味しいと言っていたもので。それ以外の料理も、どれも好みのものばかり。
喜んでもらえるかと不安になりながら用意したなんて、考えただけで悶える。
「ああもう……好き……」
「どれが?」
「料理もフィリアも」
「ああそう」
「えええ、なんかもう慣れてきてない!?」
決して慣れたわけではないが、今は安堵の気持ちが強いフィリアはそこまで照れずに済んだ。
アルグレックもなんとなく分かっているのにわざと拗ねて見せた。ただじゃれているだけ。これも恋人の特権だ。
今はこの甘い時間に酔いしれることにしよう。アルグレックは料理に手を伸ばし、幸せの味を噛み締めた。




