71 王太子視点
「殿下、お待ちしておりました」
大教会へと向かうと、壮年の神官に一室に案内される。そのドアを開けると、待っていたのは真っ白な装いを纏った聖女その人であった。
深々と礼をし、勧められるままに席に着く。
不躾である事は十分承知の上で、目の前のアンナ・キャロル嬢をまじまじと見る。
私の視線に気付いている筈であるのに、視線を上げることなく暗い顔のまま、ただテーブルをじっと見ている。
⋯⋯何か、可笑しい。
今迄であったなら、媚びを売るような視線に甲高い声を上げていた筈。
だが、目の前のキャロル嬢はあまりにもいつもとは違う。
「キャロル嬢、聖女の学びは如何程であるか」
「はい。力が及ばず、特別な力は何も⋯⋯。ですが、皆様には良くしていただいております」
キャロル嬢は口元は辛うじて微笑みを浮かべているが、視線は下を向いている。
⋯⋯覇気が無い、と言う感じか。
もしかしたら。
昨日テオドールと会話した時の、最後の言葉を思い出す。
随分酷い事を言ってしまった、と言っていたか。
この聖女が落ち込むとは思っていなかったが、どうやら本当にテオドールの言葉が効いているのかもしれない。
⋯⋯本当に、あいつは何を言ったんだ。
頭の中でテオドールに悪態を吐きながら、元々キャロル嬢に言うべき事を伝える為に口を開く。
「陛下と何やら取り引きをしたようだな」
「取り引き⋯⋯という程では。婚約の件でしたら、願いは口にしました」
その一言に眉間に力が入る。
「ハッキリと言おう。私は受けるつもりは毛頭ない」
「いえ、貴方は私と結婚すべきなのです。それが、殿下が殿下として生まれてきた定めなのですから。
私もそう。アンナとしてこの場にいるからには、貴方と結婚することが決められているのです」
⋯⋯定め?
何を言うかと思えば、神の信託でもないのに定めとは。
「何を考えているのか分からないな。君は私を好んでいる訳ではない。だが、王太子との婚姻に拘っている。⋯⋯そういうことか?」
やはり、今もこちらへ向く視線からは一切熱を感じはしない。
目的が分からない。
人の行動には何らかの意図がある。だが、こいつからはその意図が見えない。
もしかすると、それが私に理解し切れないものなのかも知れない。
「私と結婚出来なければ隣国へ行くというのは本当か?」
「貴方と結婚出来ない? ⋯⋯そんなの何の意味も無いわ。そうなったら、もう私にはどうしようもないじゃない」
どこかボーッとした視線を向けていたキャロル嬢の瞳に、初めて苛立ちのような怒りの色が見える。
「君と結婚するぐらいなら、王太子の座を捨てる。
⋯⋯そう言ったらどうする?」
彼女の本心に初めて触れたことで、真実を暴こうとわざと更に苛立つ様な言葉を口にした。
案の定、私の言葉は彼女の動揺を誘ったようだ。
キャロル嬢はハッとした表情になり、迷子の子供のように今にも泣き出しそうな不安気な表情を見せる。
「そんな! そんなのハッピーエンドじゃないわ!貴方とアンナの結婚式が無いと⋯⋯。
過程のイベントはおかしくなったけど、最後に貴方と結婚すればハッピーエンドだもの!」
そこまで勢い良く言うと、キャロル嬢は急に俯く。
そして暗い顔で、何度も首を横に振る。
ボソボソと小さい声で何かを呟いているが、何と言っている?
キャロル嬢の口元を注意深く観察し耳をすませると、徐々にハッキリと聞こえてくる。
「いえ、分かってる⋯⋯本当は分かってるの。ここはゲームじゃないんでしょ? 帰れないんでしょ、私。でも、どうすればいいのよ⋯⋯。どうすれば帰れるの!」
帰れない?
一体、キャロル嬢は何処に帰ると言うのだ?
思わず後ろに控えたシリルに視線を送る。すると、シリルも困惑したように眉間に皺を寄せながら、小さく首を横に振った。
シリルも知らない、か。
するとキャロル嬢は、パッと顔を上げると私へと視線を向ける。
その表情は何処か必死で、何かを乞う様な顔をしている。
「貴方達のことは申し訳ないと思ってるわ。引き裂いてる私が悪役だってことも。⋯⋯でも、これしか出来ないの! だって、他に帰れる方法が見つからないんだもの」
キャロル嬢は座っていた椅子から立ち上がると、テーブルに置いた手をギュッと握りしめる。その手は随分力が入っている様で、僅かに震えている。
「ねぇ、貴方メインヒーローでしょ! だったら、私と結婚してよ! そうしたらハッピーエンドを迎えられるかもしれないわ!」
「⋯⋯キャロル嬢、殿下に何という口の利き方を」
堪らずと言った様子で背後にいたシリルが一歩前へと出ると、淡々と注意する。
だが言われたキャロル嬢の耳には全く入っていないようだ。
シリルへと視線を向け、首を横に振る。
すると、シリルは黙ってまた元の位置へと戻った。
キャロル嬢は私たちのやり取りなど、気にする素振りもなく、目に涙を溜めながら絶望の淵で叫ぶような声で、必死に何かを伝えようとしている。
「お願い! 帰れなかったらその時は消えてあげるから。離縁でも病死でも何でもいいから。
⋯⋯お願い。私を帰して。⋯⋯お願いします」
最後には力尽きたように床に座り込み、頭を地面に擦り付ける様にしながら、「帰りたい、帰して」と涙を流しながら小さく何度も呟いている。
この異常な様子にシリルが、元々開けていた扉から近くを通った神官を呼んだ。
駆けつけた神官も驚きに目を見開き「聖女様!」と大きな声で呼ぶ。
だがその声に、キャロル嬢は一切反応も無い。再度慌てた様に出て行った神官がシスターを数人呼んできたようだ。
そうして、シスターに抱えられるようにしてキャロル嬢は部屋を出ていった。
シリルに呼ばれて初めに来た神官も、私達に頭を下げて出ていこうとした為、「待て」と呼び止めた。
「聖女は、いつもあのような調子なのか?」
「いえ。いつもは真面目に教えを学び、誰に対しても親切な方です。あのように声を荒げたのは⋯⋯初めてで。正直、戸惑っております」
「そうか。呼び止めて悪かった」
そう言うと、神官は再度頭を下げて、今度こそ部屋を出て行った。
そして、部屋に残ったのは私とシリルだけ。
「あれは、何だったのでしょう⋯⋯。理解不能な言葉の数々。聖女と言えど殿下に対し、あまりにも不敬です」
シリルは戸惑いながらも眉間に皺を寄せて、不快感を露わにする。
あれがテオドールの言っていた《周囲の人間全てが敵》、か。
「それにしても、帰りたい、か。⋯⋯あのように取り乱してまで帰りたいのは、何処なのだろうな」
「男爵領という訳ではなさそうですね。それより、もっと遠く。もう帰る手段の無い場所を求めているような異常さ」
暫しその場でシリルと考え込むが、彼女の事は全く理解する事が出来ない。
まるで、世界に隔たりを感じるような違和感。
全く以って予想外の事態に、これ以上の長居は意味が無いと判断し王宮へと戻った。
そして王宮に帰ってから、キャロル嬢の言っていた事を整理しようとしたが、不明点が余りにも多い。
協力者である大教会の神官から聞くには、その後のキャロル嬢はずっと塞ぎ込んで部屋に篭りっきりになっているらしい。
その報告書を執務室で読み、落ち着いた頃にまた訪問しなければいけないか、と考えていた頃。
シリルから渡されたのは、ラシェルからの手紙であった。
受け取っただけで、ラシェルの顔が浮かび、読む前から日頃の疲れが一瞬で取れるような思いがする。
だが、その内容の中に。
《アンナさんから我が家へ訪問の伺いをされました。両親とも相談しましたが、お受けしようかと考えております》
と書かれており、慌てて侯爵へと連絡を取ることになった。





