54.変化
冒険者ギルドでの魔消し依頼はそう多くない。
ここボスミルに来るまでは滅多になかったし、ここに来てからも定期的にあったのはアルグレックの眼鏡だけだった。
そういう理由もあって、これまでに受けた魔消しのほとんどは覚えている。
朝早くに家を出て、人気の少ない路地を選びながら、フィリアは久しぶりに冒険者ギルドへ来た。緊張しながら受付へと向かうと、意外にも冷たくない視線が多かった。理由はさっぱり分からないが。
戸惑いながらも、今日は簡単な依頼だけにしようとファイルを捲っていく。珍しく魔消しの仕事があり、受けてみると見覚えのある手袋だった。
多分これで三度目だ。
糊が付いたままの新品で、色は黒。どれも同じ位置に同じ紋章とイニシャルの刺繍が金色で入っている。
今までは持ち主なんて気になったことはなかったが、今回は別だった。この持ち主に心当たりがある。
特隊で唯一、まだ一度も魔消し依頼を出していない――新入りのベニートン・アレバーロだ。
彼は神官を多く輩出している家出身らしく、彼自身も信仰深いとミオーナが教えてくれた。また、アルグレックの信者でもあるらしい。
だから余計に、魔消しであり、偽装とはいえ恋人だ噂されるフィリアが気に食わないようだった。
初めてベニートンを紹介された日の翌日に行くはずだった巨大鹿の店は、彼の邪魔により延期になった。それだけでなく、翌週の魔消しの日、彼まで城門に来てアルグレックと言い合いをしていた。思い出しても溜息が出る。
彼は顔を合わせるたびに「別れるべきだ」「報酬は贖罪の為に寄附すべきだ」「魔消しのくせに」と喚かれる。アルグレックが何度怒っても同じで、一度だけだがつい言い返してしまった。
拒絶されるのが辛いのではない。怒ったり落ち込んだり、申し訳なさそうな顔をしたりしているアルグレックを見るのが辛かった。
別れたことにして、少し離れた方がいいのではないかと何度も思った。
でも、フィリアはどうしてもそう口に出せなかった。どうしても、そう言いたくなかった。
もしかしたら負けた気がするからかもしれない。ベニートンのことを除けば、彼の側が一番落ち着くのだ。安心するし、心地いいし、楽しくもある。まさかすぐそばで寝てしまうとは思わなかったが。
だからアルグレックからもそう提案されないのをいいことに、フィリアは心苦しさを抱えながらも、ベニートンの言葉を聞き流している。
一昨日ベニートンを叱るアルグレックの表情があまりにも疲れが出ていて、フィリアは居ても立っても居られず、つい手紙を出してしまった。『大丈夫か?』と、ほとんどメモのような手紙を。
何もできないのが嫌で、かといって何もしてあげられることが浮かばなくて。
返事は昨日の夜に届いた。本当に彼はマメだなと、今思い出しても頬が緩んでしまう。
内容は、やっぱり謝罪と、手紙を喜んでくれたことと、また料理を作らないかというお誘いだった。あの提案のようなものが書かれていないことに安堵した。
フィリアはすぐに返事を書いた。顔を綻ばせながら。
約束の日は明後日。きっと返事は来ないだろう。そう思いながらもどこかで返事を期待している。そわそわするのに楽しいから不思議だ。
フードを目深に被ってギルドを出る。ボスミルはグリーゼル国最南にあり、9月になってもまだまだ暑い。フィリアはふと、あの老舗店のアイスが食べたくなった。暫く逡巡したが、意を決して向かうことにした。
行く気になったのは、あの店はメイン通りにあるのではないことと、やっぱり視線が鋭くないからだった。
フードを被っていても確認するように覗き込んでくる人もいれば、「あれ、あの魔消しじゃない?」と指差す人もいる。
それは大体どこの街でも同じで、ばれた瞬間から冷たい視線が突き刺さる。どんな情報がまわっているかは知らないが、姿絵が出回っているところまであった。完全にお尋ね者扱いだ。町ぐるみで追い出されたこともあった。
今回もそうなることを覚悟していたが、どう考えても今までと比べ物にならないくらいにぬるい。嫌悪の視線はもちろんあるが、それよりも観察しているようなものが多い。
それはそれで居心地の悪いフィリアは、せかせかと足を動かした。
あのアイス屋に着いたはいいが、ここに来て怖気づいてしまった。店の前でばれたのだから、あの店主にも迷惑がっているかもしれないと、今になって考えたからだ。
「あんた、あの時の魔消しのお嬢さんだろ?」
店の隣で躊躇しているフィリアに、あの時の老婆の店主がわざわざ外に出て声を掛けてきた。驚くフィリアとは正反対に、老婆はただじっと彼女を見つめていた。
その視線に耐えられなくなって、フィリアはゆっくりとフードを取ると頭を下げた。
「あの時は、すみませんでした。店の前で騒ぎを起こして」
「謝らなくていい。あんたは悪くないだろう……それより、本当に……その、魔消しなのかい」
「……はい」
肯定すると、店主の顔が歪んだ。ああ、やっぱり迷惑だったのだ。
何人もの人が立ち止まって2人を見ている。フィリアはこの場を去る前にもう一度謝ろうと口を開いた。
「なら、あの人攫いの事件に貢献した魔消しってのも、あんたなんだな」
「え……?」
「リュナを、うちの孫を、助けてくれてありがとう」
老婆に頭を下げられ、フィリアは言葉を失った。
周りのざわめきが遠くに聞こえる。
「辺境伯様がうちにお忍びで来た時に教えてくれた。あの魅了持ちの騎士と恋仲の魔消しが、命を張って人質を助けてくれたと」
「……」
「攫われた人の中に、うちの孫がいたんだ。息子と喧嘩して飛び出してってそのまま……魔獣に襲われてたらと、身売りでもされて、もう会えなかったらと……っ」
喉を詰まらせた老婆の瞳は潤んでいる。黙ったままのフィリアの手を取ると、皺だらけの手で包み込んだ。
冷たいのに、温かい手。フィリアは再び慌てた。
「ありがとう。本当に、ありがとうな。辺境伯様に聞いてから、ずっとあんたにお礼を言いたかったんだ」
「いえ、あの、魔消しなんかにお礼なんて」
「魔消しかどうかなんて関係ない。あんたが、私の恩人だから、礼を言うんだ」
「……はい」
今日一番厳しい視線。
それなのに、フィリアはなんだか少し照れくさくて、嬉しかった。老婆の迫力のある笑顔につられるように、フィリアも少し頬を崩した。
「今日は、もしかしてまたうちに買いに来てくれたのかい」
「その……はい」
「座って待ってな」
返事も聞かずに店主は店へと戻って行った。フィリアは店主に従ってベンチに腰掛け、顔を上げた。
やっぱり蔑む視線が少ないのは、気のせいではなかった。
アルグレックが頑張ったと言っていたのも、きっとこのことだろう。あの人攫いの出来事を、きっとフィリアの手柄のように話し回ってくれたのだ。
胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。
「お待ち遠様。お代はいらないから、食べてってくれ」
「いえ、ちゃんと払います」
「せめてこれくらいはさせてくれ。私にはこれしかお礼できる方法がないからね」
差し出されたのはチョコレートのアイスだった。フィリアがおずおずと受け取ると、店主は嬉しそうに笑った。
「またあの恋人とも来てくれ。あんたならいつでも大歓迎だよ」
「……ありがとうございます」
ゆっくりとスプーンを口に運ぶ。
喉の奥が詰まって、一口目の味が分からなかった。




