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それからの日々は、穏やかに過ぎていった。
レオニー様から様々な場所を案内していただき、街を歩いたりこの地の聖教会へと訪れる事も出来た。
そして、牛や羊などの動物にエサをあげたりと王都では体験できないことを多々することが出来、とても充実した日々を過ごしていると言えるだろう。
そして、今日。
ついにブスケ領に出発する日を迎えた。
「ラシェル様、馬車の準備が出来ました。どうぞこちらに」
「ロジェ、ありがとう」
クロを腕に抱いたまま、館の広間で待っていると、準備を終えたことをロジェから伝えられ、座っていたソファーから立ち上がる。
館を出て馬車の前へと進むと、騎士団の制服である軍服姿のレオニー様が待っていた。簡単に挨拶を交わした後に、クロを片手で抱き、もう片方の手でレオニー様の手を借りながら馬車へと乗り込む。
私が乗り込んだのを確認すると、次にサラが同乗し、そのまま馬車の扉は閉められた。
レオニー様とロジェはそれぞれ馬に乗り、馬車の前後へとスタンバイすると、馬車はゆっくりと動き始めた。
「お嬢様、昨夜は休めましたか? 今日は半日程移動になるそうですから、体調が優れなければ仰ってくださいね」
「えぇ、大丈夫よ」
サラの言葉に、微笑みながら返事をすると、サラは安心したように優しく笑みを返してくれた。
だが、今の言葉。大丈夫と伝えた言葉に偽りはないが、昨夜寝る事が出来たかどうかについては、本当の事は言っていない。
実際には、昨夜は遅くまで寝付くことが出来なかった。
なぜなら、夜が明けたらあの森を通る日だと思うと、目が冴えてしまったのだ。
私、そして目の前で穏やかに微笑むサラが、前回の生において殺された森。
その地に行くと決めたのは私であるが、それでも刻一刻とその時が近づくにつれて、言いようのない不安が襲ってくる。
過去のことであるのに。
時を遡ってから、随分と月日が経ったのに。
それでも、忘れる事が出来ない。
あの森の暗闇、ざわめき、血の臭い。
突き刺された胸の痛み。
全てが今でも鮮明に思い出す事が出来るのだ。
思い出すだけで、鼓動は早まり血の気が引き、目が霞む。全身が固くなり震えが止まらなくなる。
この日を迎えるまでに何度、あの森に行くのはまだ無理だ、やはり止めよう、と思った事か。
それでも、進まなければ……。
そうしなければ、何も始まらない。
それに。
目を閉じて深く深呼吸をした後に、今は服の下に隠されているように身に着けたネックレスを、服の上から触れる。
私には、力をくれる殿下がいる。
私を信じて待っていてくれる両親、友人たちがいる。
そして一緒に付いて来てくれたサラだっている。
私は一人ではない。
だからこそ、《大丈夫》なのだ。
いつの間にか、ワンピースの下で朝からずっと続いていた足の震えも止まっている。
深く深呼吸をした後に、ようやく落ち着きを取り戻し、窓の外へと意識を向ける事が出来た。
視線を外へと向けると、どうやらミリシエ領とブスケ領を繋ぐ森の入り口まで来ていたようだ。
「馬車が止まりましたね。あぁ、どうやら通行許可証を確認しているようですね」
「えぇ。ここは通常は……兵士が常駐しているそうね」
「通常? いない時もあるのですか?」
「えっ……。いえ、そうね。常に、よね」
馬車が一度止まると、サラが不思議そうに窓から外を覗き見た。
そこでは、レオニー様が警備の兵士に何やら紙を見せているようだ。
ブスケ領に入るための森では、許可証、もしくは身元確認が行われる。この地では当たり前のことでも、以前の私たちは何も準備なく来た為、その事を知らなかったのだ。
御者は聞いていた可能性はあるが、何せあの時は、休憩も碌に取らずにここまで到着したのだ。夜だったこともあり、灯りは馬車に付けられた魔石のライトのみだ。
視界も不良だったのだろう。今のように小屋も確認する事が出来なかったのかもしれない。
数分止まっていただろうか。再び馬車が動き始めた頃、私の膝でクッキーを食べていたクロがソワソワし始めた。
「クロ、どうしたの?」
問いかけても、聞こえないかのようにクロはキョロキョロと辺りを見回している。
そして、耳をピンと立てて僅かな物音でも聞き取ろうとしているのだろうか。
「美しい森ですね。ここは馬車が通れるように整備されていますが、きっとこの奥はもっと美しい姿をしていそうですね」
いつもと違うクロの様子が気になり、そちらに気を取られていた為に、サラから声を掛けられるまで、既に馬車が森の中を進んでいる事にさえ気が付かなかった。
サラの言葉で私もようやく周囲を見渡す余裕が出来た。
そして、言われてみるとこの森は不思議だと感じる。
ブスケ領は雪深く寒い土地。これからの時期は雪も降る事があるかもしれない。
ミリシエ領でも、木々は既に色づき鮮やかな色合いをしていた。
それなのに、この森はどうだ。
この道の周囲は紅葉している木が並んでいるが、その奥。
深い深い森の奥の一部分。
そこは、馬車から確認する限りではあるが、青々としているように見える。
しかも、先程まで怖くて恐ろしくて仕方が無かった筈なのに。
もう一度この場所に戻ってきたら自分がどうなってしまうのか。
そう思っていたのに、今はその気持ちが一切ない。
ただ静かに、この森の美しさに魅入っているだけだ。
この地だけ、時が止まっているかのように静寂に包まれている。
そんな風に感じていたその時。
『ニャー! ニャー!』
「クロ? 一体どうしたの?」
『ニャー!』
「外に出たい? 駄目よ、今は馬車が動いているもの」
クロが未だかつて無い程の声で鳴き始め、馬車の扉を前足でカリカリと引っ掻いている。
それを止める私に、クロは納得がいかないようでこちらを向くと、私の左足の周囲をグルグルと周り始める。
今までこんなに落ち着かない様子のクロは初めてだ。
馬車の狭い空間を、ソワソワと動き回るクロの異常な様子に私も焦りを覚える。
サラはそんな私を見て、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「お嬢様、精霊様がどうかしたのですか?」
サラは精霊が見えないが、私の言動により何かがあったのかと心配しているようだ。
「えぇ、何だか落ち着かないようなの。今までこんな事は無かったから……」
「そうなのですね。少し馬車を止めてもらいましょうか?」
「……そうね」
サラは馬車の窓から御者に言付けると、馬車はその場にゆっくりと停止する。
「どうかされましたか? 一度降りますか?」
「えぇ。ごめんなさいね」
「いえ。では、扉を開けますね」
馬車の扉をノックする音が聞こえた後、聞こえてきたのはレオニー様の声であった。
急に止まるように伝えて不審に思っただろうに、いつも同様に穏やかで気づかいのある声が返ってくる。
そして、開けられた扉から未だキョロキョロと周囲を見渡すクロを抱きかかえながら、馬車から降りるために、足を地面へと降ろす。
一瞬、強張った足は、一歩地面へと降ろすと、不思議と恐怖は感じなかった。
それどころか、森の涼やかな空気が頬をかすめ、それがとても心地よいとさえ感じる。
不思議ね。
あれ程までに夢に見て、恐れ、震えていたというのに。
今は、もう怖いだなんて思えない。
それどころか、ほっとする。
「少し疲れてしまいましたか?」
「……レオニー様。いえ、あの、急に止まるよう伝えてしまい申し訳ありません」
「大丈夫ですよ。ここまで順調に来ていますからね。ブスケ領の宿に行くにも日没までには十分間に合いますから」
「ありがとうございます」
いつでも優しく気遣ってくれるレオニー様は、心配はないと優しく微笑んでくれた。
そして、常にサワサワと吹き抜けていく風により木々から沢山の落ち葉が舞い踊るよう。
その美しい光景に目を奪われていると、レオニー様が一歩私の側に寄る足音がし、そちらへと視線を向ける。
「この森は不思議でしょう?」
「えぇ、あの。奥の木々だけ色が青く見えるのですが……」
「あそこは一年通して色が変わらないのですよ。そして不思議なのは、奥の方へと森を進むと、森の奥深くへは辿り着かずに、グルグルと回った後にまた、元のこの道に戻ってしまうのです」
「まぁ、そうなのですね。それはとても不思議……」
「とは言っても、それもここ数十年前からのようですが」
先程からある一点を気にしていた私に対し、レオニー様はとても興味深い話をしてくれた。
なるほど。
この地もまた、特別な森なのかもしれない。
この国の森は様々な言い伝えや不思議に満ちた話が多い。それは、精霊が森に住むという事から各地で起きる現象の一つでもある。
という事は、やはりこの地にもまた精霊の力が何かしら働いている……ということなのかしら。
となると……。
深い思考に沈み込もうとした私に、腕の中で抱かれていたクロが『ニャ』と小さく鳴いた後に、ピョンっと私の腕の中から地面へと飛び降りた。
「クロ?」
クロはジッと森の奥深くを見つめた。耳や尻尾もピンと伸びており、私の声も届いていないようだ。
そんなクロの様子をどうしたのだろうか、と眺めていると、クロはダッと勢いよく駆け出し始めた。
え?
クロ!?
「待って! クロ! クロ!」
駆け出したクロに思わずつられるように私も駆け出そうと、身を前へと進めようとする。
だが、一歩踏み込もうとした瞬間、隣にいたレオニー様が私の腕を掴む。
「レオニー様」
「どこに行くというのです! 貴方ひとりで迷ってしまったらどうするのですか!」
「あっ……。申し訳ありません。」
レオニー様の険しい顔を見て、自分が冷静さに欠けていたことを悟る。
そうだ。私の勝手な行動で、前回ロジェに迷惑を掛けたというのに。
また同じ失敗をする所であった。
今私がクロを追って駆け出して、もし彼らが私を見失う事態になっていたら……。
あんなにも皆の責任を自分は負っていると理解していた筈なのに。
「……分かっています。精霊を追いたかったのでしょう。大きな声を出してしまって申し訳ありません」
「いえ、私が間違っていました。レオニー様、止めていただきありがとうございます」
「大丈夫ですよ。精霊は気まぐれで自由ですからね。今は一時的に貴方から離れたとしても、契約者の元に戻ってきますから」
「そう、ですね」
レオニー様は眉を下げて申し訳なさそうに頭を下げてくれたが、謝らなければいけないのは私だ。
そう、クロはいつだって私の側にいるから忘れていたのだ。精霊とは、常に自分の側にいる訳ではないという事を。
精霊たちはいつだって自由。それでも契約という繋がりにより、互いを感じる事が出来るのだ。
きっとクロは何かこの森で気になる何かを見つけたのだろう。
だから、その気になるものを見た後はまた戻って来る。
クロは猫の姿をしているが、立派な精霊だ。
私とも契約しているし、未だクロの力は私の体を包んでくれているし、感じる事が出来る。
そう思うのに、やはりあの小さな姿が森へと消えてしまったことが、どうしても心細く、心配で不安になってしまう。
……そうよね。ちゃんと帰ってきてくれるわよね。
自分を落ち着かせようと、心の中で何度も大丈夫、と言い聞かせる。
だが、視線はクロが消えていった森の奥から離れてくれない。
クロ、あなたは何が気になったの?
何をしに行ってしまったの?
心の中で問いかけても、クロからの返答は何も無かった。
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