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アンナさんが帰ってからと言うもの、未だ私は頭の中でグルグルと彼女の言葉が一つ一つ浮かんでいる。
何をしても、彼女の痛みを思い出してしまうからだ。
そんな時、ノックの音とともに入ってきたのはサミュエルであった。
どうやらお菓子を持ってきてくれたようで、焼き立ての香ばしい香りが部屋を満たす。
その香りに誘われるように、先程まで自分のベッドで寝ていたクロが起きてきた。
すかさずサミュエルの足元に纏わり付くと『ニャーン』とご機嫌な声で鳴いている。
⋯⋯サミュエルには見えていないけどね、クロ。
それにしても、サミュエルは今日まで休みの筈ではなかっただろうか。
「あら、サミュエル。帰ってきていたのね」
「はい、先程。お休みを頂きましてありがとうございます。お陰様で、兄の結婚式も恙無く取り行えました」
「そう、良かったわね」
サミュエルは、お兄さんの結婚式の為二週間程休みを取っていた筈。そしてエモニエ男爵領まで帰っていたが、今日戻ってくる予定だったのか。
「今日まで休みなのだから、もっとのんびりしていればいいのに」
「いえいえ、休んでいるのが性に合わないだけなので」
「そう? でも今日は早く休んでね。長旅で疲れているだろうし」
私の言葉にサミュエルはニッコリと笑うと頷く。そして、何かを思い出したようで「そう言えば」と前置きをした。
「先程、教会の馬車が出て行きましたね。ちょうど帰ってくる時にすれ違ったので」
「⋯⋯聖女様がね、今日来ていたの。私と彼女は学園で同学年なのよ」
「聖女様、ですか。俺のとこの領でも随分噂になっていましたね。聖女様が誕生したと」
「そう。じゃあ国中にもう広がっているのね」
サミュエルの言葉に頷く。
そうか。エモニエ男爵領は王都から随分と遠いが、もう既に噂が広がっているとは。
やはり聖女の誕生というのは、この国の人たちにとって、とても高い関心があるようだ。
そして、サミュエルに一つ質問をしてみようと思い口を開く。
「サミュエルはどう思う? 聖女が誕生したこと」
「俺、ですか? 俺はあんまりよく分からないですけど⋯⋯」
サミュエルは困ったように眉を下げて、大きな手で自分の頭を掻きながら「そうですねぇ」と少し考えるように呟いた。
「国にとっては明るくなって良いですよね。市井でもどんな人か皆気になってるようですし」
「そうよね。まだお披露目はされていないものね」
「まぁ、でもただの料理人の俺とは会う機会は無いとは思いますが。⋯⋯でも、あまり聖女様が苦しくならないと良いとは思いますね」
「苦しく⋯⋯なる?」
その言葉にドキッとして、ハッと顔を上げてサミュエルの顔を見ると、サミュエルは不思議そうにキョトンとしている。
そうだった。サミュエルはアンナさんの先程の話を聞いていない。
だから、この苦しくなる。と言うのはアンナさん自身の今の状況を言っている訳ではない。
となると、何を指しているのだろうか。
「国が豊かであれば聖女のおかげ。でも災害や悪天候続き、何か悪い事があれば聖女が精霊王を怒らせたのでは、とか言われそうですよね。
人と言うのは弱いですからね。国にとって悪い事が起きたら、目立った人間が批難されやすい。
⋯⋯だから、聖女様が穏やかに過ごせると良いですね」
確かにそうだ。
しかもあの陛下のことだ。聖女であるアンナさんを王家の盾にしようと考えていてもおかしくはないのかもしれない。
しかも、聖女となれば教会や高位貴族とも関わりが深くなるだろう。
彼女の立場を利用しようとする人たちは沢山いる。
その悪意に気が付き、しかも躱さなければならない。
⋯⋯それでも、会ったことのない人に対してそこまで考えられるとは。
本当にこの料理人は懐が深いと思う。
私の時も、雇われているからとは言え、親身になり私の体調を考えながら料理を作ってくれた。
元々、人の事をよく考え、よく見ているのだろう。
「サミュエルは優しいわね」
「いっいえ、政治に疎い人間なだけですから」
私の言葉に恐縮したようにワタワタと両手を顔の前で振ると、「では失礼します」と言い残して、サミュエルは部屋を出ていった。
いつの間にか私の膝に乗ったクロは、皿の上のクッキーをパクンと口に入れて、モグモグと口を動かしている。
口の中のクッキーが無くなると、『ニャー』とまた鳴き、次のお菓子を催促してくる。
「クロ、いくら精霊とは言えお菓子の食べ過ぎじゃないかしら?」
『ニャッ』
「はいはい、あと一つよ」
食べても食べても催促してくるクロに苦笑いになり、小言を言う。すると、クロは機嫌を損ねたように前足で私の腕をトンッと軽く叩く。
そしてもう一つクッキーを口元に運ぶと、それを口に加えたまま、私の膝からピョンと飛び降りた。
そのまま先程まで寝ていたベッドへと持っていくと、大事そうにゆっくりと食べ始めた。
思わずそんなクロの様子に、クスッと笑みが溢れる。
久々のサミュエルが作るお菓子を、クロも待っていたようね。
さてと。
今日の事を殿下に手紙で知らせないといけないわね。
だがアンナさんの事情に関しては、どこまで伝えていいのか。
本人が殿下に話していない事を私が喋る訳にはいかない。
かと言って、心配しているであろう殿下に安心してもらうには⋯⋯。
便箋を取り出そうと引き出しを開けた所で、「お嬢様」とドアをノックする音と共に声が聞こえる。
それに「どうぞ」と声を掛けると、サラが少し困惑した表情で入ってきた。
「どうかしたの?」
「それが⋯⋯あの、エルネスト様がお見えで⋯⋯」
「エルネスト? 私とは約束はしていないけど、お父様に何かお話でもあるのかしら?」
従兄弟のエルネストは、時々父と会う為に我が家を訪問する。
とは言え、最近は鍛錬が忙しいようで用事が終わると直ぐに帰ってしまう。その為、私とは時々挨拶をする程度ではあるが。
「いえ、それがお嬢様に御用があるようでして⋯⋯」
「私? 何かしら。⋯⋯応接室?」
「いえ、庭園で待つ、と」
「分かったわ。ありがとう」
サラの言葉に、便箋を取り出そうとしていた引き出しを元へと戻す。
そして席を立ち、部屋を出ていこうとする。
すると、サラは焦ったように「あのっ」と私に声をかけた。
「あの⋯⋯エルネスト様だけではなく、ご友人もご一緒なのです」
「エルネストの友人? ⋯⋯誰かしら」
「それが、ローブで身を隠しておいでで。
エルネスト様が身元は確かな方だと仰っておりました。執事長も旦那様から伺っているから大丈夫だとの事でご案内しましたが」
ローブで身を隠す?
魔術師団の方かしら。
「そうね。お父様も知っているのなら、怪しい方ではない筈ね。
詳しくはエルネストに聞いてみるわ」
「では、ご一緒します」
サラは随分私を心配してくれているらしい。
確かに、姿を隠してこの侯爵邸にいる、というのはそう無い事だ。
それにエルネストも、来るとは聞いていなかったが、急にどうしたのだろうか。
⋯⋯もしかしたから、今日アンナさんが訪問した事を知ってのことなのかもしれない。
エルネストとアンナさんは学園で親しくしていたものね。
サラと二人、庭園のコンサバトリーへと向かう。
ガラス張りのコンサバトリー内は、外からでも若干中を窺い見る事が出来る。
そしてそこには、ティーテーブルに二人の人影が見えた。
エルネストと⋯⋯茶色のローブ、しかもフードを深く被って全く誰か分からない人と一緒だ。
茶色、と言う事は魔術師団では無いわね。
本当にただ身を隠したいだけなのかもしれない。
⋯⋯だとして、誰なのだろう。
不思議に思いながら、サラが開けた扉からコンサバトリー内に入る。
すると、二人が私に気がついたようで顔を上げてこちらを見た。
だが、直ぐに反応したのはエルネスト⋯⋯ではなく、茶色のローブの人であった。
その人は、サッと椅子から立ち上がるとこちらに足早に走ってくる。
「えっ」
驚きに目を見開き、思わず声が漏れてしまう。
予想外の行動に、前に進もうと出した足を、後ろに下げてしまう。
だが、距離を取ろうとした私に対し、ローブの人が向かってくるスピードは緩む事が無い。
「なっ、何を」
両手を前に出して、その人を止めようとするが時すでに遅く、ローブの人はその腕ごと私をギュッと抱きしめた。
⋯⋯あっ、この香り。
その時、ローブのフードが外れて赤い夕日に染まった金色の髪が私の頬を掠めた。
視線の先には、エルネストが席から立ち上がり、困ったように苦笑いしながらこちらの様子を伺っている。
だが、私を力一杯に抱きしめるこの方には、そんな事は全く見えていないようだ。
「ラシェル、心配したよ」
腕の力を少し緩めると、その人は両手で私の頬を優しく包む。
そして目線を合わせると、綺麗な顔が私の視界いっぱいに広がった。
「殿下」





