9.気持ちの名前
明日はとうとうフィリアが特隊専属魔消師としてやって来る最初の日だ。アルグレックが数日前から浮足立っているのは、隊員全員が感じていることだった。
セルシオはそんな彼を見て、苦笑しながら声をかけた。
「いよいよ明日だな、フィリアちゃんが来るの」
「ああ。大丈夫かな」
「彼女よりお前のが心配だけどな。ソワソワしすぎて大怪我すんなよ」
「気を付ける」
フィリアと初めて会ってから2ヶ月が経った。
必ず週に一度はギルドの前で待ち、晩飯を一緒に取る仲になれた。最初の頃とは比べものにならないくらい、フィリアの纏う雰囲気は柔らかくなったと思う。アルグレックはそれがとても嬉しかった。
なぜ嬉しいかなんて分からないほど鈍感じゃない。そういう感情が芽生えている自覚はある。
認めざるを得なくなったのは、先日初めて名前を呼んでくれた時だった。
本当に思い付きだった。
「お礼思い付いた。お願いひとつ聞いてくれる?」
「いいよ。何」
「名前を呼んでほしい」
なーんて、と言おうとして言えなかった。フィリアがあまりに真剣に聞いていたから。慌てて何かを言おうとして、口から飛び出るままに言葉を紡いだ。
「……あ、いや、あの、アルグレックが呼びにくかったらアルでもアルグでも何でもいいから……! その、ダメ、かな……?」
しどろもどろになって、恥ずかしくて、でも聞いてくれるかもと期待もして。恐る恐る彼女の顔を見れば、何でもないようにこちらを見つめたまま。
防音の魔法陣がほんのり光っているのが、視界の端に映った。
「アルグレック」
止まったのは時間だったか、息だったか。それとも心臓だったか。
心の底から熱がどんどん湧き上がって、どうしようもなくて走った。走ったところで、この熱は、この動悸はもう誤魔化せなかった。
初めて彼女を見た時、あまりにも警戒心が強くて、ぶっきらぼうで、口が悪くて、男か女かすらも分からなくて、まるで野良猫みたいだと思った。
でも魅了が効かない、魔消しだと分かった時は嬉しかった。最高だと思った。
ずっと魅了という祝福が嫌いだった。
この祝福のせいで母が壊れ、家族が壊れ、いくつもの友情が壊れた。
外見を気に入って近寄ってくる人でも、魅了持ちだと分かると、眼鏡をかけていようがいまいが目を合わせてくれなくなるか、かけてもいないのに「魅了をかけた責任を取れ」と迫られるかのどちらか。
次第に目を合わせるのが怖くなった。それは家族だろうと、友達だろうと、知らない人だろうと同じだった。
自分は一生、色眼鏡をかけて生きていかなきゃいけないのか。魅了なんか気にせず、ただ目を見て話せる友達がほしい、ただそれだけなのに。そんなに難しい願いなのか。
だから彼女に警戒されても拒絶されても、絶対に友達になりたいと思った。
強引に食事に誘って、反応の良かった飯屋の話題ばかりして、隊員にもオススメを教えてもらった。魅了持ちだと言っても、気にすることなく目を見てくれることが嬉しかった。友達だと認めてもらえた時は、まさに天にも昇る気持ちだった。
段々警戒心が薄れて、見落としそうなほど些細なものだったけど、美味しそうな顔や驚いた顔、照れた顔を見せてくれるようになった。それが何より嬉しかったし、もっともっと色んな顔が見たくなった。
彼女が自分にそんな感情がないのは分かっている。彼女にとって、自分はまだやっと警戒を解きつつある友達程度だと。
魔力なんか関係なく、友情が脆いものだと知ってるいるから。
だからまだ、この気持ちに名前は付けたくない。今はまだ友達のままで――……
と、思ってたけど。思ってはいたけど!
どうしてフィリアはああも自分を翻弄させるのだろうか。
「おい、アルグレック。お前耳まで真っ赤だぞ」
「頼むから何も言わないでくれ……」
両手で顔を覆い、ついしゃがみ込んでしまった。
朝からそわそわしながら城門前で待っていたが、向こうから歩いてくるフィリアの姿を見つけた瞬間、全身の熱が顔に集まったのが分かった。
制服が似合う。似合いすぎる。
もう一度、指の隙間からちらりと覗き見た。
女性騎士と同じ、紺色の詰め襟に同色のキュロット、足元は黒いロングブーツを履き、少し見える白い生足がなんとも艶めかしい。紺色のロープの青色の刺繍は騎士団関係者の証だ。城門が見える頃に冒険者のローブを取った瞬間、見慣れたはずの騎士団の正装がとても輝いたものに見えた。
今まで冒険者の格好しか見たことがなかった。かなりラフで年季の入った、それでいてとてもフィリアらしい服装しか。
「これは俺の欲目なのか……!?」
「お前、自覚はあんのね。いや、俺もよく似合ってると思うぞ」
「やばい直視できない」
「おいおい。女泣かせのアルグレック様が何言ってやがる。…………おはよう、フィリアちゃん」
自分の顔はまだ熱いけど、恐らく彼女は気付いていない。初日とは思えないほど堂々と、特に恥ずかしがる様子もなく俺たちを交互に見た。
「おはよう。遅かった?」
「おはよう、フィリア。大丈夫だよ。俺たちが心配で早く来ただけだから」
「ならいいけど」
この制服さえ着ていればスムーズに中に入れる。制服には特殊な魔法がかけられていて、関係者以外は着られないようになっている。魔消しのフィリアには意味はないが。
今回は初日なので隊長命令でセルシオと迎えに来たが、次回からは基本ご自由に、だ。けれど都合がつく限り迎えに来ようと思っている。
「何かあった?」
「え? 何が?」
「アルグレック、うずくまってたから」
目を見開きつつ、再度顔に熱が戻ってくるのが分かった。
名前を呼んでくれたことにも、遠くからでも自分だと認識して心配してくれたことも、恥ずかしくて嬉しかった。
やばいきゅん死にしそう。
「だ、大丈夫、何でもないから……!」
「あっそう」
「くっくく……っ! なぁ、フィリアちゃん。制服よく似合ってるぜ」
「!! うん、よく似合ってるよ!」
「はあ。それはどうも」
あまり興味のなさそうな言葉が返ってくる。分かってはいたが、フィリアは服にあまり興味がないらしい。
が、自分が先に褒めたかった。言えるかどうかは置いておいて、自分が先に言いたかった。恨めしくてセルシオを睨むと、余計に笑われただけだった。
騎士棟に入ると、部屋に行くまでにチラチラと視線を感じる。自分にではない。フィリアにだ。特隊の使っている部屋は2階の1番奥だ。そこまでの距離が初めて遠く感じた。
やっとの思いで部屋に入ると、そこにはなんと隊員のほとんどがいた。フィリアだけじゃなく、自分の顔も引きつったのが分かった。
「おはようございます。よろしくお願いします」
彼女は小さく息を吐いて会釈する。切り替えが早いのもフィリアの良いところだと思う。
皆の視線を無視して奥の控室に案内すると、既に副隊長が待っていた。気付けば隊員の顔がドアから覗いている。
「おはようございます。よろしくお願いします」
「おはようございます、フィリア嬢。早速流れをご説明しますね。ここにあるのが隊員のストック棚です。魔消ししてほしいものはこちらの箱に。終わりましたら、できれば各自の棚に戻していただけると助かります。失礼ですが、読み書きは?」
「問題ありません」
「では、この用紙の一覧表に付与したアイテムと持ち主の名前を照らし合わせて確認して下さい。1番下には貴女のサインを。必ず1名は立会人がおりますので、その人のサインもこちらに貰って下さい。以上です。ご質問は?」
「大丈夫です」
副隊長の怒涛の説明にも、隊員からの視線にも全く動じず、フィリアは淡々としている。が、よく見るとワインレッド色の瞳が少し輝いている気がする。
「さ、皆さんは鍛錬の時間ですよ」
「「ええ〜!」」
「ほら、さっさと行く!」
勿論ブーイングには加わった。魔消しを施すところをまだ一度しか見たことがないのだ。自分だって見たい。
フィリアを見ると、何でもないような顔してこちらを見ている。
まぁ、そうだよな。俺がいても何もできないし。
がっくり肩を落として部屋を出ようとすると、文字通り首根っこを掴まれた。
「アルグレック君、貴方はここにいなさい」
「えっ、いいんですか!?」
「どうせこのまま行っても使い物にならないでしょう? それなら今日は立会人、お願いしますね」
「あ、ありがとうございます!」
「さあ、皆さん行きますよ」
「「ええ〜!!」」
隊員たちの非難の声を背中で聞きながら、フィリアに椅子を勧めて自分も隣に座る。部屋が静かになると少し緊張した。
部屋に、2人きりだ。
「俺じゃ何も役に立たないけど、邪魔にならないようにしとくから」
「いや。助かった」
「何か手伝う?」
フィリアは小さく首を横に振って、箱から1つ目――銀縁の眼鏡を手に取った。声にならない言葉が出た。
「緊張してたから、アルグレックで良かった」
目も合わせずに、銀縁の眼鏡を手で包み込みながら呟いたフィリアの言葉に、アルグレックは熱を帯びた感情がとめどなく溢れるのを感じた。
フィリアにとって何でもない言葉だったとしても、今はそれで充分だ。この片想いが苦しくなるまで、このままで。
ああ、名前を付けてしまった。