75.理由
2つ目の壺に顔を突っ込んだ頃から、フィリアは自分が意地を張っていることが馬鹿らしく思えてきた。
理由はいくつかある。
ひとつは、今日来ている街の人たちにちらほらと顔見知りがいて、気さくに挨拶をしてお礼を言って帰ること。あの肉屋の号泣店主を始め、アイス屋のバリーおばさんも来たし、髪飾りを直してくれた雑貨屋の店員も来た。
あの人攫い事件でのことを、団長たちが誇張した噂を流してくれたおかげもあってか、街をひとりでぶらついていると声をかけられるようになった。
特に被害者だった娼婦にはやたら絡まれる。大体いつも「恋愛指南なら私たちに任せろ」とか「着飾り方ならいつでも教えてやる」と騒いでいる。
今日も数人魔消しに来ていたが、彼女たちが何に防錆油を使っているのかはなんとなく聞かなかった。いや、聞けなかった。
次に、騎士たちだ。
特に団長の部屋にいた上層部の騎士や術師たちが時折わざわざテントに顔を出しては、一言礼を述べていく。おそらく団長命令だろうが、それでもあの「首を刎ねてやる」とまで言った男――なんと第三部隊の隊長だった――までやってきて、「すまなかった。それと、礼を言う」なんて言い出すものだから、フィリアは困惑した。
誰ひとり顔を覚えていなかったので、アルグレックが驚くたび、隊長が笑いながら教えてくれるたびに顔を引き攣らせる羽目になった。
「結石のあるなしで、そんなに違うものなの」
「全っ然違うよ。あれがある間は、眠気が醒めないような、重怠い感じがずっとあったから」
「寝てもスッキリしない……恐らく、今のフィリア君のような」
妙に納得した。常に眠くて怠くて身体が重い。
確かにこの状態が消え、いつものように健康な状態に戻れば、全然違うと実感するのかもしれない。
「でも、だからといってフィリアが無理する必要はないからな。今、街の人たちはちょっとパニックで、影響のないような小さな跡でも来てる。術師たちが他の解決方法も研究してるし、フィリアだけが全部背負わなくてもいい。だから、本当に無理しないで」
「……うん」
心配そうな視線を向けられるたび、お礼を言われるたびに、どんどん心苦しくなっていく。そして、馬鹿らしくなる。こうやって肩肘張っていることに。
「先輩! 交代しますよ!」
「げっ、ベニートン。俺は交代しないから、外の誰かと交代してくれ」
「ええ~……じゃあ俺もここにいます」
「なんでそうなるんだよ!」
ベニートンは一昨日文句を言いに来てからというもの、ちょくちょくこのテントにやってきては監視するようにフィリアを見ていた。直接に何かを言う訳でもないので、フィリアは気にしないで無視している。
ようやく終わりが見えてきた。
アルグレックの言う通り、小さな跡で来る人が絶えないので、魔消し自体は数秒で終わるようなものも多く、今日は3本目の回復薬は飲まずに済みそうだ。
最後のひとりが、あの住宅案内所の店主だった。
「やっとか! 魔消しのくせに恩も忘れて待たせやがって!」
「静かになさい。文句があるなら受けなくてもいいのだがね」
「い、いえ、そんなつもりでは……はは……」
隊長の冷たい声で急に弱腰になる店主は、それでもフィリアを睨みながら前の椅子に腰かけ、腕を捲った。
小さな跡が2つ。フィリアはすぐに手をかざして魔消しを行った。店主はそれを怪訝な目で見ているが、それに慣れたフィリアは気付かないフリをする。
ああやっと帰れる。言質は取ってないけれど、さすがにそろそろ帰してほしい。
「終わりました」
「ふん。手をのせるだけで消えるなんざ、疑わしいもんだな。本当に魔力を放出する結石だったのかすら怪しい」
「はあ」
立ち上がりそうなアルグレックを隊長が止める。ベニートンはじっとフィリアを見つめていた。
騎士たちが止めないと気付いた店主は、ふふんと鼻を鳴らした。
「そもそもこの騒ぎだって、本当はお前が起こしたことじゃないだろうな? こうやって、普通の人間に復讐しようと魔虫を作ってよ」
「……」
「何とか言ってみろ! そうなんだろ!?」
「魔法も使えないのに、どうやってそんな魔虫を作るんですか」
「ふん! 俺がそんなこと知るか!」
店主は肩を怒らせてテントを出て行った。同時にフィリアは息を吐き出す。
何と言われてもどうでもいい。とにかく今日はもうこれで終わりなのだから。
「あんなこと言われても、よく黙ってられるな」
ベニートンの温度のない瞳がフィリアを捉えた。フィリアはアルグレックたちに大丈夫だからと視線を送りつつ、「仕事だし」と当たり障りのない言葉を返した。
それにカチンときたらしいベニートンの顔が苦々しく歪んだ。
「金の為なら何でも引き受けるんだ? 自分の意思なんか関係なく」
「別に。嫌なら受けない」
フィリアは大きな溜息を吐いた。
この男は一体どんな言葉を望んでいるのだろう。彼らの上司でもある団長に命令された仕事を終えたのだから、さっさと帰してくれればいいのに。
「じゃあ嫌じゃないって? これだけ皆に嫌われてるのに、聖人のつもり? それとも、良い人ぶって見直されたいわけ?」
自作自演の次は偽善者扱いか。
むかむかと残る吐き気と頭痛も相まって、今度はフィリアがカチンとする番だった。
「逆だよ」
「は?」
「嫌われてるからこそ助けてやるんだ」
じっとベニートンの目を見返せば、怪訝な顔でこちらを見ている。アルグレックと隊長からの視線もはっきりと感じたが、フィリアの口は止まらなかった。
「ずっと、魔消しなんかに助けられたことを、悔やんで覚えていればいい」
「……!」
忌み嫌う人間であればあるほど、そう思えばいい。
これが、フィリアの心に渦巻く黒い気持ちの正体だ。
友達や特隊のメンバー、街の顔見知りに対しては早く治ればいい、自分で役に立つのならと思ったのは事実だ。
ただ単に刺された跡を気にしているだけの人に対しては、金になるならそれでいいと思った。
けれど、魔消しを蔑んでいる人たちにもそう思えるほど心清らかではない。
睨まれるたび、忌々しそうな目で見られるたび、心の中で「ざまあみろ」と思っていた。負け氏なんかに助けられるなんて屈辱的なこと、きっと忘れないだろう。喉に小骨が引っ掛かったように、ずっとすっきりしなければいい。
そう思うことで留飲を下げていたから。
だからずっと、お礼を言われると、心配されると、後ろめたさが募ったのだ。
フィリアはベニートンから視線を外すと、こっそり下唇を噛んだ。
「……あんた、馬鹿正直すぎるだろ。そんなこと誰かに聞かれたら、余計に嫌われると思わないわけ?」
「これ以上どう嫌われるって言うの」
そう言うと、なぜか溜息が聞こえた。しかもひとつではない。フィリアは眉を顰めた。
「はあ~、もういいや。なんか僕まで、馬鹿みたい」
「まで……?」
「疲れたから食堂でも行ってくる。またね、フィリア」
「……は?」
唖然とした声を出したのはアルグレックだ。その様子を見て隊長が噴き出している。フィリアはなぜ絡まれ、呆れられたのか分からず、ただ憮然としていた。一言くらい謝れ、と思いながら。
家へ帰りたいと隊長に申し出たが、すっぱりと却下された。
曰く、まだ魔消しを受けていない者もいるために、しばらくはここにいるようにとのことだった。フィリアはすぐに諦めると、ただ頷いて客室に戻ることに決めた。
ふらふらと足元の覚束ないフィリアに、アルグレックは付き添うと言ってくれた。二度も断ったが、最終的にフィリアが折れた。
テントを出て、言葉少なに客室へ向かう。
アルグレックは、先程のベニートンの態度にぶつぶつと文句を言っているだけだったが、フィリアの耳には届かない。
ベニートンに言い返してから、客室に着いた今でも、フィリアはアルグレックの顔が見られなかった。




