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殿下は昨日の発言通り、翌朝に領主館へと立ち寄った。
昨日の苛立った様子はすっかり感じることは出来ず、今はどちらかと言うと無理やりに微笑みを浮かべているように見える。
そして、私たちの間の空気もどこかぎこちない。殿下と顔は向き合いながらも、視線は合わない。
どちらもが、何を言うべきかと思案しているようで沈黙が続いた。
だが、その沈黙を破ったのは殿下であった。
「ラシェル、昨日は感情的になってすまなかった」
「いえ、私の方こそ殿下に不快な思いをさせてしまったようで申し訳ありません」
確かにあんなにも苛立った様子を見せる殿下は初めてだった。
いつもどんな時でも冷静で微笑みを絶やさない殿下が大きい声を出すなど、今思い出しても信じられないぐらいだ。
だが、その原因もきっと私にあったのだろう。
殿下がそうまでして感情を揺らしてしまう何かが。
昨日、あの後ずっと考えていた。
最近の殿下は、私を見る時に甘く愛しさを滲ませる眼差しを感じる。
もしかしたら、殿下は私のことを少なからず想ってくれているのではないか。
そう考えるほうが、昨日の何故かやたらと神官様を気にする様子も自然ではないか。
そう考えるのは些か自惚れが過ぎているかもしれない。
だが、それが事実だとしたら。
私はどうだろう。
一度恋心を消した私にとって、殿下との将来は考えないようにしてきた。
だが、最近は殿下に心を揺らされることが多い。
それでも、封じた恋心の蓋を開ける勇気が私にはまだない。
何しろ、聖女のこともある。
歩み寄ってくれている殿下に、それを返すことが今の自信のない私には出来ない。
また、あの殿下と聖女が仲良くする姿を見て嫉妬せずに過ごせるだろうか。
前回と違って、殿下自身の魅力を感じ始めているからこそ、大丈夫だと自信を持っていない自分がいる。
「いや、全ては私が不甲斐ないせいだ。少し自分の感情を整理しなければいけないな。
良ければ⋯⋯ドナシアン領の帰りにまた立ち寄っても良いだろうか」
心配そうに私を見つめる殿下に、私は微笑んで頷いた。
「えぇ、もちろんです」
「良かった」
「あの、殿下。
私の勘違いなら良いのですが、何か誤解されていることがあるかもしれないと思いまして。
昨日は言葉に出来なかったことを色々思い直して手紙にしました」
「私に?」
「はい。手が空いた時にでもお読みいただけると嬉しいです」
「あぁ、必ず読もう」
殿下は私の瞳を真っ直ぐに見ると、しっかりと頷いて手紙を大事そうに受け取った。
そして、その手紙を胸ポケットに仕舞い込むと、毛並みの良い黒馬に乗りシリルや護衛と共に颯爽と去っていった。
♢
「どうされたのですか?」
「え?」
「先程からボーッとしてますからね。ため息も何度も」
「あっ⋯⋯すみません」
殿下がドナシアン領へと発ってから三日が経った。だが、殿下からは今の所何も知らせがない。
殿下はどうされているだろうか。
手紙は読んでくれただろうか。
いや、もしかしたら見当違いのことを書いてしまったのかもしれない。
この所、気がつくと殿下のことを考えている気がする。
今も教会で先程子供たちに読んでいた絵本を整理しながら、また考え込んで手が止まっていたらしい。
急に後ろから声がしてハッとする。
先ほどまで私の周りを囲んでいた子供たちは誰一人としていなくなっており、この部屋には私と今声を掛けた神官様しかいない。
いつの間に子供たちはいなくなってたのかしら。
全く気がつかないなんて、私は一体何をしてるのだろう。
神官様は落ち込む様子の私を心配そうに見つめた。
「宜しければ、何があったか話を聞きましょうか」
「ありがとうございます。でも、これは私が向き合わなければいけないことなので」
「やはり、ラシェル様は真っ直ぐな方ですね」
神官様は私の答えに目を細めると、どこか眩しそうな視線で笑みを深めた。
「いえ⋯⋯」
「あなたと居ると、私まで強くなれそうな気がしてきます」
「神官様はいつだって誰かのことを考えられる、とても素敵な人ですよ」
絵本を全て片付け終わると、私はしゃがみ込んでいた姿から立ち上がり、真っ直ぐと背を伸ばす。
神官様は私のその様子を見ると、「少し話をしませんか」と私に近くの椅子に座るように勧めた。
何も考えずに、そのまま勧められた椅子に腰掛けると、神官様も近くの椅子へと座る。
暫しの沈黙の後、神官様がゆっくりと口を開く。
「一つ、叶わない夢を語ってもいいですか?」
「夢⋯⋯ですか?」
「はい。
私は、子供の時から出来の悪い子供でした。兄たちは魔力が強く神官としても見込まれていて、将来は大教会に勤めることになると思います。
ですが、私は違います。神官家系に生まれたにも関わらず、魔力も大して多い訳でもなく辛うじて精霊が見えるレベルでしかない。
ですから、幼い時から出来の悪い私は、全てが親や兄の言う通りに進みました。前に話した神官の道を選んだのもそうです。実際自分で何かを選んだことなんてありません」
穏やかな顔をしながらも淡々と話す神官様の表情はどこか諦めにも似た自嘲の笑みを浮かべている。
先日、確かに家族は皆神官をしていると言っていた。
だが、周りが優秀な者だらけに囲まれた環境というのは、とても生きづらいだろうと容易に考えがつく。
「将来は出世は見込めないだろうから田舎の教会を転々とし、細々と暮らせ。兄たちに協力を求められたら、何でもやりなさい。
それしか愚鈍なお前には出来ないのだから」
「え⋯⋯」
「親の口癖です。
うちの親は、優秀な兄二人に期待をしているのです。期待外れの私は彼らにとって兄の邪魔さえしなければどうでもいい存在です」
「そんな⋯⋯」
こんなに穏やかで優しい人なのだから、とても暖かい優しい家族に囲まれていると思っていた。
それが⋯⋯神官様の語る家族は、冷え冷えとした温もりを全く感じさせないものだ。
しかも、こんな冷たい言葉を親にかけ続けられるなんて。幼い神官様のことを想うと胸が締め付けられるように苦しくなる。
「でも、それでも良いと思ってました。
実際に神官として地方の教会へと来てみると、思っていたよりずっと穏やかな日々が待ってました。
ここは煩わしい声も聞こえないし、子供たちと過ごす日々は笑いが絶えない」
「えぇ」
「こうやって一生を過ごすのも悪くない。
そう思っていた⋯⋯そんな時、あなたが現れた」
「私?」
神官様はわたしの瞳をジッと見つめた。
その眼差しはいつもの穏やかさと違い、とても力強いもので、思わず身動きがとれなかった。
「あなたと一緒にいると⋯⋯こんな未来がずっと続けばいいのにって。
初めてそう思ってしまったのです。
もちろん、王太子殿下の婚約者だと言うことは知ってます。
でも、初めてこの日々を壊したくないと感じてしまったのです」
「あの⋯⋯」
「⋯⋯実は、知っています。
王太子殿下と貴方の婚約は今のままでは難しいと」
「それを、何故」
「私の家は教会内でも中核にいるのです。
ですから、貴方の事情は割と理解しているつもりです。
黒猫のことも⋯⋯」
黒猫、クロのこと⋯⋯まさか!
神官様の言葉に、思わず目を見開く。
「大丈夫です。精霊には手を出しません。
ですから、貴方さえ良ければ、私と共にある未来を考えてくれませんか」
握りしめた手が震える。
神官様は何を言っているの?
何故クロのことを知っているの。
顔は蒼くなっているだろう。
いつから知っていたのか。どこまで知っているのか。
考えるだけで震えが止まらない。
神官様が語ることがどこまで本当なのか、何を求めているのか。
疑問は沢山ある。
でも、今、私は先程の神官様の言葉に頷く訳にはいかない。
「申し訳ありません。この婚約がどうなるかは、確かにわかりません。
ですが、私は今王太子殿下の婚約者として、お受けすることは出来ません」
「そうですか⋯⋯残念です」
神官様は、その答えを予想していたかのように言葉とは裏腹に残念そうには見えなかった。
それどころか、更に優し気な笑みを浮かべた。
「では、仕方ありません。
今から駆け落ちしましょうか」
え⋯⋯
神官様は何を言っているのだろう。
考えようとすると、徐々に頭がグラグラと揺れる感覚がした。
その時、鼻を甘い香りが掠める。
気づかないうちに、何か焚かれている?
言葉を発しようとするが、口が痺れたように動かない。
何を⋯⋯。
思わず神官様を睨み付けると、神官様は困ったように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ただの眠り香です。
貴方のことは私が守りますから安心してください」
いつものように優しく穏やかに笑う神官様を睨みながら、私の意識は途絶えた。





