アラクネ
何が起こったのか。
それは今まで見てきたモンスターの中で、一番悍ましい姿をしていた。
巨大な蜘蛛の脚は鋭利に長く、その八本の脚の中心に半裸の女怪の姿がある。濡れた髪は長く、瞳は空洞のように黒く落ち窪んでいる。弓形に曲がった真っ赤な唇が、獲物を見つけた悦びに溢れていた。
全身が戦慄した。
赤目ゴブリンもアリシュタも比較にならない。明らかな格上の相手。
モンスターから発せられる禍々しい空気は、息をするだけでも喉が焼けつきそうなほどに濃厚だった。
突如現れた大型モンスターアラクネは、そのまま鎌のような足をセレヌンティウスに向かって振り抜いた。
「下がれ!」
その攻撃をノアの大剣が受け止めた。
ドガアアァァア!
ノアの身体が吹き飛び、そのまま背後の大木に激しくぶつかった。ノアは防御の姿勢で攻撃を受けていた。それなのに、軽々と吹き飛ばされ、そのHPの五分の四余りが削られていた。
あまりの事に、一瞬頭の中ぎ真っ白になった。
「アオ!」
シャモアに叱責され、我に帰った私は間髪入れずに叫んだ。
「脱兎!」
こんなの勝てるわけがない。
ノアでさえ一撃死しそうな相手なのだ。逃げの一手だ!
【レジストされました。逃走不可のバトルです】
「え?」
初めて聞くメッセージに、全身の毛が逆立った。もう一度脱兎を発動する。
【レジストされました。逃走不可のバトルです】
アラクネの攻撃は続いている。みんなそれを間一髪で避けながら、私の脱兎が成功するのを待っている。
「アオ、まだか!」
私は半狂乱になって脱兎を連発した。
【レジストされました。逃走不可のバトルです】
【レジストされました。逃走不可のバトルです】
【レジストされました。逃走不可のバトルです】
【レジストされました。逃走不可のバトルです】
目の前が絶望で真っ暗になった。
「このバトルは逃走出来ない!」
「何?!」
その台詞はみんなへの死刑宣告に等しい。
どうすればいい? どうすれば。
戦って勝てる相手ではない。
ノアはともかく、私達三人は一撃でもくらえば、即死んでしまうだろう。そんなんじゃ、攻撃なんて出来ない。
初見の相手。行動パターンも分からない。
「戦うしかない!」
「無理」
「無理でもやるしかないでござるよ!」
アラクネがお尻を上げると、糸を吐き出した。しなりながら飛んでくる糸の束をすんでのところで避ける。
「ぐっ」
背後からシャモアの呻き声がした。
私の避けた糸が背後にいたシャモアの脇腹を抉っていた。
糸とは思えない、槍のような鋭さで。
「一列になるな! 散開して視野を確保しろ!」
ポーションとともに、ノアの指示が飛ぶ。
「糸、一撃死ないこと、分かった」
一撃死がないと言っても、シャモアのHPは二桁まで削られていた。常にHPはフルにしておかなければ駄目だ。
「無理に攻撃するな。攻撃パターンが分かるまで、兎に角観察しながら耐えろ!」
シャモアが投げたスクロールが、アラクネの腹部で小さく爆ぜた。
次の瞬間、アラクネがシャモアに向かって突進した。シャモアは鋼鎖を枝に絡め付け、ギリギリで樹上に飛び移った。アラクネの脚がシャモアのローブを切り裂いた。
「シャモア!」
「無事。服だけ」
「攻撃するな! ターゲットにされるぞ!」
動きが速い。地上動物の速度ではない。これは昆虫の速さだ。瞬く暇もない。
毒玉を投げたいが、下手に行動すればターゲットを固定されてしまう。というか、そんな余裕も見つからなかった。文字通り八方に繰り出される脚での攻撃を避けるだけで精一杯だ。
集中力が切れたら終わりだ。
早く攻撃パターンとモーションを把握しなくては。
目を閉じるな。集中しろ。どこかにある活路を見つけろ!
私は恐怖を押し込め、自分を鼓舞しながら、アラクネの一挙手一投足に神経を集めた。
攻撃は、見える。烏兎匆々の特訓の成果が出ている。
問題は攻撃力だ。おそらく今の私たちでは一ダメージしか与えられないだろう。
つまり倒す事は不可能。逃走も出来ない。
考えろ。考えろ。何か生き残る方法はないのか。
時間切れはどうだ。
これはアンゲスリュートの夜限定のモンスターだ。ならば夜が明ければ消える可能性がある。
でも夜は始まったばかりだ。あと一日こんなバトルを続けられるのか。
ほんの数分逃げ回っただけで、こんなにも体力を奪われているのに。
「あ」
その時、地面から顔を出した木の根に足を取られた。
「しまった!」
崩れた体勢を立て直した時には、目の前にアラクネの脚が迫っていた。避けれない。駄目だ。死ぬ!
「縦一文字!」
ノアの斬撃がアラクネの脚に叩き込まれた。私に向かっていた脚は、そのままノアへと方向を変えた。
ドガアアァァア!
大剣で攻撃を受けたノアが、また後方へと飛ばされた。
アラクネが木の根元に倒れているノア目掛けて突進していく。私は慌てて毒玉を投げた。シャモアもスクロールを使う。ノアに向かったヘイトを奪うために。
だがアラクネは私たちの攻撃を無視して、ノアに突っ込んでいく。ノアのスキル攻撃でとったヘイトは大きすぎた。私たちの攻撃くらいじゃ奪えない。
「ノア、避けて!」
ノアは立ち上がり、そのまま樹上に逃げようと蔦に手を伸ばした。
間に合って!
祈るような思いで煙玉を投げた時
「モス、だよな?」
場違いに気の抜けた声が聞こえた。
声の主は、ノアのすぐそばに立っていた。
いつの間にか、アラクネが数メートル押し戻されている。
「……シュウ殿」
あの時のプレイヤー、シュウが立っていた。
シュウは気まずそうに、のんびりと頭をかいた。
「加勢は必要か?」




