85.期待したのに
研究員の実験や質問攻めは昼過ぎまで続き、解放された時にはどっと疲れが出た。
元兄であるルオンサは何度も話し掛けようと試みていたが、フィリアは無視を貫いた。今更何を話すというのだろう。あの愛称だったあだ名も聞きたくはなかった。
城門を出た途端にアルグレックはフィリアの手を取った。
「仕事は終わったから、もう手繋いでいいだろ?」
「……勝手にすれば」
ああ。どうしてこうも可愛くない返事しか出て来ないのだろう。
手を繋ぐことには慣れてきた。けれどこうやって口に出して確認されることには慣れない。むしろいちいち聞かなくていいのにとすら思う。
……もちろん、アルグレックは分かっていて、わざと聞いている。
団長から騎士棟の食堂を使う許可ももらっていたが、フィリアは一刻も早くて城館から出てしまいたかった。
そのため昼食は屋台で適当に済ませ、少し背中を丸めながら家へと急いだ。今日は風があって肌寒い。
「はあ、寒かった」
「今日は風があるからね。そろそろ暖炉の準備した方がいいかも」
家の中はとても温かく感じてほっとする。ローブを脱いで掛けると、フィリアはすぐに湯を沸かしにキッチンへ急いだ。
コーヒー豆を挽くのはアルグレックに任せ、フィリアは食器棚から適当にコップを2つ出し、布フィルターを準備する。いつもの役割分担なのでお互い慣れたものだ。
リビングテーブルにコーヒーを置いてソファに座る。コーヒーを飲む時の定位置だが、2人の距離は今までよりもかなり近い。
アルグレックは先に座ったフィリアの横にぴたりとくっつくと、左手で腰を抱き寄せ、彼女の頭に頬を乗せた。
これはいつコーヒーを飲めばいいのだろう。フィリアは戸惑ったが口には出さなかった。
沈黙が訪れても苦ではない。
フィリアは気の向くままに、ぽつりぽつりと昔話をした。
伯爵家の長女だったこと。
リーサというのは、元家族だけが呼んでいた愛称だったこと。
魔力検査での困惑や、そのあとのこと。
修道院で過ごした日々のこと。
神父が亡くなって、冒険者として街々を移動したこと。
団長に初めて会った時に挙げていたワインは、どれもフィリアが転々と流れ着いた街に関係すること。
中でもアビエーラ産のワインは、フィリアの生家であるシュメラル家領地の名産で、あまり飲む気にならないこと。
フィリアはアルグレックに話しながら、あの助手を見てどうしてあんなに動揺したのか分かった。
元兄を意識すると、どうしても『家族に捨てられた』ことを強く思い出してしまう。要らないと、家族でもないと放り出された事実を突き付けられたような、重く苦しい感情が込み上げるのだ。
当時10歳だった兄に、何かできるはずないと分かっているのに。
あの時心の奥底に封印したはずの恨み辛みや怒りが、じっとこちらを覗いていて、隙きあらば姿を見せようとしている。それがなんだか怖くて、動揺してしまうのだと。
フィリアはなるべく暗くならないように、その時の感情を言わないように、ただ淡々と話した。そしてアルグレックも、ずっと黙って聞いてくれていた。
それどころか――
「なんでアルグレックが泣いてんの」
「フィリアが、泣かないから」
「全部終わったことだ。もうどうってことない」
「そうは見えない」
フィリアは小さく微笑んだ。
本当に、この男はどこまでも優しい。フィリアは不意にその頬に触れたくなって、手を伸ばしてそっと涙を拭いた。
「今の方が、あんたが泣いてる方が辛いけど」
「…………涙引っ込んだ」
「ふふ、それはよかった」
頬から手を離すと、今度はアルグレックがフィリアの頬を指の背で撫でた。
潤んだままの瞳が、まるで菫色の宝石のようで。
「今まで、理不尽な思いもたくさんしてきたと思う。これからは、俺が守るから。俺に守らせて」
「今までも充分守ってもらってたと思うけど」
「全然足りない。もっと強くなって、もっと守りたい。フィリアを、もっと幸せにしたい」
その言葉に目を瞠った。
この街に来て彼と出会ってから、たくさんのことが起きた。
大変なことも面倒なことも色々あったけれど、一番多くの思い出すのは嬉しかったことだ。
友達ができたのも、仕事があることも、休まる場所があることも、誰かに認めてもらえることも。
好きだと言ってくれて、好きだと言える相手がいて。
ああ、これが幸せというのだろう。
フィリアは目を細めて微笑むと、アルグレックの指に頬を擦り寄せた。
「これ以上?」
「もっと。俺がもっと、ずっと幸せにしたい」
「ふふ、期待してる」
頬を滑らせていた指がするりと掌に変わる。フィリアが視線を上げると、溶かされそうなほどの熱い視線に捕まった。
心臓が大きく音を立てた。
「フィリア」
「……」
「キス、していい?」
返事も聞かずに、アルグレックの顔がゆっくりと近付いてくる。
フィリアはどうしていいか分からず、咄嗟に目をぎゅうっと瞑った。
柔らかい感触が頬に伝わったあと、動揺の中に違う感情が混じっている。
……なんだ、頬か。
それが消沈だと気付いた時、フィリアはアルグレックの胸倉を掴んで引き寄せていた。今度こそ感じた唇への温もりは一瞬で消え去ったが、もうそれで充分だった。
「……期待したのに」
心臓が破裂しそうなほど煩い。けれど、目の前の男が赤い金魚のように口をパクパクしているのを見て、なんだか溜飲の下がる思いがした。
「…………もう一回キスしていい?」
「嫌」
「嫌!?」
「聞くなら嫌って言うから」
「ええ! なんで!」
「……別に、いちいち聞く必要ないだろ」
フィリアはそこで止めたが、アルグレックは意味を正しく理解した。
アルグレックは天を仰ぎ胸を抑えたくなる衝動をどうにか堪え、咳払いをする。
「目、瞑って」
「……ん」
赤い顔で素直に従うフィリアに、アルグレックは押し倒さないように気を付けねばならなかった。
「ちょ、何回する気」
「今まで我慢した分取り返すまで」
「は!? 息できない。死ぬ」
「鼻で息して。じゃあ練習ね」
「れん……っ!?」
短かったり長かったり、触れるだけだったり啄んだり。
こっちは頭が真っ白になるくらいに翻弄されてるのに、どうしてそんなに余裕そうなんだ。フィリアは悔しくなって、敢えて合間に口で息を吸った。
「鼻でだって。ふふ」
「よくこの状態で話せるな」
「フィリアだって」
「……確かに」
鼻先が触れたまま笑い合う。
アルグレックは切り上げの合図のようにわざと音を立てると、フィリアを優しく抱き締めた。
「フィリア。好きだよ」
「うん」
「うんじゃなくて?」
「……私も、好き」
「うん」
言葉にするより恥ずかしいことをしたからか。
少しだけ、そう言うことに抵抗が少なくなった気がする。
すっかりぬるくなったコーヒーを口にすると、ほっと息をついた。
少しずつ陽が落ちていく。
アルグレックは帰るか、外に食べに行こうと誘うか、そろそろ決めなければと考えた。暗くなってもここにいるのはよろしくない。精神的に、主に理性的に。
「あれ? 眼鏡どこ置いたっけ」
「いつもどこに置いてるの」
「いつもは……、いつも……いい響き……」
急に照れ出したアルグレックに怪訝た目を向けると、彼はわざとらしく咳を零した。
「えっと、いつもは入ってすぐの棚の上なんだけど」
「ふうん……あれ、キッチンにあった」
「ありがとう。早くコーヒー入れようと思ってそこに置いたんだった」
「買ってどっか置いとけば。眼鏡入れ」
驚いた顔をする男に、フィリアは首を傾げた。
何も変なことを言ったつもりはないのだけれど。
「いつか、歯磨き置きたい……」
「置けば?」
小さな呟きに返事をすれば、こんなにも驚けるのかと思うほど目を見開かれた。そして明らかに動揺している。ますますよく分からない。
「え? え? いいいいいの!?」
「そんなに驚くことか? ミオーナだって置いてるけど」
「ミオーナ! あいつ!!」
今度は憤慨しだした。ひとりで賑やかだなと苦笑する。
窓の外を見ると、まだ風は強そうだ。それでも、手を繋いで歩けば気にならないだろう。
「今から買いに行くか?」
「え?」
「眼鏡入れと歯ブラシ」
「絶対意味分かってない……!」
「? 何。行くの、行かないの」
「行く!」




