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「最近何か悩んでいることでもあるのか?」
ゴトゴトと揺れる馬車の中で、私の目の前に座る殿下は表情を曇らせながら尋ねた。
⋯⋯いけない。
あの日からふと、アンナさんの言っていたことはどういうことなのか⋯⋯そればかりが気になって考え込むことが増えた。
ただ今は殿下に誘われた湖畔への道中だったにも関わらず、また難しい顔をしていたのかもしれない。
一緒に着いてきたクロも私の膝に乗りながら、《どうしたの?》と聞いているかのように私の顔を覗き込んでいる。
「すみません。折角殿下に誘っていただいて、一緒に出掛けているというのに」
「私のことはいい。それよりも、ラシェルが何か困っていることがあるなら、教えてほしい。
君が一人で思い詰める必要もないし、悩んでいるのであればその負担を軽く出来ればいいと思う」
「⋯⋯殿下」
「私でなくとも、アボット嬢でも、君の侍女のサラでも、ご両親でも。ラシェルを心配をする人は周りに沢山いる。困ったことがあったら、抱え込まないで誰かを頼ることもしてほしい」
「ニャー」
「あぁ、君もだね。クロも心配だってさ」
殿下は私が何に悩んでいるのか無理に聞き出す事はなかった。
それでも、元々自分の中で完結させようとしてしまう性格を見越してか、こうして優しく声を掛けてくれる。
私の心配をしてくれる人がいる。
その事実にギュッと胸の中を掴まれるような気がした。
⋯⋯嬉しい。
純粋にただ、その気持ちだけが浮かんだ。
大切に想っている相手が、私のことを想ってくれる。
それはとても奇跡のようで、瞳の奥に熱さを感じ涙が溢れそうになる。
「殿下、ありがとうございます。
⋯⋯殿下は本当に凄いです。いつだって私の欲しい言葉を言ってくれます」
「私は大した事は出来ていないし、特別に人を気にかけたことがない。だから、ラシェルがそう思ってくれたのなら、君のお陰だよ。
この気持ちを私に教えてくれたのはラシェルだ」
そう穏やかな顔で微笑む殿下の顔に、頬に熱が集まるのを感じる。
好きな人が自分を心配してくれるというだけでも嬉しいのに、殿下のこの優しい笑顔。何度向けられても、その度に見惚れてしまう。
好きだと自覚してからは、より殿下の表情全てが今まで以上に輝いて見えてしまうのだから、自分でもこの気持ちをどうすればいいのか分からなくなる。
「ニャーニャー」
いつの間にか膝から降りていたクロが、馬車の扉をカリカリと前足で叩いている。
「クロ、どうしたの?」
「あぁ、もう着くようだな。
この湖がある森は王都でも自然に溢れた場所だ。自然を好む精霊にとっては気になるのだろうな」
そうか、確かに王都にはこうして少し遠出をしないと森はない。そして精霊は元々属性ごとの森に住まうと言われている。
このクロのソワソワした様子も喜んでいるからなのかもしれない。
「クロ、サミュエルからお菓子を作ってもらっているから後で食べましょうね」
私の言葉に尻尾をふわっと揺らし、目を輝かせたようにするクロの様子に思わず笑みが漏れる。
なんて可愛らしいのかしら。
「さぁ、ラシェル。行こうか」
「はい、殿下」
いつものように先に降りた殿下の手を借りながら、馬車を降りると。
そこに出発前に挨拶をした護衛たちが数人並んでいる。
だがその中に。
「ロジェ!」
「ラシェル様、お久しぶりです」
「会えて嬉しいわ! 元気にしていたかしら?」
「はい。辺境の警備に行っていましたが、先日より王都に戻りこうして護衛にもまた付けることになりました」
「そう、マルセル領では迷惑をかけてごめんなさい」
「いえ、ラシェル様が謝る必要は御座いません。
騎士として未熟だったのは自分ですから」
ロジェはあのマルセル領での誘拐騒ぎの一件で、事件そのものは内密にされてはいるが、責任を取る形で王太子の護衛という王都の花形から、辺境警備へと回されていた。
勿論、辺境警備であっても騎士として立派な仕事だ。ただ騎士団の中で出世しやすいのは、断然王都での勤務であろう。
そしてロジェが罰を負ったのも私が油断したせいに他ならない。だが殿下、そしてロジェ本人も護衛対象を見失ったことは騎士としてあってはならないという意向から、厳罰を受けることになった。
『それが彼らの仕事で騎士としての誇りだ。
そして上に立つ者はその責任を背負う義務がある』
そう言った殿下の顔つきは私とは全く別の、疾うの昔に決意を定めている王太子としての顔をしていた。
私は王族になること、そして自分の行動で誰かが罰を受けることになることを理解しきれていなかった。
でもその事を殿下は責めたりなどしなかった。
むしろ、自分の責任だとまで言っていたのだ。
彼の背負っているものはどこまでも重く、それを背負わなければいけない人生を生まれながらに定められている。
それはどれ程のものなのか。
到底私には計り切れない苦しみや葛藤の末に、今の殿下がいるのだろう。
じっと見つめた私に気づいたかのように、殿下はまた優しい笑みを浮かべてくれた。
「さぁ、まずはボートに乗ろうか」
「えぇ」
「実は⋯⋯ここに来る事はあっても、ボートに乗るのは初めてなんだ」
「そうなのですか?」
「あぁ。だから年甲斐もなく⋯⋯少しはしゃいでいるよ」
そして殿下が湖を指差すとそこにはボートが準備されている。
ボートに乗るのは初めてだと話す殿下は、恥ずかしそうな表情を見せる。
その姿は、どこか少年のようで可愛らしく感じて、思わず「ふふっ」と口から笑い声が漏れてしまう。
すると、殿下は更に照れたように目を細めた。
「ラシェル、足元が揺れるから気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
二人乗りの小さなボートに先に乗った殿下が手を差し出してくれる。
「大丈夫?座れた?」
「はい」
「良かった」
「⋯⋯湖の上からだと、木々が更に美しく感じますね」
「あぁ。想像以上に綺麗だ。
⋯⋯シリルにまた私ばかり遊んで、と叱られるかな」
「では私も一緒に叱られます」
その言葉に私も殿下は顔を見合わせる。
そしてどちらとも無く、私と殿下の肩が揺れた。
殿下に至っては本当に可笑しそうに、「ははっ」と声を上げて楽しそうに笑った。
「楽しいな。最近はこんな風に声を出して笑うことが増えて、自分でも驚くよ」
「そう、ですね。確かに殿下がこんな風に笑う方だとは、以前は知らなかったです」
「私もだよ。
子供の時からあえて喜怒哀楽をコントロールしようとしていたからね」
「何故、ですか?」
「私の周りでは、私自身を必要とされた事はないからね。いつだって求められるのは王としての資質。
それが私である必要はない。
国が、民が求める王⋯⋯それが私の姿なんだ」
そう話す殿下は、その自身を必要とされていないことを悲観する訳でもなく、当たり前のことのように淡々と語った。
「私だって、この国や民を大切に思っている。だからこそ、いつだって相応しくあるように学び行動してきたつもりだ。
だが、それでは足りなかったんだ」
「⋯⋯足りなかった?」
私から見えば、殿下は十分過ぎるほどの働きをしている。
とても十八には見えない程大人びた人だ。
「全てを損得でしか考えられず、人を使うことに慣れた嫌な人間だ」
「それは⋯⋯王太子としては間違ってはいないかと」
「⋯⋯そうかもしれない。だが、そんな人間に誰かを幸せにすることなど出来ないだろうな。
美しいもの、美味しいもの、それを分かち合う相手がいる。人の苦しみ、幸せを知ることで、他者を思いやれる。
そんな当たり前のことを、私はこの年になって初めて知ったんだ」
私が今まで見てきた殿下は、弱さを嫌う。
自分を曝け出すことも嫌う。
だが、そんな殿下が今、私に彼の素を見せてくれている。そしてそれを私が受け入れるかどうかは、きっと関係ない。
本心から自分自身と向き合った殿下の言葉をただ伝えようとしているのだろう。
「ありがとう、ラシェル。
私を一人の人にしてくれて」
そう言って穏やかに笑う殿下。
その顔を見て、私の中でまるでパズルの最後のピースがはまるように、パチリという音が聞こえた。
「殿下、私こそ。
あなたの強さ、優しさに何度救われたことか。
自分の弱さに気付けたのは、殿下の強さがあってこそ。その誰にも揺るがすことの出来ない、殿下の強さは私の憧れです」
「ラシェル」
彼の背負うものを私も背負いたい。
自分の弱さにも向き合いたい。
そして、何より殿下の側にいたい。
「殿下、私もあなたが大切にするこの国を、一緒に守っていってもいいですか?」
「ラシェル⋯⋯その意味を聞いても良いだろうか」
殿下は私の言葉に驚いたように口を開けると、どこか不安そうで、どこか期待したような不安定な視線を私へと向ける。
好きだと自覚した時から私の中でずっと何度も自問自答した。
彼の隣にいることは、王太子妃、ひいては後の王妃となるということ。
その覚悟が自分にあるか。
この国に身を捧げる覚悟が出来るか。
だが結論はとっくに出ていたのかもしれない。
「殿下、あなたのことが好きです」
「いいのか?
私が望むことは、君の自由を奪うことかもしれない」
「それでも、愛する人の隣にいることはどんな景色よりも美しい⋯⋯そうではないでしょうか」
きっと困難はあるだろう。
それでも強くなる、そう決めた。
好きな人の側で、愛する人と私の信念を実現する。
そんな人生も素敵なのではないだろうか。
「ありがとう」
そう小さく呟くように言った殿下の声は、弱々しく微かに震えていた。
そして、極限まで見開かれた瞳は徐々に揺れ、少し光って見えた。
だがそんな姿を殿下は見られるのは嫌うだろう。
だから、私はあえて自然を楽しむように、青空で自由に遠く飛ぶ鳥を眺めるふりをした。
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