1.魔消し
のんびり連載します。
フィリアは息を殺して巨大兎を見つめていた。久しぶりの獲物だ、なんて肉食獣よろしく瞳をぎらつかせながら。あれを捕まえたら今夜は1杯だけビールを飲もう。久しぶりの贅沢を楽しむんだ。何が何でも捕まえてやる。
肩まである亜麻色の髪は後ろで束ねられ、カーキ色のフードに隠れている。少し釣り上がったワインレッドの大きな瞳、小さな鼻、薄い唇。平均より少し小さめの彼女は、可愛らしさと生意気さを併せもった猫のようだ。
音を立てないように慎重に短刀を構えると、素早く投げつけ、獲物を横切って小川の手前の樹に突き刺さった。狙いとは少しズレたが、巨大兎は動かなくなった。その首に一筋、緑色の血がどくどくと流れたのを見て、フィリアは先程までの緊張を全て捨て、心の中でガッツポーズをした。巨大兎がどさりと音を立てて倒れた。これで今夜は少し贅沢できる。
「中々良い短刀だな」
「っ!?」
急に聞こえた声に驚いて顔を上げた。浮かれ過ぎた。全く気が付かなかった。
上等な甲冑に身を包み、フィリアの短刀を持ち上げた男は「ほう」と声を漏らした。騎士だろう。先程までの歓喜が一瞬で消え去り、苦々しいものが込み上げてくる。
最悪だ。
「これも中々良い魔消しが付いてるな。どこで付けてもらったか教えてほしい」
「……関係ない。返せ」
「俺もちょうど魔消師を探しているんだ。教えてくれないか」
「うるさい返せ」
頭1つ分大きい男を睨みつけるが、見上げる様な形になったのがフィリアを余計に苛つかせた。
銀縁の眼鏡をかけた男は、とても整った綺麗な顔立ちをしていた。サラサラの癖のない黒髪、伸びた前髪の奥には切れ長の瞳が覗き、透き通った菫色をしている。形の良い唇はさっきからずっと緩く弧を描いている。
フィリアも男も一切引かない。それに苛立ちを募らせたのはフィリアだけではないらしく、男は大袈裟に溜息をつくと、自身の眼鏡に手をかけた。
「先に謝っておく。本当はこんなことしたくないんだ……」
眼鏡をずらされて露わになった菫色の瞳が、より輝きを増して見つめてくる。どこまでも覗き込めそうなほど、どこまでも覗き込まれそうなほど。
フィリアは黙って睨みつけたままいた。視線を外すと負けた気分になると思ったからだ。
「…………あれ?」
「早く返せ」
「君、効かないの?」
「はあ? そんなことより…!」
「もしかして、君、魔消し…ウッ!?」
口をあんぐりさせて間抜けな顔をした騎士に、とうとう我慢の限界がきたフィリアは鳩尾に拳を沈めた。呻いた瞬間に短刀を奪い返す。
何が騎士だ。こんな女冒険者ごときに殴られるなんて、どこかの貴族騎士だろう。
鳩尾を抑えて不気味に笑い出した騎士を無視して、巨大兎を抱えて小川で血抜きをする。染みにならないか心配したが、どうやら間に合ったようだ。毛皮も良い金になる。血抜きだけ終わらせたら1秒でも早くここを立ち去ろう。未だ聞こえてくるくぐもった笑い声から早く離れたい。
「ねえ、君名前は?」
「……」
「さっきの無礼は謝るよ。助けてほしいんだ」
「……」
「お礼ならちゃんと払うから。本当に困ってるんだ」
「……」
早く終われ早く終われと心で念じる。報酬は欲しいが餌かもしれない。とにかくおかしな奴とは関わらないのが一番だ。
「この眼鏡に魔消しをして欲しいんだ。頼むよ」
「……ギルドで頼めば」
「いつもはそうしてる。ただ最近引き受けてもらえないから困ってるんだ」
フィリアはやっぱり、と心の中で思った。見たことがある眼鏡だと思っていたからだ。
魔消しは魔消師にしかできない。いや、魔消師は魔消ししかできない、といった方が正しいのか。
この世界の人間は、ほとんどが魔法を使える。このグリーゼル国では、5歳の時に神殿で魔力検査があり、魔力量と属性――火・水・風・土・雷・光・闇の7つ――を確認される。1つしか当てはまらない人もいれば、3つ4つ当てはまる人もいるらしい。
ただ、例外がある。それが魔消しだ。ごく稀に、1年に1人いるかいないかの確率で魔消しと呼ばれる、全ての魔力――自分の魔力すら無効化してしまう者が生まれる。
事実魔消しはあまり役に立たない。戦士になったところで物理的攻撃は無効化出来ないし、何でも対応できる防御術に特化した術師の方が使える。結局は力の差で勝敗が決まるので、魔力の高い人間に魔消しは通用しない。
かと言って日常生活でも全く使えない。精々何か道具等に魔消しを込めるくらいだ。しかしそれも必要数は多くない。希少だが魔消し石だってある。
グリーゼル国の伝記によると、大昔は魔消しは少なくなかったそうだ。魔消し専属の部隊まであり、とても強かった。それが次第に傍若無人に振舞うようになり、神の怒りを買って数を減らされたと言い伝えられている。
だから魔消しは『大罪人の生まれ変わり』なのではないか、『神に見放された人間』なのではないかと言われ、忌み嫌われている。『負け氏』と揶揄されることもある。
実際、フィリアも5歳の時に魔消しだと判明した途端大騒ぎになり、数日の内に修道院に入れられた。捨てられたも同然だった。
「知るか。そんなこと」
「このスペアのスペアのスペアもさっきヒビが入ったから、もうすぐ効果が切れそうなんだよ。お願い!」
「しつこい」
「頼む! いつもの5倍出す!」
「え、銀貨5枚も?」
「やっぱり君だったんだ」
しまったと思ってももう遅い。引っ掛かるなんて最悪だ。最悪の最悪だ。
いつもなら魔消しを眼鏡に込める依頼はすぐに受けていた。簡単な上に報酬が良いからだ。ただ今回は、2週間前珍しく体調を崩し、先週からはリハビリを兼ねて既に受け取っていた依頼をこなしていた為、ギルドに全く行っていなかった。だから金に目が眩んだ訳だが。
目の前の男はニコニコしている。さっきまで焦って困った顔をしていた癖に。最初の偉そうな胡散臭い口調もどこ行った。その嬉しそうな顔を見た途端、苛々が諦めに変わったのを感じた。
「それ込めたらさっさと金払ってどっか行って」
「ああ、約束する!」
「貸して」
嫌がらせにレンズ割ってやろうかと思ったが、「割ったら報酬なしね」と満面の笑みで言われてしまった。どうやらバレていたらしい。フィリアは隠そうともせず盛大に舌打ちすると、なぜか男は大笑いした。
レンズの部分だけを覆うように手で包み込む。掌がじんわりと温かくなれば成功だ。もうひとつのレンズにも同じように力を込め、ハンカチでレンズを綺麗に拭いてから男に向かって放り投げた。男は危なげなくそれを受け取ると、フィリアの顔と交互に視線をやった。
「えっ、もう出来たの!?」
フィリアは何も言わなかったが、男は気にした様子もなく、指先に何かの魔法を灯してレンズに近付けた。それがレンズに触れる直前でスッと消えてるのを見て、声を上げて大喜びした。今にも踊り出しそうな勢いに、フィリアは心がざわざわと落ち着かなくなった。さっさとどこかへ行って欲しい。巨大兎を持ち直しながら、心の中で文句を言った。
「本当に助か……っ!」
「!?」
男が急にこちらに手を出して来たのを見て、フィリアは後ろに飛び退き、咄嗟に短刀の鞘に手をかける。巨大兎がばしゃんと大きな音を立てて川に落ちた。
「ごめん……! ただ、握手しようと思っただけなんだ」
「そこに金置いて消えて」
「なあ、名前は――」
「うるさい!」
男は悲しそうな顔をしてこちらを見ていたが、やがて諦めたのか金を置き、再び謝罪の言葉を述べると去って行った。
フィリアはすぐに銀貨を拾い上げて巨大兎を回収し、走ってギルドへ向かった。
むしゃくしゃした気持ちを力に、ただひたすら駆けた。