70.冬来虫
「体調悪いのか?」
「風邪とかじゃないんだけど、なんか最近疲れが取れないんだよね」
「無理して料理教えてくれなくていい。帰ってゆっくり休めば」
鎮魂祭から2週間。今日はあの時食べた巨大鹿の料理を再現してみようと約束していた日だった。
2人で会うのも魔消しの日を除いて祭り以来だ。遠征に訓練にとあっという間に日々が過ぎてしまっていた。
アルグレックは今日こそ「フリじゃなくて本当の恋人になって」と言おうと朝から意気込んでいた。
だから少しの体調の悪さなんて気にしてられなかった。それに今体調が悪いのは自分だけじゃなくて、きっと季節の変わり目だからだろうと誰もが言っていた。
今年ももう冬来虫にも刺されたし、もうすぐ冬が来るのだろう。冬になればまた祭りだってある。今度こそ、本当の恋人として一緒に行きたい。
アルグレックは意を決して一歩近付くと、彼女の方に両手を伸ばした。今からしようとしていることが分かるように、ゆっくりと。
拒否するなら今だけど、拒まないでと願いながら。
「こうしたら、元気になるから」
「――っ」
そっと抱き締めれば、フィリアは身を固くしたけれど何も言わなかった。瞬時に首元まで染めたことに、アルグレックは満足した。
魔消しのために城館へ来る時は、さすがに公私混同はよくないだろうと手も繋いでいない。だからこの2週間、鎮魂祭でのことは夢だったんじゃないかと不安になるほど、何もなかったのだ。
調子に乗って彼女の髪に顔を埋めると、細い肩がびくりと揺れた。ふわりと石鹸の香りが鼻をくすぐる。このまま髪にキスしたら、彼女はどんな反応をするだろう。
でもその前に、ちゃんと言わないと。
「フィリア、俺と……痛っ!」
「アルグレック? どうした?」
「もう大丈夫。ちょっと驚いただけ」
「それ、冬来虫に刺された跡か?」
「うん。でもこんなに腫れてたかな……」
腕を捲くると、冬来虫に刺された跡がかなり大きく腫れていた。ぎょっとしたフィリアは、心配そうにアルグレックを見ながら言った。
「やっぱり今日は帰った方が」
「これくらいどうってことないから、まだ一緒に」
離れそうになるフィリアを慌てて引き止める。なんてタイミングが悪いんだと心の中で悪態をつくと、今度は部屋中に鐘の音が響き渡った。
さすがにもう腕の中に留めてはおけなくて、アルグレックは渋々腕を緩めた。こう何度も鐘を鳴らされては諦めざるを得ない。
まだ少し顔の赤いフィリアが咳払いをしながら扉を開けると、思いも寄らない2人が立っていた。
「え、隊長に副隊長……?」
「アルグレックもここにいたのか。フィリア君、悪いが一緒に至急城館に来てくれ。話は馬車の中で話す」
「アルグレック君も一緒に」
ただならぬ雰囲気の2人に、フィリアとアルグレックは顔を見合わせて従うしかなかった。
「フィリア君は、今年冬来虫に刺されたか?」
「いえ。あんな腫れるようなの、覚えがないです」
「これは、どうやらただの冬来虫ではなく、魔虫のようなんだ」
「「魔虫?」」
聞き馴染みのない言葉を繰り返せば、アルグレックと声が重なった。目の前の2人は深刻そうに頷き、隊長は視線で先を話すぞと伝えてきた。
「あまり知られていないが、魔虫という魔力を持った虫は僅かに存在する。害にも益にもならないような虫だがね。本来冬来虫は普通の虫で、刺されて痒くなる以外は特に悪さをしない虫だが、今年のは違う。恐らく魔虫にさせられた冬来虫だ」
「魔虫にさせられた? そんなことができるんですか?」
「アルグレックも刺されたか?」
「はい」
アルグレックが袖を捲って見せると、隊長たちは溜息をついた。そして彼らも袖やズボンの裾を上げ、虫刺されの跡を見せた。多少の大きさの違いはあれど、どれも異様に大きく腫れている。
「最近身体がだるくないか?」
「はい……でも季節の変わり目ですし」
「魔力不足に似てないか?」
「え? そう言われれば……いやでも、そんななくなるほど毎日使ってないですよ。……まさか」
馬車の中に重たい空気が流れる。
さすがになんとなくだが予想が付く。
「魔虫の冬来虫に刺されると、勝手に魔力が放出されるようだ。しかも、大きくなるにつれ、その量も増える」
「その上、魔力を多く持っていたり祝福を持っていたりすると、そのスピードが上がるようです。強い人ほど、影響があるのです。例えば、騎士のような」
「それなら、団長は」
「……深刻です」
その言葉に、フィリアは咄嗟にアルグレックに視線を送った。目を見開いて、膝の上で掌をぎゅっと握り締めている。そんな男を見て眉尻を下げたが、すぐに隊長たちに向き直った。
「魔消しが有効なんですか」
「まだ分からない。ただ団長は有効ではないかと仰っている。以前、物質には魔消しが効くと団長に話したそうだが」
「はい。でも人間には……」
「人相手にも試したことが?」
「……」
襲われそうになって試してみたことがあるなんて言えない。編み出そうとした魔法を消すことはできたが、手そのものを魔消しすることはできなかったのだ。
フィリアの無言はしっかり肯定だと汲み取られたようだ。なんとも言えない空気が流れる。
隊長はわざとらしい咳払いをすると、しっかりフィリアの目を見た。
「……団長が有効ではないかというのには、きちんと理由がある。この腫瘍に見える跡は、どうやら結石のようなものらしい」
隊長の説明では、魔虫になった冬来虫に刺されると、特殊な魔力を注入されるという。その魔力はその人の持つ魔力を少しずつ使い、魔力を放出させる石を形成する。
その石が小さいうちは、見た目は普通の冬来虫に刺された跡だし、放出量も少ないので気にも留めない。
けれどおかしいと気付いた頃には、取り除くことができなくなっている。身体に流れる魔力の絡脈と繋がってしまっているからだ。
一度開いたが無理で縫い閉じたと聞いて、フィリアは顔を引き攣らせた。
無理に引き千切るような行為――大きな怪我も含まれる――で絡脈を傷付けると、修復にはかなり時間がかかるか、そこの絡脈が修復せずに魔力量が減ってしまうらしい。
「団長は、その腫瘍を魔消ししてしまえば安全に取り除けるのではないかと踏んでいる。もちろん団長に実験台になってもらう訳にもいかないから、協力者を用意している」
「もちろん他の方法も色々試してはいるようです。ですから、あまり気負わずに」
それは無理な相談だろう。急に肩が重くなった気がして、フィリアはそっと息を吐いた。




