60.目が覚めて
「ごめんな。俺のせいで、こんな目に合わせて……」
アルグレックに謝られることなんて、何ひとつない。だからそんな顔しないで。
「こんなことになるなら、偽装なんてするんじゃなかった」
そんなこと言わないで。頼むから。
「フィリアに頼むんじゃなかった。やっぱりミオーナに頼めば良かった」
何が悪かった? どうすれば良かった?
「魔消しだからちょうどいいと思ったのに、魔消しはやっぱり役立たずだな」
「もうフリはいいや。もういらない」
「魔消しなんて、いらない」
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
あんたにまでそんなこと言われたら、私はもう――……
ビクリと全身が大きく揺れて、フィリアは意識が浮上していくのが分かった。
見慣れた天井が目に入る。なんだかすごく嫌な夢を見ていた気がする。
「ごめん。起こした?」
「……いや」
「まだそんな解熱剤効いてないだろ? まだ寝た方がいいよ。それともお茶飲む?」
「うん」
アルグレックから受け取ったセバダ茶を飲みながら、ぼんやりと考える。
そうだった。あの後医者のイデルに診てもらい、薬を調合してもらって家に連れて帰ってもらったのだった。着替えたかったし、あそこではぐっすり眠れない。まだ熱が下がっていないから、恐らくそんなに寝ていないのだろう。
頭がぼんやりする。心がざわざわして、なぜかとても不安だった。
「もう少し飲む?」
「いや、いい…………ありがと。その、色々助けてくれて」
なんとなく急いでお礼を言いたくなってそう告げると、アルグレックは眉尻を下げてベッドサイドに椅子を寄せた。
「お礼なんて……むしろ、ごめんな。あんなお願いしてから、フィリアばっかり嫌な思いさせてる」
「っそんなことない!」
思わず大きな声が出て、慌てて取り繕うように謝ると、アルグレックは寂しそうな顔で笑った。
やっぱり断るつもりだったのだ。だからそんな顔を。
違う。そんなんじゃない。そんな顔をしてほしいんじゃないのに。
何て言えばいいか分からない。ただ布団をぎゅっと握りしめた。
「無理はしなくていいからな。フィリアが辛いと思うなら、いつでも止めて――」
「嫌だ。止めるなんて、言うな」
「でも」
「いらないなんて、今更言うな」
「フィリア?」
困惑した表情のアルグレックを見て、余計に焦る。言うべきことが分からないのに、口から勝手に言葉が零れてしまう。
『魔消しなんて、いらない』
浮かんだ言葉に聞き覚えがある。声は、やっぱり聞き慣れた声で。
まだ言わないで。せめて、もう少しこのままで、心の準備をさせて欲しい。
急にそんなこと言わないで。魔力検査みたいに急に。
「あんたまで、私を置いてくの」
「フィリア? ほんとにどうし」
「お願いだから、まだ、ひとりにしないで。まだ…………もう、ひとりは嫌だ」
苦しい。
痛い。
喉が詰まって息ができない。涙のひとつでも出れば楽になれるのだろうか。もう、泣き方も忘れてしまった。
苦しくて、苦しくて、抱き締められたことにも気付かなかった。
「フィリア。ごめん、違うんだ。フィリアから離れたいなんて、そんなこと欠片だって思ってない。むしろずっと一緒にいたいって思ってる」
「……うん」
「何があっても、俺は絶対にひとりになんかしない」
「……」
どうしても、その言葉は信じられない。だって、血の繋がった家族すら捨てたのに。
黙ってしまったフィリアに、アルグレックはそっと頭を撫でた。まるで癇癪を起こした子供を宥めるように。
その手が優しくて、不思議と心が落ち着いていく。
信じたいと、思わせてくれる。
「色々話したいけど、今は寝た方がいい」
「…………」
「寝るまでいるから。な?」
フィリアは悩んだが、ややあって頷いた。ゆるゆると布団の中へ戻ると、菫色の瞳と目が合った。
さっきとは違う、優しい色だ。
「ちゃんといるから。心配なら、手を握ろうか?」
そこは別に疑っていなかったが、フィリアはおずおずと左手を布団から出した。
大きな手はやっぱり安心する。自分の手より冷たいのに、温かいのはなぜだろう。あっという間に睡魔が戻ってきたフィリアは、抗うことなく目を閉じた。
そのあとしばらくの間手を離せず、身悶えている青年のことなど、もちろん知る由もない。
「フィリア? 目が覚めたの?」
「……ミオーナ」
「ほら、お茶飲んで。セルシオが作ったスープもあるけど食べられる?」
「今はいい。……アルグレックは?」
「私と交代で戻ったわ。さすがに男が夜通しここに居座るわけにもいかないでしょ」
「ふうん」
「ふうん、って。あんたね」
ミオーナは一瞬だけ強張った顔をしたが、すぐにほっとしたように手袋を外し、フィリアの額に手を置いた。
アルグレックとは違う柔らかい手に、フィリアは無意識に目を閉じた。
フィリアは初めて魔消しでも悪くないなと思った。アルグレックは目を見て話してくれるし、ミオーナやセルシオが触れても祝福による影響がない。
まさかこんなことを思う日が来るなんて、想像もしなかった。
「だいぶ熱は下がったみたいね。よかった。でもまだ少しあるから、眠れるなら寝なさい。念のため、今日は泊ってもいい?」
「いやでも、さすがにそこまで迷惑は……」
「あら。友達なんだから、こういう時こそ頼ってくれたら嬉しいんだけど?」
窓の外は既に暗い。静かで真っ暗な外の景色に、心がひたひたと揺らいだ。
布団にぎゅっと皺ができる。
「…………いて、ほしい」
「ふふ。任せて」
ぽん、ぽん、とお腹に優しいリズムが伝わってくると、それにつられてゆっくり瞬きを繰り返した。
2人には、完全に子供扱いされている。
その景色は覚えていないのに、優しくされた感覚だけはある。頭を撫でてもらったとか、寝かしつけてくれたとか、そういう具体的なことは全く分からないのに。
喜びと懐かしさと、少しの切なさ。
それでも今は、それがとても嬉しかった。
いつもより早い時間に目が覚めた。頭はまだ少しぼんやりして身体は少し怠さが残っているが、何より空腹が酷い。フィリアはのそのそ起き上がると、リビングに向かった。
ソファではミオーナが寝ていた。そうだった。彼女は昨日泊まってくれたのだった。
フィリアは起こさないようにそっとキッチンに行くと、出した覚えのない鍋が出ていた。蓋を開けると小さな野菜がたくさん入ったスープで、セルシオが作ったと言っていたことを思い出す。もしかしたら、昨日来て作ってくれたのだろうか。まったく気が付かなかった。
火を点けて温めれば、いい匂いに釣られたのかミオーナがゆっくり起き上がった。いつものぱっちりとした瞳ではなく、完全に寝ぼけ眼だ。
「おはよう。昨日はありがと」
「フィリア……? うん、おはよ……」
どうやら朝は弱いらしい。遠征の時はちゃんと起きていたのは、やっぱり仕事だからだろうか。フラフラと近付いて抱きついてくるミオーナは、いつもより幼く見える。
「セルシオのスープ食べるけど、ミオーナも食べる?」
「うん……食べる……」
先に顔を洗ってくると言うミオーナの背中を見ながら、こんな一面もあるんだな、とフィリアは密かに微笑んだ。
スープを皿に移した頃、彼女が戻ってきた。顔を赤らめて謝りながら。
「ごめん! 病み上がりのフィリアに準備させるなんて! もう体調はいいの? 無理してない?」
「もう大丈夫。お腹空いただけで」
「私、朝弱くて……お世話したくて泊まったのに……ああもう、恥ずかしい」
「? 可愛いと思ったけど」
「……あんたほんっとたまに無自覚の人たらしになるわね」
盛大に照れているミオーナを、やっぱり可愛いなと思った。
朝食後、ミオーナは訓練へと出かけて行った。心配そうに何度も振り返り、そのたびにフィリアは何度も平気だからと伝えた。
今思い出してもくすぐったい。彼女の置いて行ったセバダ茶を飲みながら、小さく笑みを漏らした。
それも束の間。机の上に置かれた髪飾りを見て、眉間に深い皺が刻まれていった。
あの偽物令嬢は一体何がしたかったのだ。一方的に気持ちを押し付けて、アルグレックを縛るつもりだったのか。
あの男は優しい。だから約束で縛ってしまえば離れないと考えたのか。
なんて勝手な――そう思ったと同時に、フィリアはさっと血の気が引いた。
私も、同じじゃないか。




