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殿下のあの見舞いから3ヵ月が過ぎた。
宣言通り、殿下は学園の帰りに3、4日毎に現れるようになった。
忙しい中で時間を捻出しているようで、シリルが申し訳なさそうに迎えに来て慌ただしく帰る時もあるが。
そして、本日も目の前には柔かな表情をした殿下がいる。
優雅にカップを持ち、紅茶を飲む姿は佇まいからも気品に溢れている。
「それで、体調はどう?」
「えぇ、最近は起き上がれる時間も増えました。
ですが、筋力もすっかり落ちてしまって椅子に座っていられるのも2時間程が限界ですが」
「そう、食欲は?」
「以前より量は減りましたね。どうも運動量が足りないからか、こってりしたものが重く感じてしまって」
「わかった、その辺はまた何とかする」
「えっ?」
私の食事を何とかするとはどういうことなのか。疑問には思ったが、まぁいいか。
殿下の考えは私には理解出来ない部分が多々ある。
そう、私は前の生においてこんなに殿下と会話をしてはいない。
そして、いつでも微笑み完璧な王子像が徐々に崩れ始めたのも事実である。
「ところで、殿下。先日の夜会はいかがでしたか?
可憐なデビュタントの方が多かったのでは?」
「あぁ、いつもと同じだよ。本来であれば君も今年デビューの年だったからね」
「えぇ、でもこんな状態では社交界にも参加出来ず残念です」
「ふふ、全く残念そうではなさそうだが。私は君がデビュタントの白いドレスを着て、それをエスコート出来なかったのが残念だよ」
「またまた、素敵な華を見つけたのでは?」
「いや、君以上に魅力的な女性など私にはいないよ」
なんだこの自然と口説いてくる王子は。
こんな歯の浮くような言葉聞いたことがない。
いつも微笑みながら当たり障りなく、見事にドレスや髪飾りのみを褒めて本人はスルーする人なのに。
そして、そんな褒め言葉にキャーキャー言っていた過去の自分が情けない。
やんわりと私の病弱を理由に婚約を解消するべきと伝えているが、全く相手にしてくれない。
この王子様には絶対伝わっているはずなのに。
やはり、もう一度しっかり言うか。
「あの、ですから……私たちの婚約の件なのですが」
「あぁ、残念だ。もうそろそろ時間かな?ラシェルの負担になってしまうのは嫌だからね」
殿下は胸ポケットから、チェーンが付いた時計を取り出して見るとわざとらしくため息をついた。
またこの流れか。
なぜか殿下は私が婚約解消の話をしようとすると、聞かなかったことにする。
まだあの子が聖女になってないから、学年が一つ違う殿下とは学園で出会ってないのかしら。
そうであれば、あえて今婚約解消をして他の女性たちに狙われる煩わしさが嫌なのかもしれない。
うん、これだわ。
納得な答えが出て、私は満足げにうなずく。
ということは、今年の新入生の精霊召喚の儀が行われる来年まではこのままかしら?
それはそれで面倒ね。
ついつい嫌そうに目元を歪めてしまう。
先程からひとりで百面相しているのを、殿下は面白そうに眺めていたのだが私は気づいていなかった。
そして
「あぁ、そういえばラシェルは今学園に通えないけど勉学の方はどうするの?」
「そうですね。とりあえずは椅子にもう少し座れるぐらいに体調が安定したら、家庭教師を雇う予定です」
「そうか、ではそれはこちらで手配しておこう」
「そんな、何から何までそんなにお手を煩わせるわけには」
「いや、大事な婚約者だからね」
甘く蕩けるような笑みを浮かべる殿下に、つい顔が真っ赤になってしまう。
私はこんな風に言われることに全く慣れていない。
昔から性格もキツく顔もキツイ私には男性が近づきもしなかったのだ。口説かれるなんてもっての外だ。
「あれ、ラシェル顔が赤いけど熱でも出たかな?」
「いいえ!体調は変わりないのでご心配なく!」
「心配だよ。ただでさえ、君は一度熱が出たらなかなか下がらないのだから」
なぜ顔が赤くなっているのか分かっているでしょ。
殿下は揶揄うような笑いを含んでいるくせに、わざとらしい。
益々眉間の皺が深まる私に殿下は目を細め、声を出して笑い出す。
「そんな顔初めて見た」心の中の呟きは声になっていたらしい。
殿下があぁ、と納得するように言い
「ラシェルとの会話は面白いからね。
それに、君は許すことを知っている人だから、私のただの甘えだよ。
こんなに損得考えずに会話出来る相手、私には少ない」
「損得?いつもそのようなことを考えて?」
「まぁ、どこで揚げ足を取られるかわからないからね。ただでさえこの国は先の戦での傷跡がまだそこら彼処にある」
「えぇ、でもそれは50年前の話では?」
「あぁ、50年でようやく他国とも渡り合える国になったし、豊かになった。でも、実際は?」
「それは……サリム地区のことでしょうか」
殿下は真面目な顔になり、肯定を指すかのように沈黙する。
サリム地区とは、この国ではタブーな会話である。
豊かに見えるこの国の影の部分、所謂貧民街である。
貴族は勿論、平民でさえも目を逸らすという。
大きな痛手を負った戦で、誰もが復興に必死であった。
ただ、サリム地区はそんな者たちの中で行く場所もなく、未来が奪われた者たちが詰め込まれた場所だ。
「10歳の時だ。
家庭教師たちも私の納得する答えを用意出来なかったからね。実際にこの目で見ようと思って、護衛を撒いてシリルと行ったことがあるんだ」
「王太子殿下が!?何てことを」
「あぁ、自分でも若さ故の無鉄砲だと思うよ」
「では何故?」
一国の王子がそんな治安の悪い場所に足を踏み入れるなんて考えられない。しかも、あの王族としての自覚も誇りもしっかりと持っている殿下が。
何かあったらこの国はどうなっていたのか、聞きながら身震いがする。
そんな私の心情をわかってるかのように殿下は自嘲した笑みを浮かべる。
「知りたかった。
誰もが教えてくれない。誰もが無かったことにしようとしている、この国の闇を。
私はそれを誰よりも知らなければいけない者だからな」
そう私の目を真っ直ぐ見ながら言う殿下の顔は、いつもの完璧な王子様の微笑みも、先程の楽しそうな顔も、17歳の少年の顔もしていなかった。
目の前にいたのは、
この国の未来を真っ直ぐに見据えた、王の威厳の片鱗を覗かせる男であった。