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美味しそうないい香りがする。
甘い香り⋯⋯。
あそこの屋台からかしら。
視線をキョロキョロと動かすと、今度は街の風景が瞳に映った。
小さな女の子がお金を握りしめて、花屋の店員に一輪のガーベラを指さしている。
反対側では、露天のアクセサリーを若い男女が肩を寄せ合いながら眺めている。
その更に奥には、パン屋から出てきた年配の女性が持っている紙袋からバゲットの先が見える光景がある。
やはり私は王太子の婚約者という立場にありながら、貴族社会が全てで、民の暮らしぶりを全く知らなかったんだ。この国の人たちがどんな暮らしをし、何に困り、どうなることを望むのか。
当たり前のことではあるが、様々な人が色んな想いを持ってここにいるんだ。
ここに立つだけで、この街の人々の暮らしを肌で感じることが出来る。
それがとても心地良いものだと感じた。
そして、私に合わせてゆっくりと歩いてくれる殿下の足が一軒の店の前で止まった。
「ここだ」
殿下が案内してくれたお店は、馬車を降りたところから本当にすぐであった。
まだまだ長く歩くことに不安があったので、とても助かった。
煉瓦造りでオレンジ色の屋根、店の前には《本日のオススメ》と書かれた小さな黒板が置いてある。
殿下が勢い良く店の扉を開けると、「いらっしゃいませー」と明るく元気な声が店の奥から聞こえた。
カウンター席が五席とテーブル席が十卓ほどある店内は、お客で溢れてほぼ満席であった。
「あれ、ルークじゃないの!さっ、ここが空いたからどうぞ」
「女将さん、ありがとう」
テーブルを布巾で拭いていた女性が殿下を見てにこやかに声をかけた。
空いた席を殿下に指差され、私もそのテーブルへと向かい、殿下が腰掛けた椅子の向かいに座る。
「珍しい! 今日は女の子が一緒じゃないの!
やだ、彼女かしら?」
「あんまり揶揄わないでくれよ。今日ようやくデートに漕ぎ着けたところなんだからさ」
「ははっ、じゃあ大人しく退散しますよ。注文決まったら呼んでちょうだい」
明るい人柄の女性は、他の客から呼ばれすぐに「はーい」とそちらの方へ向かっていった。
「なかなかの人気店だろう?」
「えぇ、驚きました」
「ここは何を食べても美味しいんだ。何か食べたいものはある?」
殿下は、いつもの優雅な座り方ではなく、ドカッと両足を開き体勢もすこし斜めがかっている。そのため、いつもの高貴さを感じさせない。
そして、テーブル脇に置いてあったメニュー表を取り出すと私に差し出した。
そのメニュー表をパラっと見ると、《鶏肉の香草焼き》、《牛肉のワイン煮込み》、《じゃがいものグラタン》など美味しそうな料理が並ぶ。
だが、いざ自分で選ぶとなると困ってしまう。
メニュー上の文字を何度を上下に彷徨わせると、ヒョイっと私が持っているメニュー表を殿下が持ち上げた。
「良ければ俺が選ぶよ。おすすめの美味しいやつ」
「あっ、お願いします。ル⋯⋯ルークさん」
「ははっ、いいよ。女将さーん! 注文お願い」
そっか。殿下はお忍びの時は、意識して《俺》を使うのね。そして口調なども変えている。
キョロキョロと辺りを見渡しても、今の殿下はあまり違和感がないように見える。
逆に私は、やはり浮いている気がする。
先程からチラチラと視線を感じるのは気のせいではないだろう。
うーん。殿下はあの気品をどこに隠したのかしら。
ぜひお忍びのコツを教えてもらいたい。
女将さんに注文をしている殿下を見ていると、ここには相当通っているらしい。
メニューを見ることなく注文をしている。
あまりに見つめすぎたのか、女将さんが注文を取って去った後に殿下が「どうした?」と首を傾げた。
「いえ、随分慣れているようでしたので⋯⋯」
「まぁ、ここにはもう三年は通っているからね」
「三年も!」
「ははっ、昔から好きなものに対しては何であっても一途な方だから」
殿下はテーブルに肘をついて顎を乗せると、にっこりと笑い、意味深な表情で私をじっと見た。
うっ、と言葉に詰まる私を殿下はまた可笑しそうに笑った。
「また揶揄ったのですね!」
「そんなことないよ。今のは本当のこと」
未だクスクスと笑いが止まらない様子の殿下に、私は眉間にシワを寄せてわざとムッとした表情をする。
すると、殿下はハッとした表情をして「本当! 本当だよ」と慌てた様子になる。
今度は私がそんな殿下を見て、ふふっと笑ってしまう。
「あら、仲良さそうね」
急に声が聞こえ、視線を上げると女将さんが料理の皿を手に持ち微笑ましげにニッコリと笑う。
「はいどうぞ、こっちがキッシュね。あとは、スープと自家製パンのサンドイッチ」
「おっ、相変わらず美味そう!」
「お嬢さんの舌にも合うと良いんだけど」
「とても美味しそうです! いただきます」
目の前には、焼き立ての香ばしい香りのするパンに新鮮な野菜とハムが挟まっているサンドイッチ。
そして普段は家で出ることのない大皿に入ったベーコンと玉ねぎ、マッシュルームの入ったキッシュに野菜たっぷりの温かいスープ。
私が料理に魅入っているうちに、殿下は料理を取り分けて私の目の前に置いてくれた。
「ありがとうございます」
「さぁ、冷めないうちに食べよう」
フォークをまずキッシュのパイ生地へと差し込む。すると、サクッと良い音が耳に聞こえる。一口分をフォークに乗せ、口元に運ぶ。
「美味しい!」
「そうだろ?」
口に入れるだけで、ホワイトソースのまろやかな味が口の中に広がる。
それに、どこかほっとするような温かみのある味がする。
これが、サラが言っていた家庭の味ってことかしら。
次にサンドイッチに目線が行くが、パンに野菜などを挟む料理は食べた事がない。
どうやって食べたら良いのかしら?
目の前の殿下を見ると、まさにそのサンドイッチを片手で持ってかぶりつくところであった。
えっ、そのまま?
目を丸くして殿下を凝視する私に、殿下は「あぁ」と納得したような声を出す。
「そのまま食べればいいよ。ガブって」
ガブ?
えっ、これ本当にそのままいくの?結構厚さがしっかりしているけど、本当にいいのかしら。
今までしたことのない食べ方に、両手でサンドイッチを持ち暫し固まってしまう。
よし、食べよう!
意を決して口を開き、殿下のようにかぶりつくと、パンに挟まったシャキッとした新鮮な野菜、そしてハムからは燻製の香りがする。
「⋯⋯美味しい」
思わず呟いた言葉は、殿下にしっかりと聞こえていたようだ。
私の顔を見ると、嬉しそうに目を細めた。
「俺も君が喜んでくれて、何より嬉しいよ」
その表情に思わず自分の顔が紅潮するのがわかる。そんな顔を見せるのが恥ずかしく、下を向きもう一度口を開きサンドイッチを頬張った。
その後も、殿下と街の様子について話をする。来るまでに見た屋台はどんなものを売っているのか、この先の道には何があるのか、などの気になった質問を多々した。殿下は嫌がる様子もなく、一つ一つ丁寧に、時に冗談も交えながら教えてくれた。
そして、あっという間に食べるものは何も無くなっていた。
「さぁ、そろそろ帰ろうか」
「⋯⋯はい」
「お会計お願い」と殿下が騒めく店内でも通る声を出すと、女将さんが「はーい」とやって来た。
殿下は手際良く、ポケットからお金の入った小さな袋を取り出して支払いをすませる。
「ルーク、鍛冶屋の親父さんによろしくね」
「伝えとくよ」
「彼女とも、上手いことやるのよ」
殿下はお釣りを貰いながら、女将さんからの言葉に「はいはい」と適当に相槌をうっていた。
「お嬢さんも、また一緒に食べにおいで」
「はい! とても美味しかったです。ご馳走様でした」
「ははっ、ありがと。あっちで料理作ってる旦那に伝えとくわ」
女将さんは私の言葉に豪快に笑うと、大きな声で「ありがとうございましたー」と送り出してくれた。
店の先で待っていた護衛騎士がさりげなく合流し、少し歩くと来る時に馬車を降りた場所に着いた。
先程と同じように、殿下が手を差し出してくれ馬車へと乗り込む。
馬車の座席に座ると、思わずふぅっと息を吐き出す。
殿下は私の向かいに座ると心配気な顔をする。
「疲れた?」
「お気遣いありがとうございます。体調は大丈夫です」
私の言葉に殿下は安堵したように表情を緩めた。
「ラシェル、今日は付き合ってくれてありがとう。私にとって、こんなに楽しくて美味しいと思った食事は初めてだ」
「こちらこそありがとうございます」
「もう⋯⋯行ってしまうのだね」
そう、今日殿下と別れたらもう暫くは会うことは出来ないだろう。
殿下は学園もあるし、王太子として王都を離れる機会も少ない。
こうやって、目の前の殿下と話すことも会うことも出来なくなるんだ。
自分で決めたことなのに、無性に寂しいという気持ちが湧いてくる。
でも、今日実感したのだ。
今後、婚約を継続するか解消するかは分からないが、私はもっと外の世界へ目を向けるべきだと。
この慣れ親しんだ場所は、居心地も良く楽であるが、それでは駄目なのだと。
「殿下⋯⋯」
「婚約のことは⋯⋯すまない。解消してやることが出来ないんだ」
なんと答えていいのか、言葉に迷っていると。
弱々しく殿下が呟いた。表情は顔を手で覆っておりその表情を見ることは出来ない。
「その代わり、君の領地行きを心から応援するよ。
きっと次に会う時には一回りも二回りも変わっていることだろうね」
「そうなれるように頑張ります」
「あぁ。その姿を見ることが叶わないのは悔しいが。私は私で、自分で出来ることをやるしかないな」
殿下は顔を覆っていた手を外すと、どこか清々しい顔をしていた。
私は、ついその表情を焼き付けるようにじっと見つめた。
馬車が止まる。
どうやら侯爵邸へと帰ってきたようだ。
名残惜しいような気持ちを振り切るように、殿下の手を借りて馬車を降りる。
「殿下、今日は本当にありがとうございます。
お忙しい日々とは思いますが、しっかりお休みもとってくださいね」
「あぁ、君も。無理し過ぎないようにね」
「はい、では⋯⋯これで」
そして、繋がれていた手を離し、屋敷の中へと入ろうと一歩踏み出す。
あれ⋯⋯
離された手が急にギュッと捕まれ、驚いて後ろを振り返る。
すると、殿下も自分の行動に驚いたかのように繋がれた手を凝視している。
「あの、殿下?」
「あっ、あぁ。いや、その」
殿下は慌てたように繋がれた手を離した。
温もりを失った手が少し行き場を見失ったかのように寂しさを感じる。
「ラシェル、本音を言うとさ。君が側にいないのはすごく寂しいよ。ずっと離さずに側に置いておきたいとさえ思ってしまう。
でも、こんな想いなど君には迷惑なだけだってことも知っている」
「迷惑などとは!」
「いや、最近気づいたんだ。
君がそう思うように、私も自分の足りないものを色々と実感している。
だからさ、次に会う時に⋯⋯君が私から離れたくない、と思えるぐらいの男になれるよう努力する」
殿下の無理やり微笑んだかのように見える不器用な笑みを見つめる。何故かその顔から苦し気な想いが伝わってきて、目元が熱くなる。
「だからさ、君は君のために頑張ってほしい」
「はい」
「それでも、何か困ったことがあったら⋯⋯頼ってもらえると、嬉しい」
「はい」
殿下のその真っ直ぐな瞳を私は逸らすことが出来なかった。
すると、殿下は私の手を離し柔らかく微笑んだ。
「手紙を書く」
「えぇ、私も。見たもの、感じたものを手紙に書きます」
「⋯⋯あぁ、待ってる。さぁ、もう帰って休んでくれ」
私は殿下に一つ礼をして、そのまま一歩後ろに足を出しそのまま玄関扉へと体の向きを変えると真っ直ぐ歩く。
今度は、止められることがなかった。
玄関扉まで着くと、使用人が扉を開けて待っている。
足を進めようとし、ふと振り返る。
すると、未だこちらを穏やかな優しい表情で微笑む殿下の姿があった。
殿下が軽く手を上げたのに対して一つ礼をし、くるりと踵を返して家の中へと入った。





