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「侯爵からラシェルの近況は教えてもらっているが、それでも会えて嬉しいよ」
「⋯⋯学園でも、会えないですものね」
「卒業パーティーまでには決着をつけたいが。本当に不甲斐なくてすまない」
「そんな、殿下が表立って動いたら、もっと事態が悪化する事は理解していますから」
陛下も、私と殿下の婚約が継続している以上は表立ってアンナさんとの婚約を推し進めたりはしないだろう。
だがいつ陛下の気が変わるかは分からない。
殿下が私への執着を見せれば、きっと常ならない殿下の様子に無理にでも私との婚約を解消させる可能性だってある。
だからこそ、私たちは唯一会える学園でも、陛下の目を逸らすために会うことはほぼしていない。
学園はどこで、誰の目があるか⋯⋯誰が味方で敵なのか。それが分からない。
確実な場以外では、今現在私と殿下が会うことは危険だろう。
「だが大人しくしておくのは、もうお終いだ。
陛下の言いなりになるつもりもない。
だから、ラシェルは安心して行ってくると良い」
「⋯⋯ありがとうございます」
殿下の言葉は、私が想像していたものとは少し違った。
きっと表情に出ていたのだろう。
殿下は私が口にした感謝の言葉に違和感があったのか、不思議そうに私を見た。
「どうした?」
「いえ、殿下は反対しないのですね」
「すると思った?」
正直言うと、殿下は難色を示すのではないかと思っていた。
マルセル領での誘拐騒動があったからこそ。
あの件は今も殿下に嫌な思い出として残っているからこそ。同じように、王都から離れることになる為、殿下から賛同を得られない可能性も考えていた。
それに、今回はその時以上に危険が無いとは言い切れないのも事実だ。
快く送り出してくれるのは嬉しい事ではあるが、殿下があっさり認めてくれたことに疑問を感じた。
「本音を言うと、心配で仕方ないよ。私も一緒に行きたいぐらいだ。でも行くのだろう?」
殿下は「ふぅ」と小さく息を吐いた後、私の髪を一房摘み、そのまま私をジッと見つめる。
「⋯⋯はい」
「だとしたら、私に出来るのはラシェルが安全に行って帰ってくるように周囲を調整するだけだ。
それに、私には何があるのかは分からないが、ブスケ領に気になる事があるのだろう?」
「はい」
私の答えに、殿下は一度目を閉じる。そしてゆっくりと数秒とった後にまた目を開けて「そうか」とだけ呟いた。
その殿下の表情、そして言葉だけで殿下の心情が伝わってくるようであった。
様々な葛藤の上に、殿下の気持ちは置いておき、私の気持ちを尊重してくれようとしているのだと。
少しの沈黙の後、殿下はニッコリと微笑むと先程の空気を変えるかのように、私へと明るく声を掛ける。
「ラシェル、眼を瞑って」
「え?」
「ほら、いいから」
目を?
急にどうしたのだろうか。
戸惑いのまま、殿下を探るように見ると、殿下はまた催促した。
殿下に請われるまま目蓋を閉じるが、私の頭の中は疑問だらけだった。
だが、空気感だけで殿下が私の後ろに回り込んだようだと感じる。
そして耳に何かが触れ、自然とビクッと肩が揺れた。
「動いちゃダメだよ」
耳元で囁くように呟く殿下の声に、先ほど触れたのは殿下のサラッとした髪ではないか、と思い至る。
それに、自分のすぐ近くから殿下の声が聞こえてきた事で、思った以上に殿下が近くにいる事に気づく。
それを意識すると、体が固まったように動かなくなる。
その時、首元をヒヤッとする何かが触れた。
それが合図かのように殿下の気配が若干遠ざかったようにも思えるが、目を瞑っている為判断する事は出来ない。
そして「目を開けてもいいよ」と言う殿下の声に、ゆっくりと目蓋を開く。
すると、まず先に目に入ったのは、優しくこちらを見つめる殿下。
殿下は満足そうに一つ頷くと、私の顔、そして首元へと視線を向けた。
「うん、よく似合う」
その言葉に、私は殿下の視線を辿って自分の首元を確認する。
すると、そこには付けた覚えの無いネックレス。
中央に、宝石⋯⋯いや、魔石だろうか。
暗い夜空の下、私の部屋のバルコニーに殿下が来た時。
あの暗闇の中で月明かりと部屋の僅かな光に照らされた、あの時の殿下の瞳の色のよう。
深い海の色。
そんな綺麗にカットしてある魔石のネックレスは、上品でありながら大きさも程よく、普段使いにちょうど良さそうだ。
そのネックレスの石を確認するように触れると、嬉しさが込み上げる。
「⋯⋯綺麗。殿下、ありがとうございます」
「いや。想像していた通り、よく似合っている」
殿下は腕を組みながら私を眺め、組んでいた手を私へと伸ばすと、私のウェーブした髪を流れに添うように撫でた。
そして、優しく私の頭を抱き締めるように殿下の胸に引き寄せる。
「殿下⋯⋯」
私が呟いた声に「⋯⋯うん」と殿下は頷き返し、更にギュっと抱き寄せられる。
「もう少し、このままでいてくれるか?」
「はい」
「⋯⋯一つ、学んだ事があるんだ」
「学んだ事、ですか? 何でしょう?」
「大切なものが出来ると、今度はそれを失う事が怖くなる。今、私が一番恐れているもの。
それは、君を失うことなんだ」
殿下は腕の力を少し抜くと、私の顔を覗き込んだ。
微笑みは浮かべてはいるが、どこか寂しそうに眉を下げている。
「ラシェル、私はいつでも君を守ると誓うよ。
だから、何かあったらすぐに知らせてほしい」
「はい⋯⋯もちろんです。
あの、必ず⋯⋯必ず殿下の所に戻りますから。
だから、待っていていただけますか?」
私の問いに、殿下は優しく眼を細めて頷いた。
「あぁ。君を想いながら、待っているよ」
前にマルセル領に旅立つ時には知らなかった想い。
離れる事が寂しいという想い。
マルセル領に旅立つ前は、恋心を自覚していなかったし、何より未来への希望が強かった。
だからこそ、待っていてくれた殿下の想いは考える事が出来なかった。
⋯⋯でも、今はこうも思う。
もしかしたら、待っている方が辛いのかもしれない。
待つ、というのは時間が過ぎるのが長く感じるし、何より自分の目で何が起きているのか分からないのだから。
だからこそ、私を信じて待つと言ってくれた殿下の言葉、想い。
その全てを裏切ることのないように、私は必ず殿下の所に帰ってくるんだ。
殿下は私の首にかけられたネックレスの石を手に持つと、真剣な表情で私を見つめた。
「その魔石は、君を守ってくれるよう私の魔力を込めたものだ」
「殿下の⋯⋯」
「あぁ。だから旅の間、出来ればいつでも身につけていてほしい。
そうすれば、朝ネックレスをつける時、鏡を覗いた時、夜外した時。
私の顔を思い出してくれるだろう?」
確かにこのネックレスがあれば、いつだって殿下を側に感じる事が出来る。
それはきっと、旅の間私に力を与えてくれるのだろう。
でも、思い出す?
いいえ。
「いつだって思い出します⋯⋯」
小さくボソッと呟いたのは、私の本心だ。
何があったとしても、殿下のことを忘れる筈が無い。
きっと、青空を見ながら、星を見上げながら。
街で金髪の人を見つければ。
美味しいものを食べた時だって。
殿下を思い浮かべるきっかけがあれば。
いえ、きっかけなんて必要無いのかもしれない。
私の心にあなたへの想いが沢山溢れ出ているから。
いつだって思い浮かべるのだろう。
そして、早く会いたくなるだろう。
何度も寂しくなって、眠れなくなることもあるのかもしれない。
それでも私が一歩ずつ前に進めるのは、殿下が側にいなくても、いつでも支えてくれているからだ。
私はいつだって、あなたに恋焦がれているのですから。
「うーん。⋯⋯やっぱり、侯爵にラシェルの旅を止めさせるように伝えようかな」
「殿下! 何故ですか⋯⋯やはり、準備不足な点がありますか?」
殿下は「ははっ」と愉快そうに笑うと「ごめんごめん、そういう意味じゃない」と訂正する。
⋯⋯ではどんな意味なのだろう。
「レオニーだけじゃなく、ラシェルを狙う輩がいつ現れるか分からないだろう?
旅の間にまた運命の出会いなんてものが起きたら、今度こそ私は嫉妬でどうなるのか⋯⋯自分でも想像出来ないよ」
「⋯⋯嫉妬などと。殿下はいつだって紳士的ですから」
「それは君にそう見られたいと思っているからだよ。本当の私の心の内を見たら、ラシェルが逃げ出してしまうかもしれないからね」
逃げ出す?
私が殿下の元から?
⋯⋯好きだと自覚してから、そんな事一度も考えた事などない。
「逃げません」
「じゃあ、安心して捕らえるとしようかな。本当に逃げられる前に」
殿下はいつも冗談を言う時と同じように、ニヤッと深い笑みを浮かべて楽しそうにこちらを見る。
「殿下はまた冗談ばかり。私の心はもう十分、殿下に囚われていますから」
そう言葉にして、思わずハッとする。
⋯⋯何を言っているんだ。
つい、いつもの殿下の冗談と思って、軽い気持ちで開いた口が本音をポロっと溢してしまった。
冗談での軽口ならいいが、私の言った言葉は紛れもない本心なのだから。冗談に本音で返してしまうなんて⋯⋯。
きっと、殿下にだって伝わってしまっている。
こんな事を言って、殿下に引かれないだろうか。
心配になり殿下の顔を恐る恐る見上げる。
すると、目を見開いて驚いたように私を見つめた殿下の顔が、みるみる赤くなっていき、視線を彷徨わせた。
「⋯⋯今すぐ連れて帰りたい」
殿下は赤くなった顔を隠すように手で口元を覆った為、何やらモゴモゴと呟いた声は私には聞こえる事がなかった。





