57.募る苛立ち
「わたくし、執事のチャーリーと申します。少々お時間よろしいでしょうか」
突然目の前に現れた黒髪の若い男は、ちらりと副隊長夫人に視線を送りながらフィリアに自己紹介をした。
先ほどの夫婦喧嘩が減った話以外に、何か話があるのだろうか。
魔消し風情が気安く特隊員たちと話さない方がいいという忠告かもしれない。万が一にも、差し入れでとても美味しかったクッキーをくれるという話だったら嬉しい。
アルグレックたちは表彰式に出ている真っ最中で、フィリアは関係者席にいた人たちの流れに合わせて帰ろうと思っていた。そこを呼び止められ、フィリアはまあいいかとついていくことにした。
今となっては、自分の卑しさを呪いたい。
執事だと名乗る男に案内された馬車は、確かに貴族の使っていそうな立派な馬車だった。聞かれたくない話でもあるのだろうか。夫婦喧嘩の詳細なら勘弁してほしい。
そう思いながら乗り込むと、甘ったるい香りに顔を顰め、そこからの記憶がない。
気付いた時にはこの暗くて蒸し暑い部屋に寝転んでいた。土の匂いにカビと埃の匂いが混ざって、鼻がムズムズする。湿度と汗でじっとりと張り付く服も不快だ。薬のせいだとはいえ、手足を縛られて窮屈なのによくこんなところで寝れたものだ。
フィリアの零した大きな溜息と鎖の音しか聞こえない、真っ暗で静かな部屋。
誰が、何の目的で。心当たりはないが、魔消しだからと言われてしまえばそれまでの気もする。
どうせ今考えても何も分からない。近付いてくる気配は答えてくれるだろうか。フィリアはゆっくり起き上がれば、手足についた鎖がガチャリと音を立てた。
足音はふたつ。カツカツと響くヒールの音に続く静かな音。
ヒールを履いているなんて、きっと貴族だろう。ああ、やっぱり副隊長夫人は嫌だったんだろう。これだから貴族は苦手なんだ。口先と腹の中で考えが違いすぎる。
重い扉が鈍い音を立てながら開けられると、眩しさに目を眇めてしまう。夕陽だろうか。一瞬だけ入ってきた生温い風が、汗ばんでいる肌を撫でた。
「あら。もう起きていたのね。ちょうどよかったわ」
聞こえてきた声に驚愕する。
副隊長夫人ではない。まったく知らない声だった。
部屋の明かりが灯されると、フィリアはようやく声の主の顔をはっきりと見ることができた。そこには執事だと名乗った男を従えた、若い令嬢がいた。
燃えるような赤い髪に水色の瞳をした華奢な令嬢は、ねっとりとした笑みを浮かべている。やっぱり知らない顔だ。
青紫のドレスと同色の靴。腕のリボンや髪飾りまで同じ色で、そのくどさに辟易する。さすがに誰関係かは分かった。
「今回はワインレッドなのね……どう? できそう?」
「難しいですが、やってみましょう」
「ふふ、お願いね」
男が頭を下げて一歩下がる。赤髪の令嬢は、フィリアを真っ直ぐ見つめている。その恍惚とした表情が不気味で、フィリアは睨みつけるように彼女を見た。
「あんた、誰」
「そんな粗雑な話し方なのね。声も低いわ。ふふ、できるかしら」
噛み合っていない会話に苛立つフィリアとは違い、赤髪の令嬢は楽しそうに顔を近付けた。その髪に付いている飾りに、フィリアは釘付けになった。
「その髪飾り……!」
「似合うでしょう? ちょっと安っぽいけど、私が付けてあげる。きっとアルグレック様も未来の婚約者が付けていた方が喜ぶわ」
「返せ!」
「どうして? これはもう、私のものも同然よ? 私はこれから貴女になるのだから」
「はあ!?」
「ああ、明日が待ちきれないわ。今日はもうゆっくり休んでね」
結局何の疑問も晴れないどころか増やすだけ増やし、赤髪の令嬢は去って行った。ご丁寧に、明かりも全部消して。
真っ暗な闇の中で、フィリアの溜息だけが聞こえる。余程密閉された部屋なのか、光も音も風も何もない。
フィリアはじっと考えた。あれは多分、話の通じないタイプのヤバイ人間だ。
まともに話を聞くべきではない。それなのに、どうしようもなくイライラする。じっとりと濡れた服にも、カビ臭い空間にも、解けない拘束具にも。
あの髪飾りを付けたあの令嬢の姿を思い出して、余計に腹が立った。
あれは自分の物だ。勝手に触るなんてどういうつもりだ。
安っぽいだって? 価値が分からないなら余計に返してほしい。いや、分かったとしても渡したくない。
大切な、大切な物なのに。
フィリアは奥歯を噛み締めた。物を盗られて、こんなにも苛立ったのは初めてだ。
今までは、その場では頭にきてもすぐに諦めがついた。所詮は物だ。命を取られた訳じゃない。
諦めるのは得意。そう思っていたのに。
あの髪飾りだけは、どうしても諦めたくない。
ジャラジャラと煩い鎖を力いっぱい何度も引っ張る。どうにかしてここから出よう。そして、絶対にあの髪飾りを取り返してやる。
身も心も不快指数は最高潮だ。
ウトウトしても暑くてすぐに目が覚める。動けば全く抜けそうにない鎖の嫌な音が耳につき、そのたびにイライラが募った。
服が汗でぐっしょりと濡れている。喉はカラカラで、部屋は暑いのに肌寒くて、手足の先が少し痺れている。
お腹も空いたけれど、とにかく水が欲しい。でも、あの令嬢たちにはお願いしたくないという意地のような感情がムクムクと浮かんでくる。
何かを考えれば考えるほどに鬱憤の溜まる時間に耐えていると、ようやく足音が聞こえてきた。それは前回と同じふたつ分で、フィリアは深く息を吸ってからゆっくり吐き出した。
「どう? そっくりでしょう?」
突然の明かりに耐えられるようにと目を瞑っていたフィリアのことなどお構いなしに、赤髪の令嬢は開口一番楽しそうにそう言った。
もういいだろうとゆっくり目を開け、視線を上げて固まった。身体が、雷に打たれたのかと思ったほどの衝撃だった。
「な……」
「うふふ。見た目は完璧でしょう? 話し方や声は無理だったから諦めたけれど」
「なに、を……」
目の前に、ねっとりとした笑みを浮かべるフィリアがいる。
声も話し方も、あの赤髪の令嬢なのに、見た目だけはフィリアとそっくりだった。
髪の色も瞳の色も、着ている服だって。その髪にあの飾りが付けられているのに気付くと、フィリアは急に驚きよりも苛立ちが強くなった。
その上、よく見ればフィリアよりも身綺麗だ。着ている服も、似てはいるがフィリアのそれより上等で、肌も日に焼けておらず白い。無理に染めたのか、髪の傷み具合だけは同じで、それが無性に腹が立った。
「どういうつもり」
「簡単よ。貴女になって、アルグレック様に魅了をかけてもらうの」
「はあ?」
フィリアの嫌悪感いっぱいの声を気にも留めず、令嬢は熱っぽい息をついた。背中にぞわぞわとした嫌な感覚が這い上がってくる。
「私、アルグレック様にお手紙を書いたの」
「は? 何の話を」
「本当に貴女が大切なら、私を迎えに来てくれるはずだわ」
「あいつに、何する気」
「ランドウォール家が叙爵されたことをご存知?」
会話になっていない。自分とそっくりな人間と向かい合っているのに、話どころか目も合わない。異様な不気味さに、フィリアは返事すらできなかった。
「アルグレック様が一瞬でも騙されてくれればいいの。貴女といる時はあの邪魔な眼鏡を外しているでしょう? あの眼鏡さえなければ、私なんかの魔力じゃあすぐに魅了されてしまうわ。男爵も、叙爵されたばかりなのだから大事にされたくないでしょうね?」
「あんた、まさか」
「ふふふ。やっと、愛するアルグレック様の特別になれるわ」
この令嬢は、アルグレックに魅了の責任を取らせて一生縛り付けるつもりなのだ。
いくら後ろに辺境伯がいたとしても、アルグレックが自ら貴族令嬢に危害を加えたとなると守り切れないのではないか。
全身が熱くなる。腸が煮えくり返るというのはこのことか。
「アルグレック様は特別なのよ。神が創った美しい、特別な人。彼には、貴女よりも私が相応しいのよ。だからね、貴女はもういらないの」
怒りに塗れたフィリアは、何か言い返したいのに何も言葉にならなかった。ただ歯を食い縛って、目の前の令嬢を睨み付けた。
「少しの間でもアルグレック様からの愛を受けていた貴女が許せないの。だから、ここでゆっくり苦しんで死んでね?」
ぎらついた黒い笑みを浮かべる自分の偽物は、とても醜かった。




