静岡戯言地下街奇譚
この時、私は果てしない倦怠感をバベルの如くひたに積み重ねていくだけのたいへん憂鬱かつ無意義な日々を送っていた。理由は特にない。研究が進まないとか、バイトが大変だとか、そんな小さな疲労と不満が積もり積もって、私の心をすっかり覆い尽くしてしまっていた。そしてそれを理由に、やるべきことをやらないでいると、それがまた私の自尊心を傷つけ、益々私は私を嫌いになっていくのであった。どうか自業自得とは言わないでくれ。そんなこと他ならぬこの私が一番よく分かっている。しかし、もう、何もかもが面倒くさいのだ。就活も勉強もバイトも恋愛も、遊ぶことすらも! 私を取り巻くすべての人間関係が、私を押し潰そうとしているかに思えた。いっそどこかで独りひっそりと死んでしまいたい、とすら考え始めていた。しかし私が、そう簡単に死ねるような性質を持つ人間であったなら、ここまで二十数年間も怠惰に生きてはこなかっただろう。故にこの度も死ねはしないのだ。素直に言うならばまだまだ死にたくない。けれども、あぁ、憂鬱。憂鬱が過ぎてどうにかなってしまいそうだ。このままでは本当に死んでしまう。そうなる前に活力を補給せねば。
そこで、私のちっぽけな生存本能が、静岡駅北地下街にあるカクテルバーへの出動を命じたのだった。
☆
木曜の夜の街は閑散としており、私のような独り者が過ごすには心地好い温度をしている。『斜陽』という名のこのカクテルバーは、縦に細長く、カウンター席しかないため、なお心地好い。私はその一角を占拠せしめ、散々に飲みまくっていた。
思えば私の人生はなかなかに哀れであった。高々二十数年でそんなことを語るのはおこがましいかもしれぬ。が、どうか今宵だけは許してほしいと私は神に赦しを請うた。たまの休みに独りぼっちで、自己憐憫に溺れる夜があってもいいではないか。所詮愚かなる人間の行いだ、明日にはすっかり忘れてもう一度歩き始めるのだろうから、どうか今だけは、と祈った。無論、神など毛ほども信じておらぬが。そう思って私は腹の底でくつくつと笑った。神は毛ほども、か。髪だけに!
「何か楽しいことでもあったんですか?」
「え?」
「いやほら、笑っておられるから」
「ああいや、別に何も」
「そうでしたか」
「あ、同じカクテル、もう一つください」
「はい、かしこまりました」
通い詰めているだけあって、私の顔はすでに覚えられていた。若い店員は慣れた様子でシェイカーを振って、不思議な色をしたアルコールをグラスに注いだ。
「自分、静岡は今年で三年目なんですけど」
「はぁ」
「良い場所ですよね」
「そうですか?」
私は疑念に満ち溢れた相槌を打って、グラスを受け取った。
「良くないですか? 冬はあったかいし、人も穏やかで」
「あー、まぁ」
私は不思議な色の液体を喉に流し込んだ。青のような紫のような、うっすらと緑がかっているような、それでいて淡く金色に発光しているような、なんとも形容しがたい色のカクテル。ちらとメニューを見て、その名前を思い出し、私は納得した。最近はもっぱら、いつもの、やら、同じの、やらで通してしまっていたため、すっかり忘れていた。そう、この色は『夜明け前』である。他にも、『夕暮れ』『若紫』『ささめ雪』『ギャラクシヰ・レヱル・ナヰト』『K』などといった、特徴的な名前が並んでいる。どうもオーナーは文豪が好きであるらしい。が、客も店員も正しく言うのを面倒臭がって、あの赤いやつ、とか、オレンジの、とか好き勝手に呼んでいる。私が『夜明け前』を常飲しているのも、来始めた当初、最も言うのが恥ずかしくないものを選んでいたからである。味は別段、とりたてて美味いわけでもない。ミントの香りが鼻に抜けるので、清涼感はあるが、人によっては液体歯磨きのように感じることであろう。ちなみに一番人気は『K』である。理由は推して知るべし。
「永住するには向いてる、ってよく聞きますけどね」
と、私は言った。
「あぁ、そんな感じします」
「でも実際、生まれた時からずっと住んでる人間には少々――窮屈というか、退屈というか」
「そうなんですか」
「一回外に出てみれば、違ったかもしれませんけどね。結局、出ないまま終わってしまいそうですから」
「あー、ありますよねー、そういうの。中にいるからこそ気付けない、有難みっていうか? 自分も、ここに来て、独り暮らし始めて、あぁ親って有難かったんだなぁ、って思いましたし」
「そうなんですか」
からんころん、とドアベルが鳴って、新たなる客に店員は挨拶をした。私と一つ席を空けて座ったその男は、私に小さく会釈をしてから、
「おすすめは何ですか?」
と店員に向かって尋ねた。至って平凡な、おそらく私と同い年くらいの、大人しそうな男であった。
「どんな感じのがお好きですか? ジンベースとか、ウォッカベースとか」
「ベースは何でも大丈夫です。あまり甘くないので……ミルク系以外で」
「えーと、では……『キュウナナゆうなぎ』はソルティライチ的な味です。『檸檬EX』はかなり酸っぱいですけど、さっぱり系で、『雪辱』は、少し苦めの、後味すっきり系です」
「『キュウナナゆうなぎ』って面白い名前ですね。百人一首ですか?」
「凄い、よく分かりましたね! ええ、その通りです。オーナーの趣味でして」
「それをください」
「かしこまりました」
さらりと名前の由来を看破してみせたその男は、私に奇妙な既視感を覚えさせた。なんとなく、どこかで見たことがあるような、ないような、そんな気がして、私は脳内のアルバムを猛烈な勢いでめくった。私は、男の正体が気になる半面、男に私の存在を知られたくなくて、カウンターの向こうの戸棚に整然と並ぶ酒瓶の、その色とりどりのラベルたちを凝視していた。
実を言うと私は、他人の顔を覚えるのがたいそう苦手なのである。ともすれば、同じ部活に所属していた同輩の顔すら、まともに覚えていないほどに。もし彼がそこそこの知り合いであったなら、と思うと、冷や汗が流れる思いであった。だが、大して厚くない私のアルバムの中に、一致する顔が映っている写真は無い。問題はそれが、最初から撮っていないのか、あったのを燃やしてしまったのか、ということである。
「お待たせいたしました。『キュウナナゆうなぎ』です」
「ありがとうございます」
それはひどく綺麗なカクテルであった。夕凪という名の通り、赤みを帯びた橙色が、上から下へと淡いグラデーションをなしている。そして底にこずんだ透明な紺色が、これから来たる夜、或いは凪いだ海の、深淵のごとき静けさを想起させた。美しく、それでいてどこか悲しげな、秘めたる情熱に身を焦がされる切なさが、小さなグラスの中に収まっていた。
ふと、男と目が合って、私は我に返った。思いがけず注視してしまっていたことに気が付き、尻の収まりが悪くなる。
「すみません。見慣れないカクテルだったもので……」
言い訳が口をついて出る。
「あー、お客様はいっつも同じもの頼まれますからね」
店員の言葉に、ここぞとばかりに頷いて、私はグラスを空にした。
「同じの、もう一つください」
「かしこまりました。本当にお好きなんですね、それ」
「いえ、ただ、冒険心に欠けているだけですよ」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ」
「なんだか意外ですね。お客様は、冒険するの好きそうに見えます」
私は首を傾げた。冒険が好きそうだとは初めて言われたのである。意外と無茶するよね、だの、見た目より大胆だね、だのとは何度も言われてきたが、冒険好き? そんな風に見えるとは。意外だという台詞は私のものである。
「冒険……というよりは、楽しいことが好きなんでは?」
ぽつりと、男が言った。
「え?」
「あぁ、ごめんなさい。なんか、そんな風に見えたんで」
「はぁ」
「いやまぁ、僕がそうだからっていうだけなんですが。あ、乾杯とかします?」
「では、はい」
それが礼儀であるかのように、我々は口々に「お疲れ様です」と言い合って、グラスの縁を合わせた。氷にひびが入った音によく似た小さな音は、鼻を通り過ぎていくミントよりずっと爽やかに香った。
男は柔和な笑みを浮かべている。まるで“うつくしきもの”を見るかのように、少し伏し目がちになっている。唇の隙間から、ちらと歯の先が覗いた。手の甲がふわりと持ち上がる。そして、無骨な喉仏が上下に蠢く。やはり、男性の喉仏の動きは実に艶めかしく美しい。
「あぁ、美味しいですね、これ」
「ありがとうございます」
「うん、確かに、ソルティライチみたいな……でも、あれよりずっと美味しいな。塩がいい塩梅で効いてますね」
「ちゃんと松穂の蒲の焼き塩を使ってるんですよ」
「え? 本当ですか?」
「いえ、冗談です」
「あっはっは、なんだ。そうですよね。驚きました」
彼らの会話を聞く私の目は、相当不可解だという色を湛えていたらしい。男がこちらを一瞥したかと思うと、「カクテルの名前の話ですよ」と言った。そう言われてもまったく分からん。思いつつ私は阿呆のように反復した。
「カクテルの、名前、ですか」
「はい。百人一首の九十七番は、こぬひとを、まつほのうらの、ゆふなぎに、やくやもしほの、みもこがれつつ、という歌です」
「はぁ」
「意味は、待ち人を待ち焦がれ過ぎて、松穂の浦の藻塩のように、この身が焦げていってしまうようですよ、みたいな感じでして」
「詳しいんですね」
「実は専門でして」
「へぇ、文学部とかですか」
「えぇまぁ、そんなようなものです」
「もしかして、院生ですか――」
☆
それきり、男と私は他愛のない話をたらたら垂れ流し続けた。その結果、男と私は同い年であること、男もまた大学院に通っており日本文学を専攻していること、教授陣の子供じみた喧嘩を煩わしく思っていること、静岡県静岡市出身であること、等々、他にも知ったことはたくさんあったはずなのだが、それがあまりに他愛無さ過ぎる話だった所為か、それともそれなりに酔いが回っていた所為か、翌日になった今となっては、まったく思い出せないのであった。その代わりに、私は布団の中で、決して絶えることのなかった男の笑みと、滑らかに上下する喉仏の色っぽさを思い出した。それから、彼が最後に話してくれた突飛な話を、脳裏にまざまざと蘇らせた。
昨晩、あの男は、もう何杯目になるか分からない『キュウナナゆうなぎ』を、少しずつ喉の奥に転がしながら、訥々と語ったのである。
「僕は生まれてこの方、静岡から出たことがなくて。……えぇ、退屈ですよね。わかります。平和であるのは良いんですけど、如何せん、平穏が過ぎる。人生にはそれなりの山やら谷やら、いや、本当は、丘とか窪地程度で充分なんですけど、少しくらいの刺激がないと、やってられませんよね。……まぁ、それというのもすべて、妖怪たちの所為なんですけど。……えぇ、妖怪です。あれ、ご存知ない? ……そうでしたか。では、折角です、お話ししましょう。
実はこの静岡県……静岡県でも特にこの、静岡市は、太古の昔から、妖怪たちの避難場所になっているんです。源何某に殺されかけて瀕死になったキメラとか、安倍何某にすっかり力を奪われて落ち込んだ鬼とか、戦に飽き飽きして隠遁ライフを楽しんでる天狗とか、そういうモノたちが、静岡平野に流れてくるんです。……えぇ、この場所は、その頃から、平穏でしたから。傷を癒すのに最適なんですよ。
さて、そうやって、千年以上かけて、リタイア妖怪たちがこの場所に少しずつ集まって、定住していった結果、彼らから発せられる妖気に、土地が順応して、一種結界のようなものを形成してしまったんですね。……そうなると、気候の変動が起きづらくなる。雪も降らないし、台風ですらなかなか、この地を踏むことができなくなります。で、気候が安定すると、余計に妖怪たちが集まるようになる。……それはほら、妖怪たちは大抵が、超超高齢者ですから。天候が厳しいと、体への負担が大きいのですよ。そこは人間と同じです。……面白いですよね。……それに、平和ボケしてる場所の人間は、鈍感ですし、たとえ気付かれたとしても、大した脅威にはなり得ませんから。
だから今でも、静岡市南部は、魑魅魍魎たちの穴場スポットとして、親しまれているんですよ。……今じゃあ、この地下街の裏側に、裏駅地下なんていう飲み屋街を作ったりして、勝手に楽しんでたりするんです。……あっはは。本当ですよ? 僕も時々行くんです。……人間のような妖怪も、妖怪のような人間も、ごっちゃになって一緒に暮らしてる。で、どっちもそれに気が付かない。あるいは、気が付いても知らんふりを決め込んでいたりする――僕のようにね。
……あはは、すみません。まぁ、酒の席の戯言と思って、聞き流していただけたら」
そう笑って、彼は席を立ったのである。
私は横ざまになって、カーテンの隙間から射し込んでくる昼間の光を見た。寝過ごした正午の室内は色味に乏しく、どこか浮世離れしている。まるで、つい先頃まで見ていた夢が滲み出てきているかのようだ。夢の世界はすべてモノクロであるらしいから、そう思えるのだろう。
私は腹の虫の鳴き声を聞いて、のそのそと起き上がった。電気を点けると、夢は霞の如く消え去った。
ふと、男の名前を聞き忘れたことを思い出した。
☆
翌週、私は再び、例のカクテルバーに赴いた。木曜日の夜はやはり心地好い。お誂え向きに今宵は満月だ。どうせ地下に入ってしまうのだから関係はないけれども。こういう夜には、不可思議な色のカクテルと、不思議な話がよく似合う。また、あの静岡妖怪大国論を展開した謎の男に会えるのではないか、と思っていたわけではない。会えたらいいなと期待した向きはあったが、人の出会いなど一期一会。とりたてて強くこいねがっているわけでもなかった。
私がバーに入ると、すでに先客が一人いた。その中年の男がカウンターのど真ん中に座っているものだから、なんとなくそれより奥の席へは行きづらくて、私は手前側の椅子に座った。その客と話していた店員が、私の方へ笑顔を向ける。
「あぁ、こんばんは。いつものですか?」
「はい。いつものをください」
「かしこまりました」
手早くカクテルが用意され、私はそれを受け取る。
「ちょうど今話してたんですけど」
と、店員。
「何をです?」
「ほら、先週いらした男性の、静岡は妖怪だらけだっていう話ですよ」
「あぁ」
「そいつぁ本当のことですぜお嬢さん」
中年の男がずいと顔を乗り出して、首を突っ込んできた。
「何を隠そう、この俺もまた、隠居してきた妖怪でねぇ」
「はぁ」
「元々ぁ中国の方にいたんだが、あっちぁ駄目だね。嫌気が差して、一念発起さ。なんつったか、なんだかって坊さんの船にこっそり忍び込んでよぉ、日の本へ渡ろうとしたんだが、そいつがどうにも不運な男で、何度も何度も遭難すんのさ。そのくせ死なねぇんだから悪運だけは強ぇんだよなー。でまぁ、そうなったら俺も後に引けなくなってよぉ。結局そいつは両の目ぇ見えなくなっても頑張ってだな、遂にこの日の本へ辿り着いたってわけだ。ってことは、俺もまた然り、だよな。あん時ぁなかなかに清々しかったね! そいつったら見えてねぇくせに、やけに感動しててよぉ!」
「はぁ……」
私は、もしかしてあの有名な坊さんのことだろうか、などと思いながら、気のない相槌を打った。カクテルを口に含むが、そのミントの爽やかさも、男の胡散臭さを消すことは出来ないのであった。とはいえ、こういう話を聞くのはそう嫌いではないのである。酔っ払いの面白さは私が素面であるからこそ際立つのだ。
「それっきり俺ぁ、どこだったかな、なんだかって言う山の奥に住んでたんだが、そこが戦の舞台になっちまって、焼け出されてね。その後も、あちこち転々としてたんだが、どうも都の近くは住みにくくって敵わねぇやな。ほいだから、いつだったっけ、あー、富士山が噴火したちょっと後だな。そん頃にここへ移ってきたって寸法さぁね」
「そうなんですか」
「先頃ぁ開発が進んで、いいねぇ。飲み場がたぁんとあってさぁ。どこへ行っても飲めるんだからよぉ。戦っちゅう戦もねぇしな。オロチとガマは、今でも懲りずにずぅっとやり合ってっけどよ。お嬢さんも知ってんだろ、あいつらの仲の悪さぁよ。全国規模で有名だに」
「どなたのことです?」
「ここのお偉い議員様方さ。あいつらぁ妖怪だぜ、気が付かなかったんかい?」
私は言葉を失った。
「オロチは元々、西の出身でさぁ。平安の時分にゃあ九州の山ん中でとぐろを巻いてたんだが、誰だったか、源だか藤原だか平だか、そんなような奴に退治られてなぁ。療養にってんで梅ヶ島の温泉に来て、それっきりここに入り浸っちまってんだよ」
「へぇ……」
「ガマはあれだ、東の方の出でな。最初は単なる図体のでかいだけのガマガエルだったんだけぇが、よし……よし、つな? よし、つね? とかなんとかいう男が死んだときに、偶然居合わせたらしくってよぉ。そこでそいつに、伊豆は良いぞ、駿河は良いぞ、って言われて、それでこっちに来たらしいな」
「ふぅん」
「ところが、ほれ、何て言ったって蛇と蛙だ。犬猿の仲よかもっとひでぇから、顔合わせた瞬間っから大喧嘩さぁ。どっちも長生きして、無駄に力を溜め込んだ連中だからなぁ、一旦火が点くとひっでぇのなんのって。江戸の時分に起きた安倍川の氾濫の、大概はそいつらの喧嘩が原因だってぇ話だぜ。近頃はそれでも、丸くなった方だ」
「へぇ、そうなんですね」
「そうともさ。そうでなけりゃ、大の大人があんなに堂々と、全国で報道されちまうような喧嘩、するわけねぇだろう! 他にもいろいろあるぜぇ、たとえばだな――」
それからも男の話は続き、途切れることを知らないのである。立て板に水とは正にこのような喋りのことを言うのであろう。男は、喋りの合間に注文をし、パッションピンクの液体を受け取るや否や、ぺろりと一気に飲み干して、また喋りだす、ということを十回ほど繰り返した。男の呂律はだんだん怪しくなり、元々曖昧だった人の名前や数字などはさらに不明瞭となって、「えー、あー、それでー……どうなったんだっけかなぁ、これ……まぁええか、忘れちまった!」と、遂に話の落ちまで忘れる始末となった。
私は頃合いを見計らって、席を立った。
「それじゃあ、私はこれで」
「おう、なんでぇお嬢さん、もうけぇっちまうのかい?」
「もう十一時になりますから」
「夜はまだまだ、これからじゃねぇかよぉ」
「おじさんも、ほどほどになさった方が良いですよ」
「へっへっへ、俺ぁこっからが本番さぁ。こっから、裏地下へ行って、もう一丁飲み直すんだい」
その言葉を私は聞き逃せなかった。
「裏地下……」
「おう、裏地下さぁ。そこのよぉ、」
と言いながら、男は人差し指で“そこ”の場所を示そうとしたらしいのだが、その指先は腕ごとふらふらと空中を彷徨うものだから、結局どこなのか、皆目見当が付かないのである。しかし、「若ぇ、お嬢さんくらいの衆がよく行くな、百貨店があんだろう?」という男の言葉に、私はどうにか察することができた。おそらくパルコのことだろう。私はほとんど利用しないが。
「そこの前の、壁の広告さぁ。真正面から、右……いや、左だったかな。どっちかへ、三つだか四つだか五つだか六つだか、それぐらい数えてよ、そこに一個だけ、ずぅっと昔っから変わってねぇ広告があんのさぁ。それが裏地下への入口よ」
「それって、誰でも入れるんですか」
「おぉ、おぉ、入れる入れる。なんだ、興味あんのかい? おっちゃんが案内してやろうか」
「またの機会に。それでは」
私は店員からお釣りを受け取って、店を出た。
☆
店内の冷房をきついとは感じなかったのだが、外に出て夏の湿った熱気に包まれた瞬間、あぁ温かいなと思ってしまい、私の体は冷えていたのだということを知った。私はこの、冷房の只中から夏へ出てきた一瞬がたいへん好きである。キンキンに冷やされた体が、夏の熱気に優しく、且つ容赦なく包まれて、こわばりが解けると同時に湿気にふやかされる。その不快と快感の境目を歩くのを、私はいつも楽しむのだ。それはちょうど、炬燵の中でアイスを食べるような、そういう非合理的な悦楽に似ている。
人生がすべて無駄なもので出来ているのならば、人生におけるすべては無駄ではないのだろう。
☆
その週の土曜日であるから、たったの二日後の夜である。研究室の飲み会があって、私はそれに参加したのであった。ろくな進捗を見せない研究に関して教授からちくりと刺されるも、私はへらへらと笑って安酒を呷った。
徐々にボルテージを上げていく後輩たちの姿は、やや見苦しくあるものの、酒場の喧騒にはしっくりとくる。むしろ私のような人間の方が、異質なものに思えた。飲んでも酔えぬ。酔っても笑えぬ。果たして私は人間なりや? 実は知らないだけで、私は妖怪だったのかもしれぬ。そうであるならどれほど良かっただろうか、などと埒もないことを考えながら、私は酔い潰れた後輩がキルケゴールの実存主義について滔々と語るのを少し離れた場所から眺めていた。
「キルケゴールにいわく! 人間とは精神である! 精神とは自己である! いいか、僕にレッテルを貼るなぁ! 死に至る病! 死に至る病っ! 人生とは絶望に満ちているけれども絶望を知らないという無知こそ本当の絶望であって、すなわち我々にはオールオアノット、全か無かしか残されていないのだぁっ!」
彼がいよいよとどまることを知らなくなった頃、宴はお開きと相成った。居酒屋の中は暑く、宴席はもっと熱かったため、外に出てもあの悦楽は得られなかった。私は少しだけ寂しくなって、空を見上げる。満たされてもなお光を求めた月が、それを溢れさせた挙句に零してしまい、僅かに欠けている。紛れもない真夏の夜である。
私は、二次会をカラオケに定めた後輩たちがキャッチに捕まるのを横目に見ながら、もっとも気心知れている一人に別れを告げて、その騒々しい集団から一歩脱け出した。三歩ほど行ったところで、私たちは完全に他人となる。
飲み直したい、という欲求に逆らえず、私は地下に潜る。今から飲み始めたら確実に終バスを逃すが、それでも良いと思えた。別段、苛立っているわけではないのだが、なんとなくやさぐれていることは認めよう。若い熱に当てられたというべきかもしれない。たった一年や二年しか違わないというのに、彼らが持っている熱を私は持っていない。私だってかつては持っていたのかもしれないし、彼らだってこれから失うのかもしれない。或いは、本当はまだ私にも熱があるのに、自分のこと故分からなくなっているのかもしれない。
キルケゴールにいわく、絶望とは自己を見失うことであり、自己を見失うということは、己の可能性を夢想し妄信した結果、己が神の前に立つ一人の人間であることを忘れるということである、と。
私は哲学など嫌いだ。
地下に下りた時、私は漫画の発売日が今日であることを思い出して、閉店間際の本屋に寄った。私の記憶違いか、求める商品は並んでいなかった。私はとんだ徒労に肩を落としながら書店を出て、パルコの前に差し掛かった。その時ふと一昨日のことを思い出し、私はとっくに閉まっているパルコの地下入口の前で立ち止まる。目の前の壁には、どことも知れぬ歯医者の広告が掲示されている。
静岡裏地下街への入り口は、ここから右か左へ、果たして幾つだったか――と、私は首を傾げた。ともあれ、何年間も変わっていないという話が本当であれば、見れば分かりそうなものである。いや、いっそ、一つずつ触りながら歩けば、いずれ当たるのではなかろうか。そう思って、まずは右手側に歩いていった。パルコの広告があり、おもちゃ屋の広告があり、内科の広告、健康食品の広告、老眼鏡の広告があって、そこで壁は消える。そこから先は、片一方は静岡駅に、もう一方は松坂屋の方面へ行く、二又に分かれた通路だ。私は元来た道を戻って、今度は左側に行ってみる。美術館、コンタクトレンズ、美容院、キックボクシング、呉服屋、新聞社、新興宗教、クッキングスクール。地上に上がる最後の階段の脇を通り過ぎて、壁に突き当たる。そこに神社の夏祭りの案内が掲示されていて、これで地下道は終わったというわけだ。
(こんなところに広告があったんだなぁ。一体、誰が見るというのだろう)
私は薄ぼんやりとした感動を覚えながら、その広告の中央付近に触れた。
それにしても、夏祭りか。聞くだけでわくわくしてくるような、良い響きである。近頃はとんとご無沙汰しているが、かつてはよく行ったものだ。意味も理由もなく、人混みに揉まれるのを楽しみに行くような、そんなものだったが。あれを楽しめなくなったのは、いつ頃からだろうか。祭り特需とでも呼べそうな局地的物価の上昇に舌を打ち、花火の美しさより人混みの鬱陶しさを重視するようになったのは。
ラムネを誰が一番上手に開けられるか競ったのも、もう遠い遠い昔の話である。私はいつも負けていたのを思い出す。
(……うん、帰ろう)
こんなことをしている内に、元々深くなかった酔いはすっかり醒めてしまった。ついでに、飲み直す気も冷めてしまった。帰って寝るのが最も幸せな選択であると思えて、私は踵を返す。向こうから酔っぱらった男性が二人、肩を組んで歌いながら歩いてきた。私は大きく脇に寄って彼らとすれ違った。何を歌っているのか分からない大きいだけの歌声は、地下道へいびつに響き渡り、やがて唐突にふつりと消える。
私は振り返った。
そこには誰もいない。神社の広告と私との間は、空虚な沈黙で満たされている。消えた、と確信した途端、私の中で冷めきっていたはずの欲求が再び熱を帯びた。私は覚えず唾を飲み込んで、上手く飲み込めずに咳き込み、口元を押さえながら反転した。足取りが速くなるのはひどく自然なことと思え、私はあえて逆らわずに走り出した。
激しい動悸がする。何故か眩暈もしてきた。頭の中でポップなテーマが鳴り響き、動悸・息切れ・眩暈によく効くという薬の名前を高らかに歌い始める。
☆
私はカクテルバー『斜陽』に駆け込んだ。客は一人もおらず、グラスを磨いていた店員はいつものように私を出迎えて、いつものカクテルを用意すると、私の話に耳を傾けてくれた。
「裏地下街の話、覚えてます?」
「えぇ、覚えてますけど」
「それ、あ、いや、別に、信じていたわけではないんですが、なんとなく暇だったんで、広告を触って歩いてみたんですよ」
「本当にお暇だったんですね」
「えぇまぁ。そうしたら、そっちの――パルコ前から北側に真っ直ぐ行った、突き当たりに、神社の広告があるの、知ってます?」
「ありましたっけ、そんなの?」
「私も今日初めて知ったんですが。そこまで行って、でも結局何も無くて――」
薄く結露したグラスを持ち上げる。飲み干す。強いミントが鼻を通り抜けて、次の言葉を押し出す。
「――そこから、戻ってくるときに、酔っ払いのサラリーマン二人とすれ違ったんですよ。そうしたら、その二人、私の後ろで不意に消えてしまって」
店員はきょとんと首を傾げ、苦笑した。
「えー、普通に、階段を上がっていっただけなんじゃないですか?」
「いや、そんな風じゃありませんでした。歌ってたのが、本当に突然、消えたんですよ。あれは消えたとしか思えません。本当に驚きました」
「酔っていて見間違えたのでは?」
「そこまで飲んでませんよ、私」
言いながらグラスを傾ける。三杯目を作ってもらう。いつもよりペースが早い気がしたが、そんなことには構っていられなかった。本当にあの二人組が消えたのだとしたら、あの場所が静岡裏地下街に繋がっていると見て間違いないはずである。
「もし本当に、裏地下が存在するのだとしたら……」
「したら?」
「……面白いと思いません? 最高に」
店員はくすくすと笑った。
「いつになく滅茶苦茶に楽しそうですね」
「そうですか?」
「えぇ。あると良いですね、その、裏地下街」
私は鼻で笑った。
「いやいや、あるわけないでしょう。自分から言っておいてなんですが」
「えー、どっちなんですか。不思議な話は、信じられない派ですか?」
「そういうわけではありませんけど」
「今までに、不思議な体験とかされたことないんです?」
「不思議な体験なんて――」
言いさして、私はふと思い出した。
「――そういえば、昔の話……まだ、物心つく前だったんで、母から聞いた話なんですけど……私には見えない友達がいたらしいんですよ」
「見えない友達?」
「はい。あきらちゃん、っていう名前の、誰にも見えない友達がいて、何処へ行くにも、“あきらちゃんと一緒に行く”“あきらちゃんと手を繋ぐから大丈夫”とか言って、母親よりあきらちゃんにべったりだったらしくって」
「へぇ。それはなんとも」
「物心ついた頃には言わなくなったらしいんですけどね。私自身、そんなこと覚えていませんし。――で、不思議なことに、私これまで、一度も“あきら”って名前の同級生がいたことないんですよ。女子にも男子にも」
「へー。でもあきらって、そう珍しい名前じゃないですよね」
「ですよね。女の子にはなかなかいないかもしれませんけど、男子だったら一学年に一人は、いそうなものなんですけどね」
「じゃあ、これから出会うのかもしれませんね」
浪漫に溢れる回答をしてくれた店員へ私は曖昧に頷いて、グラスを空にした。残念ながら、イマジナリーフレンドという言葉を知っている私に、もう夢は見られないのだ。あきらちゃんは、私が想像の上で作りだした架空の人物なのである。ホラーでもオカルトでもファンタジーでもない、この世はどこまでもナンセンスだ。
「良かったら、冒険してみます?」
「え?」
店員の問いかけはあまりに唐突で、私は呆けた声を出し、彼を見やった。彼は、たぶん――というのは、普段まともに店員の顔を見ていなかったからなのだが――いつもと同じような表情をしていた。橙色のランプの下。空っぽの笑顔。銀色のピアス。
「冒険」
店員は繰り返した。
「どうでしょう?」
「えーっと……」
「新作を今考案中でして」
「……あぁ、そういう」
ようやく話を理解した。思っているより酔っているのかもしれない。
「飲んでくださるならタダでお出ししますよ。まだ試作品段階なんで」
「あー、それじゃあ、いただきます」
「やった。ありがとうございます」
店員は小さく拳を握って、さっそくシェイカーを開いた。新しいアルコールのにおいが立ち込めて、シェイカーの小気味よい音が響き、夜がぐっと大人びる。
不意に、私も大人になったなと思った。いや、正確に言うと、衰えたな、と思ったのである。夜に独りで出歩くことも、独りで酒を飲むことも、つい数年前までは出来なかったことだ。出来るようになった、というよりは、抵抗力が弱くなった、という方がしっくりときた。抵抗力が衰えて、夜に恐怖を感じなくなって、出来るようになったことより出来なくなったことの方が多い。これが大人になるということなのだろうか。
そうだとしたら、それはなんて、切ない――
「お待たせしました。どうぞ」
ことり、と置かれたのは、鮮烈な透明だった。といって、向こうが透けて見えるというわけではない。ほとんど透明に近い、けれど確かな、一切濁りのない、白。液体と完全に同化している細かな氷が、光をキラキラと反射している。
何より私の目を惹きつけたのは、グラスの縁だった。波頭のように白く泡立っている。これは一体何なのだろう。
「ベースはウォッカで、度数はそんなに高くないです。で、スノー・スタイルにしてみました。やったことなかったんで、一度やってみたくて」
「スノー・スタイル?」
「グラスの縁です。それ、砂糖なんですよ」
「へぇ!」
自分の目が輝いたのが自分で分かった。雪というよりは波のようだが、しかし砂糖だとは。新しい技術を目の当たりにするとわくわくする。
「では、いただきます」
「はい、どうぞ」
私はそっとグラスを持ち上げた。麗しい砂糖の甘味。柑橘類が混ざったアルコールのにおい。するりと唇を割って流れ込んできたのは、色に相応しい爽やかな風味。柑橘はグレープフルーツだろうか、ライムだろうか。その奥に、何故か懐かしみを感じる味がする。炭酸が舌の上で軽く跳ねて、砂糖の名残と混ざり合い、一層味わい深くなる。
「うん、美味しいです」
「本当ですか? 良かった」
「私これ好きですね。また飲みたいです」
言っている傍からグラスを傾けてしまう。本当に、私好みの味だった。甘すぎず、辛すぎず、丁度良い清涼感と飲みごたえがある。
「名前は?」
「名前はまだないんです」
「吾輩は猫である?」
「あはは、それいいですね。提案しときます。名前の決定権はオーナーにあるんで」
「どういう基準でつけてるんですか? オーナーさんは」
「さぁ?」
店員はまるで他人事のように首を傾げた。
私はゆっくりとそれを飲み干す。
☆
私は相当に酔っていた。やはり飲み会で安い日本酒を煽られて呷ったのがいけなかったのだろう、と反省してみても後の祭り。まだ吐くほどには至っていないが、そろそろ止める頃合いである。何事も引き際の見定めは肝要だ。特に酒と男と博打に関しては。
「ごちそうさま」
「お気を付けて」
店員に見送られて店を出る。深夜の地下道はそこまで熱気に満ちていない。それでも、湿気た空気は冷えた体にべっとりと貼り付いて、しつこい女のように纏わりついてくる。まぁ、時にはこういう執拗さも悪くない。度が過ぎればムカつくだけだが。バスはもうとっくに終わったことだろう。タクシーで帰らなくてはならない。静鉄タクシーを捕まえたいものだ。なぜなら静岡特有の交通系ICカードにポイントが貯まるから。あれは案外馬鹿にするものではないのである。ポイントギフト券に何度救われたことか知れない。そういえばそろそろポイントの使用期限が迫っていたような気がする。最近金欠になることがなかったから、お世話になる必要がなかった所為だな。今月は飲み会だ調査会だ飲み会だと何やかんやあって、随分と金を使ってしまったから、丁度良い。今宵もタクシーによる臨時出費があるのだし。深夜のタクシー、ここから大谷まで、果たして幾ら取られるだろうか――
「――……ん、あれ」
私は立ち止まった。そろそろ駅前に上がる階段が見えてくるはずであったのに、一向に見えてこないからである。どうやら道を一本間違えたらしい、と気付いて、酔いの深さに情けなくなった。帰り道も分からなくなるほど飲んだつもりはなかったのだが、やはり飲み会で安い日本酒を煽られて呷ったのがいけなかったのだろう。さっきも同じことを反省した気がする、と思いながら、私は踵を返した。
やけに遠くに、赤い提灯の灯りが見える。はて、あんなところに、こんな時間までやっている飲み屋はあっただろうか、と私は考えた。繁盛しているようで、店内から漏れ聞こえる大きな笑い声が、地下道に反響している。格子の引き戸は開けっ放しになっていて、金色の光が湖面に反射する月のように、薄闇を楕円にくりぬいていた。私は光に溺れる蛾のように、ひらひら、ふらふらと、その店に近付いた。焼き鳥の香ばしい匂いが漂っている。
ちらりと中を覗くと、繁盛に相応しい熱気がもうもうと立ち込めていた。
「おっ」
背後で声が上がり、私は慌てて飛び退いた。振り返るとそこには、どっかで見たような中年の男が立っていたのである。
「こいつぁこいつぁ、どっかで見たようなお嬢さんじゃあねぇかい!」
「この間、バーでお会いした……」
「そーだそーだ! いやぁ、ようこそ、静岡裏地下へ! さぁさぁ、入んなせぇ入んなせぇ」
「え、あの」
男は私の背中を押して、私を店の中へと押し込んだ。途端に、怒号じみた大音声が耳に突き刺さってくる。クーラーがないのか、店内は昼間の屋外より暑いくらいで、あっと言う間に汗が噴き出てきた。
「おーう、おっちゃん、酒!」
「はいよぉ!」
「ふたぁつね!」
カウンター席は満員のようだったが、男は注文しながら目敏く隙間を見つけて、そこに私を捻じ込んだ。そうしてから隣の客を押しのけるようにして自分も座り、店員から酒を受け取る。
「ほれ、ここいらの名酒、『磯之愚痴』だ」
「いそのぐち?」
「裏にしか出回ってねぇ、希少なやつだぜぇ。これを飲まにゃあ、裏地下へ来たとは言えねぇな。ほい、かんぱーい!」
「はぁ……」
私は男の雑な音頭に合わせて、お猪口を小さく揺らした。その酒はどうやら日本酒のようであった。美しい江戸切子の、やや大きめなお猪口の中にありながら、その底が見えるほど透き通った酒。どこか氷じみた硬い輝きは、よく冷やされていることの証左である。冴え渡る香りに期待が高まる。
含んだ瞬間、纏わりついていた熱気が吹き飛ばされた。
「おわ……」
「うめぇだろう? うめぇだろう!」
「はい、すごく――すっきりしてて」
つい数時間前に飲んだ安酒とは段違いの美味さである。
「いくらでも入りそう……」
そう呟いた自分の言葉に、私はうすら寒いものを感じた。決して柔らかいわけではなく、むしろ鋭利な飲み口で、度数だって低くはないのに、この口当たりの良さ――いくらでも入ると言って、調子に乗ったら後が怖い。鋭すぎる刃が、斬った物に斬られたと感じさせないような、そういう怖さがある。
などと思ったのもつかの間。喉元過ぎれば何とやら。気付けばお猪口は空になっている。
「いいねぇ、いい飲みっぷりだなぁお嬢さん! おっちゃん、もうふたぁつ!」
「はいよぉ!」
酒場の喧騒の中で、静かに酔いを重ねていくのも悪くない。なんだか私はどうでもよくなって、理性の手綱を手放した。
思えば私の人生はなかなかに哀れである。高々二十数年でそんなことを語るのはおこがましいかもしれぬ。が、どうか今宵だけは許してほしいと私は神に赦しを請うた。たまには居酒屋のカウンターで、自己憐憫に溺れる夜があってもいいではないか。所詮愚かなる人間の行いだ、明日にはすっかり忘れてもう一度歩き始めるのだろうから、どうか今だけは、と祈った。無論、神など毛ほども信じておらぬが。仏ならかろうじて信じてあげてもよい。ところで、仏と神との違いは何であったか。いずれにせよ、人智を越えた存在であることは間違いなく、人間を救うために存在すると考えてよいだろう。本当に救ってくれるかどうかはさておき。いや、さておいては駄目だ。それこそ彼らの存在意義ではないのか? 何が楽しくて人間を救うのかは理解に苦しむところであるが、何も救わない神仏に何の価値があるのだろうか。それはもはやいないほうがマシと言えるのではないか。そんな存在に縋り付く人間の、なんと弱々しきことよ! 救ってくれない存在を信じて一喜一憂するより、私のように何も信じず盲目に生きた方が雄々しくはあるまいか、と考えるのは阿呆の所業であろうか。
「いっそ妖怪になってしまいたい」
「お、そいつぁいいねぇ。お勧めしやすぜお嬢さん」
「そうすれば、今よりずっと楽になる」
「そうそう、楽になる」
「人間に構う必要は無い」
「その通りだ。もっと言ったれ!」
「神に縋る必要もない」
「いいぞ!」
「自由気ままに生きられる」
「そう、自分勝手好き勝手が妖怪の本分だ」
「好き勝手に生きたい」
「生きられるぜ。妖怪になれば」
「妖怪になりたい」
「妖怪になって、好き勝手生きたい!」
「そう思ったら、なってしまえばいい!」
「誰に許可されずとも!」
「好き勝手に生きていいんだ!」
「好き勝手生きていいんだ!」
「いいんだ!」
「いいんだ!」
「さぁさぁもっと飲みな飲みな!」
頭の中がふわふわしている。もはや頭が揺れているのか地面が揺れているのか分からなくなってきた。アルコールなのか地震なのか判別付け難い。私はふわふわした頭でふわふわと考えた。本当に、妖怪になってしまいたい。人間同士のくだらないしがらみから解放されたい。何かしたいのに何もしたくない。ただ単純に、好きなことだけをして生きていたい。執拗な倦怠感や憂鬱から脱したい。息をしているだけで褒められたい。やる気が欲しい、或いは怠惰に過ごす許可が欲しい。
時折、生きているのがどうしようもなく嫌になることがある。本当の意味で生きているのは世界で私ただ一人だけなのではないかと思える時がある。すなわち、私以外のすべての人間は虚構であり、私の空想の産物なのではなかろうか、と。彼らは生きていないのではないか。彼らは感情など持っていないのではないか。ただ私が知らないだけで、私の常識に嵌め込み、彼らも私と同じように感情を持って生きていると思い込んでいるだけで、実はこの世などすべてフィクション、胡蝶の夢、仙人の竿先を這う芋虫の妄想なのではないか。私が死ねば、この世など最初から存在していなかったかのように、すべて消え去ってしまうのではないだろうか。そんな世の中で生きている意味などあるのであろうか。そんな世界に、苦しみながら生き続けるほどの価値は、あるのだろうか――。
唐突に、視界が大きく揺れた。遂に私も潰れたか、と一瞬本気でそう思って、すぐに違うと気が付く。揺れているのは私ではない、地面だ。
「おぉっと、こいつぁやべぇや! ガマとオロチが鉢合わせちまった!」
男の言葉に奥を見やれば、襖が外れて一段上の座敷が露わになっている。元々は二部屋であったらしいが、仕切りが倒れて一部屋になっていた。その大きな個室の中央で、二人の男が取っ組み合っている。テレビか新聞か何かで見たことのある顔だった。
「あー……えっと、確かあの人ら、知事と――」
店内は突如勃発した喧嘩の――県下の――怒号のぶつけ合いに埋め尽くされ、私の声など音になる隙間もない。客は悲鳴を上げるわりに、逃げようともせず、いい年をした大人二人の取っ組み合いへ野次を飛ばしている。
テレビだったら確実にモザイクが掛かるような罵詈雑言を投げつけ合いながら、蛇と蛙は座敷の中を転げ回った。北へ転げてはテーブルを壊し、南へ転げては障子を突き破った。それからガマの方がオロチを東へ投げ飛ばして、倒れたオロチが醤油さしをガマの顔面にぶち当てた。
「貴様……今日こそ決着を付けてくれる!」
「それはこっちの台詞だ! 明日の議会に出られなくなっても知らないぞ、ガマめ!」
「はっ、その方が都合が良いくせに! 俺がいたんでは、お前の好き勝手に出来ないからなぁ!」
「ふんっ、お前一人ごとき、いようがいまいが結果には関係ない! ただ、あとから吠えたてるのが得意な奴には、真っ先に現実を突きつけてやらんと思ってだな!」
「なんだとうっ! もういっぺん言ってみろ!」
「何度でも言ってやる!」
「こなくそっ!」
「なんのっ!」
そう言って二人睨み合って、「ふぬぬぬぬぬぬ」と憤怒の色で全身を燃やしたと思ったら、人の形がみるみるうちに崩れていく。それを見て遂に観客たちは逃げ出した。オロチはその巨体で店の奥を突き破って、奥の壁にいた何人か何十人かを尾っぽの下敷きにした。ガマはガマで、相撲取りを十倍二十倍にしたような巨体で、カウンターを破壊し壁にめり込みながら、店を完全に封じた。私の目の前にはガマの背中のぼつぼつがいっぱいに迫ってきた。もしやこのままでは私も潰されて死ぬのではないか、と、遅ればせながら思った。この危機感のなさが平和ボケの弊害であろう。この期に及んでふわふわとしていられるのだから、まったくもって危機管理のなっていない。
その時誰かに腕を引かれて、私は椅子から転がり落ちた。
「こっちです! 早く!」
手を引かれてようよう立ち上がった私が店から出るとほぼ同時、大きな揺れと共に炎が噴き上がって地下道の壁を焦がした。
「間一髪でしたね。大丈夫ですか?」
私の手を引きながら、どこか涼しげに微笑んだその顔に、私はやはり見覚えがあるのであった。今度はアルバムをめくる必要もない。彼は『斜陽』で出会い、静岡妖怪大国論を教えてくれた、あの大学院生であった。
「すみません。ありがとうございます」
「いえいえ、ご無事で何より」
そう言って彼はにこにこと歩いていく。手を引かれたままの私は付いていくほかないのだが、何故か悪い気はしないのであった。むしろ奇妙な安心感と、懐かしさを感じるほどであった。
「彼らは仲が悪いのに、どこかに似ているところがあるんでしょうね。『磯之愚痴』が好きな所為もあるんですけど、よく、行く店が被るんですよ。そのたびにああやって喧嘩になって、地下街の一角が壊れるんです。困ったもんですよね」
困ったと言いながら彼は随分と楽しそうにしているのであった。
背後の騒動はどんどん遠ざかっていって、やがて完全に聞こえなくなった。地下道は飲み屋通りとなって続いている。上は変わらず、無骨なコンクリートに覆われていて、下も変わらず、よく分からぬタイルで舗装されている。小さい四角と大きい四角が斜めに連なっていくデザインの道。紛れもない、静岡の地下街だ。そこに飲み屋がひしめき合っている。赤い提灯が見通す限り奥まで揺れていた。大きな笑い声が方々に飛び交っている。カウンターが道にせり出すように並んでいて、人々は肩をこすり合わせて座っていた。どこからが一軒で、どこまでが一軒か、一見しただけでは分からない。地下の飲み屋街は分かり易く繁盛していて、分かり易く最高潮に達していた。
「これが、裏地下街」
「ええ、その通りです」
「ここにいるのは、皆妖怪なんですか?」
「うーん、どうでしょう?」
と、彼は首を傾げた。
「もしかしたら、全員妖怪かもしれないし、反対に、全員妖怪じゃないかもしれないし、半々ぐらいで入り混じってるかも分かりません」
「そうなんですか?」
「ええ」彼は笑みを深めた。「オセロに例えたら分かり易いですかね」
唐突にオセロを持ち出されて、私は当惑した。しかし彼は構わず話を続けていく。
「この場所ってオセロ盤なんですよ。ここにいる人々――便宜上、“ヒト”の音でまとめてしまいますが、正確に言うと、人間たちと妖怪たち――はオセロのコマです。オセロって、白い面と黒い面があるでしょう」
「ありますね」
「仮に、白い面を人間、黒い面を妖怪とします。オセロって、挟まれたら簡単に白黒ひっくり返るじゃないですか」
「そうですね」
「なにがきっかけで、どんなタイミングで、白が黒になるか、黒が白になるか、コマには何も分からない。隣にいる人が黒なのか、白なのか、自分は黒なのか、白なのか、予想すらできない。だから、この場に居る人たちは、黒になったり白になったり、くるくると回転してるんです。――問題は、どっちが裏で、どっちが表か分からないってことです。オセロの表って、白か黒か、どっちなんでしょうね?」
その問いに私は目から鱗を落とした。考えたことも無かった。オセロの表はどちらか? まるで禅問答のようだ。
私は少しして、私なりの回答を口にした。
「勝った方が表なんじゃないですか」
「勝てば官軍、ってやつですか」
「そんなような感じで」
「じゃあ、勝負が決まるまでは、裏も表もなく楽しめるってことですね」彼はそう言うと、目を細めて笑う。「それはいい。実に良い」
私はふと、それじゃあプレイヤーは一体誰なんだろう、と考えて、うすら寒くなった。こういう感覚は嫌いだ。生命のおしまいと、その先を考えて、一人で勝手にぞっとする感覚。
覚えず手に力がこもって――その時私は唐突に、私史上最古の記憶を呼び覚ました。それは三歳の頃のことである。実家の近くの公園で、毎年行われている夏祭り。そこで、私は母親に叱られている。原因は、私が一人で勝手に家を出て、祭りへ行ったことだった。年齢と時間を考えれば、怒られて当然の所業である。時間は八時になろうとしていた頃で、真夏とはいえ辺りは真っ暗であった。よくもまぁそんな時分に一人で出歩けたものだ、と、今でも語り草にされている。私自身不思議でしかない。私に物心が付いたのは、たぶんこの事件の時だと思う。
コツ、コツ、コツ……と、飲み屋街の喧騒に紛れて、彼の革靴がタイルを打つ音が、屋根を叩く小雨のように、微かに聞こえてくることに気が付く。
うすら寒さはいつの間にか消えていた。
しばらく行くと、道に向かって開かれている店がだんだんと少なくなっていって、やがて何にもなくなった。薄暗い道の両側に、ぽつん、ぽつんと、赤い提灯がぶら下がっている。すれ違うと、風もないのにそれらは揺れて、まるで我々を手招いているかのようだった。
「あそこです」
彼が視線で示したのは、青緑色の灯りである。提灯ではなくランタンだったが、我々が近付くと、やはりそれはふらりと揺れた。『河童』という透かし彫りの文字が、ランタンの下にぶら下がっていて、一緒にふらりと蠢いた。彼が扉を押し開けると、扉の内側に付けられていたベルが、からんころん、と鳴る。
そっと中に入る。店内は縦に細長く、カウンター席だけが陳列していた。随分と馴染み深い店構えである。というか、これは――
「『斜陽』じゃないですか」
「そっくりですよね。僕も、初めて『斜陽』に行った時は驚きました」
「なんだいあんた、『斜陽』の方に行ったのかい?」
そう言ったのは、店の奥から出てきた妙齢の女性だった。火のついた煙草を片手に、カウンターの向こうに座る。
「はい。この間、偶然見つけたので」
「ふぅん」
そう言ったきり、女性は興味を失くしたように、煙草を灰皿に押し付けて、立ち上がった。
「飲んでいくならとっとと座りな。良いもん出してやるよ」
「はい」
にこやかに頷いた彼が、中央より少し奥の席に座る時に、ようやく私の手を離した。離してから、「あっ!」と、不意打ちに遭ったように叫んだ。それから、そろそろと私の方を窺って、初めて微笑以外の顔になったのである。迷子の子どものように、不安を顔中に貼り付けている。
「すみません、その……ずっと、掴んでいたとは。何故でしょう、その、気が付かなくて……申し訳ありません」
私はワンテンポ遅れて、それがずっと手を繋ぎっぱなしにしていたことに対する謝罪だと思い至った。私は首を横に振りつつ、彼の隣に腰掛けた。
「いえ。いいえ、大丈夫です。私だって気が付かずに、そのままにしていたんですから」
「そうですか。それなら、良かった」
彼は素直に立ち直って、元通り笑った。
「裏地下は、どうでしたか?」
「あぁ、ええと……楽しかったです。美味しいお酒もいただきましたし」
「『磯之愚痴』ですか?」
「はい、それです」
「あれは確かに美味しいですよね。表で飲めないのが、少し残念です」
「美味しすぎて、少々飲み過ぎてしまいました」
「おや、大丈夫ですか」
「大丈夫です。明日は一日、何も無いので」
「なるほど。そういう“大丈夫”ですか」
その時、ごとん、と瓶が二本、カウンターの上に置かれた。真ん中が不自然に捩じれ、蓋の代わりにビー玉が嵌まっている、特徴的な瓶。
「ラムネ?」
「ラムネですね」
「あんたらみたいなガキには丁度いいだろ」
店の女性は腕を組み、ふんぞり返ってそう言った。
「懐かしい! ラムネなんて久しく飲んでなかったからなぁ」
「私も、最後に飲んだのいつだろう。祭りに行けば必ず飲んでたんですけど……最近は祭りにも行かないし」
「行かなくなりますよねー特別な理由でもないと。昔は意味もなく行ってたのに」
「近頃は人混みに入っていくのが嫌で」
「わかります、それ。疲れますもんね」
そう言いながら、彼は慣れた手つきでラムネを開けた。ぽん、と小気味の良い音が鳴って、炭酸が噴き出そうとする。彼はそれが鎮まるまで、手のひらで押えつける。
「僕、これ開けるの得意なんですよ」
「へぇ、いいですね。私は苦手で。いっつも零すんです」
「じゃあ、代わりに開けましょうか?」
「お願いします」
もう一度、ぽん、と、ビー玉が炭酸の海に落ちる。真っ白い泡が音を立てて一斉に膨らむ。私はいつも、それが治まるまで待てなくて、途中で手を離してしまっていた。零れるのも当然のことである。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。すみません、お手数おかけして」
「いえいえ、どういたしまして」
私は実に数年ぶりとなるラムネに口をつけた。ただ甘いだけで、余計な味は一切入っていない、シンプルな炭酸飲料。口の中で弾けた泡が、そのまま白波の如き勢いで胸の奥に滑り落ちていく。液体とはアルコールが入っていないだけでこんなにもすっきりと飲めるものなのか。子どもの頃によく遊んだ小川の清流のような冷たさのラムネは、私の心の裏側をざぁっと通り抜けて流れ落ちていった。その際に、私の中でわだかまっていた黒々としたものどもが、ついでとばかりに掻っ攫われていった。
「――あぁ、美味しい」
途端に私は何だか愉快になってきて、遂に声を上げて笑っていた。何故ここでこれほど爆笑したのか、その瞬間に冷静になって考えてみても分からなかったに違いない。ここでようやく酔いが回ったのだ、と解釈することも出来よう。しかしあえて私は違う結論を見出す。すなわち私はこの時、忘れていたものを思い出したのだ、と。
「良かった、楽しそうで」
と、彼は私の方を真っ直ぐに見て言ったのだった。
「笑ったところ、初めて見ました」
「え、そんなに私、仏頂面してました?」
「まぁ、正直に言っていいなら、してました」
「マジですか。……まぁ、でも、そうだったんでしょうね」
「何か、嫌なことでもあったんですか」
「いいえ、別に。ただ、あえて笑うようなこともなかったってだけです」
「なるほど」
頷いた彼はやはり意味もなく笑っているのである。本当は意味があって笑っているのかもしれないが。
「でも、常に仏頂面というのは、よろしくないですね」
と、私が言うと、
「楽しいことがないんだったら、仕方ないのでは?」
彼は平然とそんなことを言ったのだった。そうして、ラムネの瓶を持ち上げた。喉仏がゆっくりと滑らかに上下するのを、私は見つめる。こういう、どうやって動いているのか分からないものは、いつまでも見ていられる。猫の尻尾とか、毛虫の足とか、プロゲーマーの指とか。
なんだ、これでいいんじゃないか。と私は天啓を得たかのように思った。もう充分、私は好き勝手に生きているじゃないか。自分だけの好きなものがあって、自分だけが愛するものがあって、それらを好きな時に好きなだけ眺めて生きているじゃないか、と。
私はすでに、半分妖怪だったのだ。
「生きてるだけで楽しい、って思えたら、最高じゃないですか」
そう言うと、彼は眼を瞬かせて、真面目な顔になるのであった。
「それは、僕も思います。それが最高です」
何度も深く頷いて、それから彼はそっぽを向き、呟いた。
「僕も、七十七番の心持ちでいかないと」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
そう言って笑った彼はもうそれ以上何かを話す気はないように見えたので、私は聞くのを控えた。口を閉じると、長らく忘れていた尿意が思い出されて、私は立ち上がった。
「ちょっと失礼」
お手洗いの位置も『斜陽』と同じであった。それどころか、内装まで完全に一緒である。私は安心して用を足して、手洗い場を出た。
☆
扉を開けるとそこは『斜陽』だった。
カウンターの中にいたはずの女性は、いつもの男性の店員に変わっていて、カウンターの上には空になったグラスが一つだけ置かれている。
「大丈夫ですか?」
立ち尽くしていた私に、店員が声をかけた。私は、我ながら実に呆けた声で、虚ろな返事をして、座っていたところに戻った。頭の中がふわふわと揺れている。揺れているのはアルコールの所為か、それとも地震か?
「あの」
「はい?」
「私ってずっとここにいました?」
私のその奇妙な問いかけに、しかし店員はにっこりと笑って、
「さぁ、どうでしょう」
と、白黒つかない答えを返してきたのだった。
☆
「そろそろラストオーダーですけど、最後に飲みたいものってありますか?」
「……ラムネって置いてあります?」
「ありますよ。自分で開けますか?」
「いえ、開けてもらえますか? 私それ下手なんです」
「えー、そうなんですか。楽しいのに。はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「グラスは要りますか?」
「いいえ、要りません」
「かしこまりました。――そういえば、さっき飲んでいただいた試作品、名前、決まりましたよ」
「へぇ、何になったんです?」
「ちょっと言いにくいんですけど……『ナナナナたきがわ』です」
「『ナナナナたきがわ』」
「はい。実は、この新メニューに使いたくって、最近ラムネを置くようになったんです」
「へぇ、そうだったんですね」
☆
私はラムネを飲みながら、スマホを取り出して、『百人一首 七十七番』と検索した。
――瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ――
「……なるほど」
「何か楽しいことでもあったんですか?」
店員の問いかけに、私は顔を上げて、にっこりと笑ってみせた。
「ええまぁ、別に何も」
「そうでしたか」
「では、そろそろ失礼します」
私はお金を支払って、席を立った。
「ごちそうさま」
「お気を付けて」
店員に見送られて店を出る。
夏の熱気が、私を隙間なく包み込んだ。
☆
バベルの塔は完成を見る前に神々によって打ち砕かれる運命にある。私の憂鬱の塔も同じことであった。完成しないからこそ、バベルの塔と呼べるのかもしれない。そして打ち砕かれた先に、新たな世界が広がる。それは互いの言葉が通じない恐ろしい世界であり、多彩な言葉に色付く美しい世界でもあろう。私の憂鬱の塔が打ち砕かれた先には、どんな世界が広がっているのだろうか。もう一度塔の再建を目指すつまらない世界だろうか、はたまた、更地の上でドッチボールに興じる昼休みのような世界だろうか。なんにせよ、私は生きる活力の補給に成功し、これまでとあまり変わらぬ毎日を過ごしていくことだろう。そこに楽しみを見出せるかどうかは、私次第である。
とりあえず、ラムネを片手に百人一首を読むことから始めてみたいと思う。そして次に彼と会えたら、今度こそ、名前を聞くのだ。――と言いつつ、やっぱり聞かずに終わってしまうだろうな、という予感がどこかにあった。世界は白でもあり黒でもある。オセロは楽しいからやるのだ。もしかしたらそうかもしれない、という希望的観測を持っている時が、実は一番楽しい。
何の気なしにテレビをつけたら、丁度ローカルニュースをやっていた。私はそれを見て笑う。
「まぁた喧嘩してんだ、あの二人」
ちらりと、それぞれの口から炎が漏れ出たのを私は見逃さなかった。が、やはり平和ボケしている静岡市民の性だろう。私はそれを見なかったことにして、ラムネを呷る。
おしまい
★余談……【勝手にカクテル言葉】
・キュウナナゆうなぎ……百人一首九十七番『来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ』……オレンジから濃紺へのグラデーション、味はソルティライチ的な感じ……【あなたを待ち焦がれていました】
・K……夏目漱石『こころ』……ウォッカがベースの少し甘いカクテル、ほのかな蜂蜜の香りが癖になる、透き通った琥珀色……【罪は蜜の味】……一番人気
・ギャラクシヰ・レヱル・ナヰト……宮沢賢治『銀河鉄道の夜』……ミルクとコーヒーリキュールにふわふわした謎の泡、銀色の光が散らばる、十字架型のクッキーを添えて……【せめてさよならを言わせて】
・夜明け前……島崎藤村『夜明け前』……ミントの香りが爽やかだが度数は強く好みが分かれる味、青のような緑が金色に光る……【変革は緩やかに】
・檸檬EX……梶井基次郎『檸檬』……口の中で檸檬の酸味が大爆発を起こし過ぎ去っていく、透き通った黄色……【夢想の翼を解き放て】
・雪辱……中原中也『汚れつちまつた悲しみに』……濃い青色と白色が2層に分離している、すっきり柔らかな口当たり……【涙すら出ない】
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・ナナナナたきがわ……百人一首七十七番『瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はんとぞ思ふ』……透き通った白、砂糖を用いたスノー・スタイル、ラムネが隠し味のどこか懐かしいすっきりした甘さ……【今度は私が会いに行きます】
★あとがき――この話はフィクションです。実在の人名・地名・団体その他の一切とは、まったく関係ありません。――と、念押ししておきたいと思います。カクテルに関しても適当です。お読みくださってありがとうございました。