92
目の前に殿下がいる……?
ぼんやりとする意識の中で、ただ殿下の顔だけが徐々に鮮明になってくる。
今の私にとって、何故殿下が目の前にいるのか。そして、ここはどこなのか。冷静になれば、そんな疑問が湧くのだろうが、その時の私にとっては、そんな事は些細な事であった。
これが夢でも良い。
また変な時空を彷徨っているだけであってもいい。
ただ、殿下に会えた嬉しさだけが私の胸をいっぱいにしているのだ。
さっきまでの不安や心細さが嘘のように、小さくなっていくようだ。
今は目の前の殿下が本物でなくて、私の夢であったとしても、それでも殿下への想いだけが溢れ出てくる。
「ラシェル、良かった。目が覚めたんだね……」
目の前の殿下は、私の顔を見つめると嬉しそうに目を細め、安堵の息を吐いた。そして、椅子から腰を上げて身を乗り出すと、私が寝ているベッドの端に腰を降ろし、優しく私を抱き締めた。
――殿下に抱き締められて……いる? 私は、もしかして……本当に殿下の所に帰ってきた?
「本当に殿下? それとも夢?」
自然と口から零れ落ちた言葉に、殿下は私を抱く腕の力を強めた。すると、殿下に抱き込まれた私の耳に、殿下の胸の音がトクントクン、と聞こえてきた。
その鼓動、そして殿下から感じる温もりは、まさに生きている証のように感じる。
私が今生きていて、殿下と想い合う事が出来た奇跡が紛れも無い現実だと感じる事が出来て、ようやく長い夢から覚めたような不思議な感覚があった。
だが、今ここにいる殿下が本物だとして、さっきまで私がいた森は何だったのだろうか。
あのブスケ領とミリシエ領を繋ぐ神秘の森。あの場所で見た全てが夢?
……まさか、そんな筈は無い。
だって、全てを思い出すことが出来るのだから。
頬を掠める風、クロの柔らかい毛、そしてあの衝撃的な光景……。
そう。あの森を離れた今も、あの光景が目に焼き付いて離れないのだ。
自分が殺された姿を見たあの事実。
そして、その後現れたテオドール様の姿を。
それでも、今は何も考えずに、ただ殿下の胸の中にいたい。
この甘い愛しさを離したくない。
そんな殿下への想い、そして安堵から目元が熱くなり、鮮明になった視界が涙で歪むのを感じる。
「もうここに帰ってこられないかと……」
「あぁ……私の力が及ばなかったせいで、ラシェルには怖い思いをさせてしまった」
「……殿下のお力……ですか?」
「私がもっとシャントルイユ修道院の内情を把握しておくことが出来ていたら、カトリーナ・ヒギンズが脱走し、ラシェルに辿り着くことも無かっただろう」
「…っ」
殿下は私の肩に手を置くと、顔をそっと覗き込むように私の瞳に視線を合わせた。まじまじと見る殿下の顔は、少し疲れが滲んでおり、目の下に薄っすらと隈が出来ている。
また私のせいで無理をさせてしまったのかもしれないと思うと、殿下の体調が心配になると同時に申し訳なさも感じる。
殿下の隈をそっと撫でるように手を伸ばすと、私の手は殿下によってギュッと握り込まれる。
そうして合わさった視線から、殿下がいかに私を心配していたかが伝わり、胸が締め付けられる想いがする。
「ただ、今はラシェルが無事目を開けてくれて、ほっとしている」
「殿下……」
「体調はどう? 意識を無くす前に頭を抱えて痛がっていたと聞くが、まだ痛みはある?」
「いえ……。今はもう大丈夫です」
「そう、良かった。もうじき王宮医師が診察に来る時間ではあるから、もしまた具合が悪くなったら、すぐに教えてほしい」
殿下は、私の返答にほっとしたように胸を撫で下ろし、目を細めた。それでも未だ体調が気がかりなのか、私の額に殿下の額をコツンと当てながら「あぁ、熱は無さそうだ」と呟いた。
「あ、あの……殿下! ち、近いです」
「あぁ、すまない。つい、心配で」
「手で、手で確認をしてください」
「……そうか、手か。思い浮かばなかった」
急に殿下の顔が間近に迫ったことで、一気に頬に熱が集まり驚きで声を上げる。真っ赤になりながら抗議する私に対し、殿下は私の額から顔を離しながら嬉しそうに息を漏らした。
これでは、元々なかった熱が殿下によって上がりそうだ。
そう思いながら、自分の熱を確認するように頬へと手を当てると、案の定僅かに熱が篭っているのを感じる。
恥ずかしさから元から吊り上がった目が、更に吊り上がっていそうだと思いながらも殿下を見ると、殿下の顔も先程より赤みが増しており、目元が若干赤く見える。
その表情を見ていたら、もう一言付け加えようとしていた抗議の言葉を失ってしまった。
――そんなに、はにかんだ嬉しそうな顔を向けられたら……何も言えないわ。
とてもそのまま直視するには、自分の心臓が持たないと思い、視線をサッと外す。すると、殿下もそのまま暫く口を噤んだことで、沈黙が生まれる。
だが、その沈黙は気まずいものでは決してなく、柔らかい陽だまりのような温かい空気を含んだものであった。
そうして、静けさが生まれた室内で、私はようやく少し頭が働くようになってきた。
元々最初に考えるであろう疑問。すなわち、殿下が何故私の目の前にいるのか、ということだ。
先程殿下はカトリーナ様の名を口にした。そう、確か……私は、カトリーナ様が捕縛された後に意識を失った筈だ。
そして、いつの間にかあの森に居て……今、殿下の目の前にいる。
……ここはどこなのだろうか?
視線を動かして、今寝ているベッドの周囲を見渡す。すると、どういうことなのか。私にとって見慣れたもので溢れたこの部屋は、王都のマルセル侯爵邸の自室であることが分かる。
キョロキョロと驚いた顔で見ていたからだろうか。殿下が私の様子に気付いて、「あぁ、説明がまだだったね」と納得するように頷く。
「ラシェルがカトリーナ・ヒギンズに狙われて意識を失ったと報告を受ける頃、テオドールをブスケ領に向かわせたんだ」
「テオドール様を!」
テオドール様……。
その名前にドキッとするが、今は殿下の話を聞くのが先だと、何とか心を落ち着かせて殿下の言葉の続きを待つ。
「それで、テオドールは自分の術を使って私に状況を知らせた後に、ラシェルだけを先にここに連れてきたんだ。ラシェルの状態を見て、王都の医師に診せた方がいいだろうという判断からだ。
王宮医師からは、強いショックで一時的に気を失っているだけだろうという見立てであった。暫くしたら目を覚ますと言われていたが、なかなか起きなくて……今日ようやく目を覚ましてくれた、という訳だ」
「……そうでしたか。ありがとうございます。あれから何日経っているのですか?」
「あぁ、四日だ」
「四日も!」
まさかそんなにも自分が寝ていたとは信じられない。
私の感覚としては、あの森にいたのもほんの数時間という感覚なのだ。
それに、殿下の言葉によると、私は意識を失った後にここに戻ってきて、それからずっとここにいたということだ。
つまり、あの森にいた事が夢……ということになる?
納得できないことは多いが、今はまだ冷静になれていない。
だからこそ、その辺りを見つめ直すにはまだ時間が足りない。
殿下は私の髪を優しく撫でながら、「戸惑うのは無理もない」と眉を下げながら告げた。
「……あの、カトリーナ様は……あの後どうなったのでしょうか」
「カトリーナ・ヒギンズはヒギンズ夫人の実家である伯爵家の手助けで、あの修道院を脱走したそうだ。カトリーナ・ヒギンズに襲われたことで、脱走するきっかけとなったと言われていたシャントルイユ修道院の新人シスターは、実は協力者であったことも判明している」
「そうですか……ヒギンズ前侯爵夫人の」
「今はヒギンズ夫人と繋がっていた者たちを捕らえて、全ての悪事を明らかにしている最中だ。そして、シャントルイユの管理についても改めて検討していくつもりだ」
カトリーナ様のことを問うと、途端に殿下の雰囲気がピリッとした冷たいものを纏い始める。眼差しは厳しいものになり、眉を顰めている。
「あの、カトリーナ様の様子は……どうなのですか?」
「あぁ。彼女は未だ辻褄の合わない言動が多い。だが、母親と連絡を取ることが無くなれば、今の洗脳状態も抜けて、会話も成立してくる可能性はある」
洗脳……。
そうか、殿下の妃になることを夢見ていたのはカトリーナ様だけではない。いつしか、ヒギンズ夫人の夢にもなっていたのだ。
きっと夢見がちな二人は、そんな似通った性質を悪い方へと向かわせてしまった。そして、私……もしかすると、マルセル侯爵家自体の失脚を狙う輩に目を付けられた可能性がある。
もしかすると、カトリーナ様の脱走の裏にはヒギンズ夫人やその実家以外にも、他に繋がっている家があるかもしれない。
でも、実際に裁かれるのは表面に出てくる者だけ。
今回の事も、失敗は分かっていてカトリーナ様に私を襲わせた可能性さえある。それだけお粗末な犯行だったからだ。
「ただ一つ、私の気持ちとしては、ラシェルがカトリーナ・ヒギンズを許そうとも、私は許すつもりは無い」
「殿下……」
「温情を与えるつもりが無いことだけは理解してほしい」
「えぇ。えぇ……そうですね。温情を与えれば、王家が甘くみられますものね……」
私の言葉に、殿下は力なく首を振ると私の左手を取り、殿下の両手で包み込んだ。
「違う。違うよ、ラシェル」
「え?」
「王家としての意向とも反してはいないけど、違うんだ。君を愛する男として、君に危害を与える人間を許すことなど出来る筈も無い」
「殿下……」
殿下の言葉にハッと顔を上げて殿下の顔を見ると、殿下は切なげに眉を下げながら微笑んでいた。
……そうだ。
一番大切な殿下の想いを、今私は見ることが出来ていなかった。
きっと殿下は今回の件で、寝る暇も無い程に尽力してくれているのだろう。
その上で、時間を見つけて私の見舞いに来てくれている。
きっと見舞いに来てくれているのも今日だけではない筈だ。ただでさえ多忙な殿下が、なぜそうまでして私の為に動いてくれているのか。
その気持ちにまず目を向けるべきであったのだ。
殿下はいつだって私を尊重し、その想いを告げてくれる。
それが私にとって、どんなに大きくて大切なものであるのか。
「幻滅したか? 器の小さい男だと」
「……いえ、幻滅など……」
「君に近づく奴には嫉妬でどうにかなりそうだし、君の笑顔を、幸せを奪う奴は近づけたくもない。そんな狭量な人間だと、最近つくづく実感する」
殿下は穏やかに微笑みながらも、その眼差しに憂いの色を浮かべている。
だからこそ、私は殿下のその瞳を力強く見つめた。
いつだって強くあり続ける彼が、こんなにも自分の胸の内を打ち明けてくれているのだ。
自分の好きな人が、いつも隠している弱さを自分にだけ見せてくれる。そんな一面が嬉しくない筈が無いし、その姿がより愛おしさを感じさせる。
だからこそ、私の想いを殿下にも分かってもらいたい。その気持ちから、殿下と繋がった手をギュッと握る。
「いえ、殿下。そのようなこと、思う筈もありません。貴方は、いつだって私を想ってくださっていますし、私だって同じように殿下を想っております」
「……ラシェル」
殿下は一瞬ポカン、とした表情をした後に、徐々に言葉を噛み締めるように顔を綻ばせた。その表情に、私まで嬉しくなり自然と表情が緩んでしまう。
「あの、殿下。遅くなりましたが……」
殿下の瞳をジッと見ながら、そう告げると、殿下は優しく「あぁ」と返事をしてくれる。
だから、私はにっこりと笑みを浮かべながら口を開く。
「ただいま戻りました」
「あぁ、おかえり。おかえり、ラシェル」
私の言葉に殿下は目を僅かに見張り息を飲んだ後、更に目元を優しくさせながら私をもう一度固く抱き締めた。
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