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「それで、サリム地区はどうだったのですか?」
「あぁ、酷いものだったよ。鼻が曲がるかと思うほどの臭い、どんよりとした空気、地面を這いつくばるガリガリに痩せこけた者たち。
物乞いなんていないんだ。恵む人なんていないからね。俺は、ただただ身を隠して、じっとしてることしか出来なかった」
殿下の一人称が「私」から「俺」に変わっていることにも気づかず、私は殿下を真っ直ぐ見据えた。
耳を塞ぎたくなる話に心が悲鳴をあげるが、これは聞かねばいけない話だ、と思ったのだ。
「一人の子供が近くに来て、俺のことを何も言わずじっと見ていた。5歳ぐらいに見えたけど、実際はもっと上かもしれない。痩せ細っていたからな。
たまたま持っていたリンゴを渡すと受け取って走って逃げた。でも、俺が出来たことなんてそんなことだけだ。
そんなものたった一時の腹を少し満たしただけのこと。しかも一人だけのだ。あそこには、そんなことじゃない、もっと必要なことが沢山、沢山あるんだ。
だけど、俺はその時あまりに無力だったんだ」
ただただ淡々と静かに話す殿下の言葉に、私の目から自然と涙が溢れた。
「サリム地区は戸籍さえもハッキリしていない人も多い。だが、確かにこの国の国民だ。
あの時から、俺は本当の意味で国に人生を捧げると誓っている。
国に光の当たらない場所なんていらないんだ」
この人は絶望を知っている。
自分の無力さを知っている。
だから、あんなにも完璧でいられる。
だから、力をつけようとしている。
だから、力を欲している。
殿下は「話過ぎてしまったな」と申し訳なさそうに眉を下げると、私を横抱きにしベッドに優しく寝かせてくれた。
そして、「無理をさせてすまなかった」と穏やかな顔で私の髪を撫でると、また来ると一言いい出ていった。
後悔は沢山した。
その上で今を受け入れている。
でも、今新たな後悔もしている。
あの魔力があれば……
私は水魔法に特化しているから、何か出来たはずだ。
例えば、錬金術師たちとも協力すれば汚水を綺麗にする方法を見つけることが出来た可能性もある。
特に、衛生面の問題、水の問題が貧民街では病を流行らせ死に至らしめるらしい。
だから、殿下は私を婚約者に選んだのか。
協力者を求めて。
そういえば、婚約を結んだ14歳の時に殿下からサリム地区の話を何度かされた気がする。
それを私はなんと言った?
確か
「殿下、無粋なお話はお止めになって。
住む世界の違う住人など、あなたが気に留める必要などないのですよ」
と、殿下の心を踏みにじったのだ。
何度も。
そんなことを言った私に殿下はどんな表情をしていたのだろう。
推測でしかないが、きっと10歳の頃から今までにそんな反応を返されたことが多かったのではないか。
だから、理解を求めることをやめた?
逆に殿下自身の価値を高めて、上手く自身の為に力を使いたいと思わせることにしたのでは。
誘導し自分の計画を遂行しようとしているのだろう。
全ては推測でしかない。
肝心なことは言わず、全てをあの微笑みのうちに隠してしまうのだから。
殿下は私を許すことが出来る人だと言った。
でもそれは違う。
殿下こそ……
あなたの期待を無残に壊した私を許したではないか。
知らなかったから仕方がない、ではない。
知ろうとしなかった。
学ぼう。
遅すぎるかもしれない。
魔力を失った私に出来ることなどないかもしれない。
それでも、学びたい。
沈んで見えない陽の光を見つめるかのように、私はただじっと窓の外を見続けた。