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陛下との謁見後、私は自己嫌悪に苛まれることになった。食事も取らぬまま部屋に篭った私に対し、お父様もお母様も何も言わず、そっとしてくれている。
涙が頬をつたりポツリと落ち、ベッドシーツを濡らした。
何故、サインをしてしまったのか⋯⋯。
勿論、あの場ではサインする他無かった。宰相からの無言の圧力。最後にはお父様も何も言うことなく、首を横に振った。
⋯⋯もう無理なのかもしれない。
殿下の婚約者ではいられないのかもしれない。
受け入れたく無い自分。
そして、受け入れざるを得ないと理解している自分。
相手は聖女と陛下。
聖女に対抗する程の力など、今の私は到底持ち得ていないのだから。
「ニャー」
「クロ⋯⋯えぇ、大丈夫、大丈夫よ」
帰宅してから、側にずっと付いてくれていたクロがベッドに飛び乗り、心配そうに私の顔を覗いた。
大丈夫、大丈夫。
呪文のように唱えても、一向に胸の痛みは治らない。それどころか、未だ殿下のことを考えて、また涙が溢れてしまうのだから。
「どうしたらいいのかしら、ね」
「ニャ」
「だって、好きなの。⋯⋯殿下のことが」
好き。
そう思うだけで、またポロポロと涙が溢れ出て、手で拭っても更にまた溢れてくる。
一本筋で行かない、捻くれた所も。
あの温かくて大きな手も。
じっと見つめると、頬を少し赤らめて目を細めながら「どうした?」と優しく聞いてくれる声も。
意外とコロコロと変わる瞳の輝きも。
⋯⋯知らぬうちに、こんなにも好きになってしまった。
だからこそ、今こんなにも苦しい。
胸が締め付けられるように、身体中が悲鳴を上げる。
もう殿下の隣に立つ未来は途絶えてしまった。
そう考えるだけで、絶望感に襲われる。
いっそ好きにならなければ良かったのだろうか。
そうすれば、こんな想いをせずに済んだのだろうか。
⋯⋯でも、そんなこと出来るのか。
殿下と過ごした日々を無かったことになんて、本当にしたい?
そう自問自答するが、答えは《いいえ》しか出てこない。
だとしたら。
何がいけなかったのだろう。
やっぱり、私の過去に行った過ちのせいだろうか。
それとも、聖女に対しての償いが足りなかったのだろうか。
明かりも付けない部屋では、カーテンを開けたままの月明かりだけが僅かな光を運ぶ。
その漆黒に浮かぶ月の輝きさえも、殿下の髪色を思い出させ、私の中に殿下がどこまでも存在する事を思い出させる。
「無かったことになんて⋯⋯できる筈ない、のに」
それでも、終わらせてしまった。
虚しさだけが、ポッカリと私の心に穴を開けた。
その時。
コンコン、と控えめにドアをノックする音が聞こえた。右手の甲で両眼を軽く拭うと、小さく深呼吸をし「はい」と答える。
「失礼します」の言葉と一緒に入ってきたサラは、私の様子を一目見て、傷ついたように顔を歪める。
⋯⋯やはり、酷い顔をしているのね。
「あの、お嬢様。
旦那様よりこの手紙をお嬢様にお渡しするようにと」
「手紙?」
「はい。あの⋯⋯」
サラは口を開くが、何と言っていいのか分からないようで口籠った。おおよそ、私の姿に慰めの言葉を言うかどうかを考えているのだろう。
「サラ、私は大丈夫よ。何かあればベルで呼ぶわ。
⋯⋯そうね、もう暫くしたら軽食だけお願い出来る?」
「は、はい!」
平静を装いながら、意識して微笑みを顔に乗せる。きっと上手くは笑えていないだろうし、サラには私の心の中など伝わっているだろう。
その上であえて何も言わない。そんな優しさをサラから感じた。
お父様やお母様だってそう。きっと二人も心を痛めているだろう。それでも、あえて放っておいてくれる。その気持ちだけで、今の私にとって救われる思いがする。
「では、失礼します」と一言告げると、サラは部屋を出た。
残ったのは、この差出人のない真っ白な上質な紙で出来た手紙だけ。その手紙を持ち、ベッドからよろよろと起き上がると、机へと向かう。
魔石で出来たデスクライトをつけ、ペーパーナイフを手に取り封を開ける。
そして中に入っていた便箋を開くと、私は驚きに目を極限まで見開いた。
「殿下⋯⋯殿下の字だわ」
収めた筈の涙がまた込み上げて、一雫便箋へと落ちる。すると、殿下によって書かれた字が一文字、黒い染みとなって広がった。
焦る気持ちを落ち着かせようとするが、上手く行かない。三枚に渡ってギッシリと書かれた文字を順に追っていく。
初めは挨拶から始まり、陛下が私を呼び出したこと、このような状態になってしまったことへの謝罪。
そして、『必ず自分の手でどうにかするから待っていて欲しい』という力強い言葉であった。
今回のことは殿下にだって、どうする事も出来なかっただろう。何と言っても陛下が関わっている。
この国において、誰も否を唱える術など無いのだ。
それでも、殿下はどうにかしようとしてくれた筈だ。彼の出来得る範囲で。
だと言うのに、自分はどうだ。
いつだって殿下に守られてばかり。
今回だって、聖女に対抗する力を持ち得ていない自分に問題があるのだ。
私より、聖女の方が王太子妃に相応しい。⋯⋯陛下はそう判断した。
私に持っている力など、今となっては家柄だけ。
そして、闇の精霊と契約したこと。
私の足元で今度はボールを追うことに夢中になっているクロを見遣る。前足でチョンチョンとボールを触っている。
その姿に、固まっていた表情が少し和らぎ、自然と口角が上がるのを感じる。
闇の精霊、か。
謎さえ分かっていない。
それに何故、私がクロと契約出来たのかも分からない。
ただ、クロと契約したことや家柄は私の力とは言えない。
私が動き、必死になり手にした結果では無いのだ。
殿下からの手紙を封筒へと大切に仕舞うと、それを一番上の引き出しに入れた。
そして、先程サラが手紙と共に置いていってくれたワゴンへと向かう。
そこに置かれた洗面器の水で顔を洗い、タオルで拭う。
すると、先程までの陰鬱とした気持ちは僅かばかり何処かへ行ったかのように、清々しさが出てくる。
いつまでも殿下に任せきりではいけない。
婚約がどうなるかは分からない。
今のままでは殿下がどう動こうと、本当にこのまま解消になる可能性は高いだろう。
それでも、あの殿下が陛下の言葉を聞き入れないとしているのだ。きっと何かの策があるのか、既に動き出しているのか。
何かしらの考えがあるのだろう。
だとしたら、私はどうする?
ただ悲しむだけの人間に何が出来ると言うのだろうか。
殿下の隣に立つ、という未来。待つだけの者に与えられる席ではない。何しろその席は、今は私が座るべき物では無くなってしまったのだから。
これは私の弱さだ。十五歳で再度目を覚ましてから、諦めることを良しとした。そして全てをただ受け入れ、抗うことをしなかった自分の弱さ。
変わろう、そう思って今まで行動してきた。それによって以前とは全く違う今がある。
でも、それでもまだ駄目なんだ。
最後の最後。奥深くに閉じ込めた恐怖。
それに向き合ってこその強さなのだと、今は感じる。
殿下はこんなにも自分の手で変えようとしているのに。
彼女に勝つのではない。
自分に負けない。
どんな結果であろうと、抗う強さ。
その為の力。
それと向き合う時が来たのだろう。





