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ガタゴトと揺れる馬車の中、私の膝の上にはロゼが丸まり、大きな口を開けて欠伸をしている。心地良い揺れが眠りを誘うのだろう。
「私が皇城を離れることを、よく皇帝陛下が許可しましたね」
「僕は陛下に信頼されていますから」
なぜ私が今、リュート様と共に馬車に乗っているのかというと、ことの発端は今朝に遡る。
庭園へと向かおうとした私の元をリュート様が訪れ、「付いて来てください」と言うとそのまま馬車に乗せたからだった。
「それで、この馬車はどこへ向かっているのですか?」
「着けば分かりますよ。それに皇城の敷地内が広いだけで、目的地は城から目と鼻の先ですから。仮眠の暇もないほどには近い場所です」
それからどれぐらいの時間が経ったのだろう。
微笑みながらも、リュート様は特に談笑をしようとは思っていないようだ。私の耳に聞こえるのは、馬の軽快な足音とそれに合わせて動く馬車の車輪の音だけ。
馬車に乗っている時間は、数時間にも思えるほど長く感じる。
だが、「着きましたよ」とリュート様に言われた時間は、おそらく城を出てから数十分程度しか経っていなかったのだろう。
馬車から降りた先にあったのは、こぢんまりとした小さな建物だった。
クリーム色の外壁にエメラルドグリーンの瓦屋根の二階建て。窓が多い建物は、周りを囲むように木や植物が植えられており、小さな噴水もある。温もりを感じられる場所だ。
リュート様は御者に「そう時間は掛からないから、ここで待つように」と伝えると、さっさと玄関へ向かい鍵を開けた。
「さぁ、どうぞ」
こちらに振り返ったリュート様に促されるまま、建物の中へと足を踏み入れる。
木目調のフローリングに白い壁紙。窓から差し込む光が、懐かしさと穏やかさを感じる。
屋敷の中でもエントランス中央の大きな螺旋階段にまず目が奪われる。高い天井に吊るされたシャンデリアと腕の良い職人が作ったであろう細やかな装飾。
そして、その階段を気品と優雅さを持つリュート様が進む。
まるで一枚の絵を見ているようで、思わず目を奪われる。
「この階段の向こうに目的のものはあります。着いて来てください」
玄関の前で立ち竦む私に、リュート様は不思議そうに振り返る。
ロゼを腕に抱き、辺りをキョロキョロと警戒しながらリュート様の後を続く。
階段を登った先には広々とした部屋に繋がっていた。丸型の木のテーブルに2人掛けのソファーと肘掛け椅子。暖炉の上には大小様々な形のキャンドル。
リュート様が部屋の窓を開けると、爽やかな風と共にレースのカーテンがふわりと舞う。
『キュ!』
ロゼは随分この部屋を気に入ったのか、風に誘われるように元気に飛び回り出した。
「掃除はちゃんとしていますが、埃っぽかったらすみません」
「いいえ、とても落ち着く……素敵なお屋敷だと思います」
そう言うと、リュート様にしては珍しく、はにかんだ笑みを浮かべた。
「ここはカルリア公爵家の別邸です。とはいえ、僕専用の建物ですから、使用人さえ入ることは出来ません」
「ということは、掃除もご自分で? お庭も?」
「はい。留学中は管理が不十分だったので、帰国してからは掃除が大変でした」
「人に任せようとは思わなかったのですか?」
「いいえ、考えたこともありません。僕は大切なものは、誰であっても手に触れて欲しくないのです」
「なぜ、私をここ連れて来たのですか?」
「これからその理由をお見せします」
クスッと笑ったリュート様は壁一面にかけられたクリーム色のカーテンを開ける。すると、そこには大きな本棚が出現した。
リュート様はその中から迷いなく一冊の本を取り出すと、それを私に差し出した。
「これは……」
受け取った本は随分と古そうに感じる。というのも、革製の表紙は刻印されたタイトルが擦れ、何と書かれているのか。自力で解析するとしたら相当な時間を要するだろう。
表紙を開くと、黄ばんだページには所々手書きのインクが滲んでいる。だが、随分と大切に管理していたのだろう。古そうな見た目の割に、中のページは思いの外綺麗だった。
――えっと……何て書いてあるのだろう。龍人……の……力? えっ、これって!
「あなたが探していたものでしょう? 龍人の能力の詳細が書かれた本」
ハッとリュート様の顔を見る。すると、彼はいつもの微笑みを消し、瞳は怪しげに揺らいだ。
「どうしてこれを……私に?」
本とリュート様を交互に見る。リュート様の話では、皇城の図書館でさえ龍人の能力が記された本は置かれていないという。つまり、帝国内でも極めて厳重な扱いが必要な本、ということだ。
それを個人で所持しているだけでなく、なぜ簡単に私の手に渡したのだろう。
「言ったではありませんか。フリオン子爵の記憶を取り戻す手伝いをすると」
「……その言葉を信用しろと?」
「まぁ、ラシェル様を攫ったことを考えると、僕を信用できないのも仕方ありませんよね。ですが、この申し出はその罪滅ぼしということだけではありません」
再び本棚へと体を向けたリュート様は、更に何冊か棚から本を取り出すと、側のチェストの上へと置いた。
「……フリオン子爵の記憶を取り戻すことは、僕にとっても悪いことではありません」
「なぜですか?」
テオドール様が記憶を失って現れた時、リュート様は私同様に驚愕していた。とはいえ、一筋縄ではいかないこの人物は、理由がなければ自ら動くような真似をしない。
笑顔であっさりと人を欺くような人だ。私が納得するような理由もなければ、親切は罠だと考えるぐらいがちょうど良い。
「うーん、どうしようかな。……まぁ、流石に内情を教えるぐらいは皇帝も構わないか」
独り言のように天井を見上げながらポツリと呟いたリュート様は、すぐに私の方へと顔を向き直した。お得意の仮面のような美しい笑顔を消したまま。
「彼の記憶を奪ったのが、この国の第一皇子の仕業だから、です」
「……それでは理由になりません。もう少し詳しく教えてください」
「彼は元々この国の皇太子なのです。アレク陛下が前皇帝を倒し、その座を奪わなければ皇帝は彼のものだった。未だ貴族内では第三皇子であるアレク陛下よりも第一皇子派の方が多いほどです。そのような声も陛下が力で制しているので、今は表立って声を上げる者はいませんが」
皇帝の暴力性が貴族内で反発を生むのは理解出来る。それでも、皇帝が即位して既に数年は経っている。だというのに、第一皇子派の方が多いというのは、はっきり言って意外ではある。
「未だに……ですか」
「……国のゴタゴタを晒すようで恥ずかしいですが……その通りです。陛下は皇位継承者といて皇帝に即位したものの、正当な皇帝としての証である冠をいただけていないのです。それを理由に皇帝として認めない、と言う者もおります」
デュトワ国やオルタ国であれば国王即位の際、教会からの承認があって初めて王として認められる。トラティア帝国では、その皇帝たる証が冠なのだろう。
だが、あの皇帝陛下であればそのような面倒を生む第一皇子を、真っ先にこの世から葬り去るぐらいのことをやって退けそうだ。
「なぜ皇帝陛下は、その第一皇子を自由にさせておくのですか?」
「前皇帝を殺した後、陛下の狙いは第一皇子でした。ですが、陛下が彼の元へ向かった時には、既に危険を察知した第一皇子が冠と共に姿を消した後でした。それから陛下が国中をくまなく探しても、未だ第一皇子の行方を掴むことができません」
第一皇子も彼の信望者もアレク皇帝の動きを予知し、事前に用意周到に逃げ出したということか。しかも数年もの間皇帝に見つからずにいると。
「ですが、先日の謁見の際に第一皇子の使者が来ましたよね。彼らから居場所を掴むことが出来たのではありません?」
「そんな単純な話ではありませんよ。彼らは第一皇子の信望者といえど立場としては末端。実際に会うことが叶わない立場の者です。彼の足取りを掴む手掛かりにはなりません」
リュート様がここまで警戒するということは、余程の曲者なのだろう。
「第一皇子の狙いは皇位奪還、ということですか?」
「えぇ、間違いなく。あの方は蛇のような人なのです。腹を空かし、食べ頃になるのを今か今かと待ち侘びているのでしょう」
余程第一皇子を嫌悪しているのか、リュート様は憎悪の宿った目で窓の外を睨みつけた。
リュート様の口から語られるトラティア帝国の内情に、恐ろしく感じると共に疑問が湧く。
そのような人物であれば、なぜ今あえてテオドール様を狙ったのだろう。皇位奪還の目処が立つその時まで、普通であれば息を潜めてその時を待つのではないか。
「リュート様は、龍人の能力は秘匿するものだと仰いましたよね。……では、どうして第一皇子はあえて自分が生きている証と、本来ならば隠すべき能力を明かしたのでしょう?」
私の疑問に、リュート様は冷え冷えとする笑みを浮かべた。
「挑発……ですかね。アレク陛下の首を取る準備ができた、とでも言いたいのかもしれません」
「……挑発、ですか。ではリュート様は、今まさに皇帝には危機が迫っているとお考えなのですね?」
私の言葉に同意するように、リュート様は神妙に頷いた。
「僕は陛下の為であれば、僕が持つ全てのもの……この命も差し出しましょう。陛下は僕の全てなのです。だからこそ、陛下にとって危険の芽になりそうなものは何であろうと摘まなければならないのです」
キッパリとそう言い切る恐ろしいぐらいに真っ直ぐなリュート様の想いは、憧れというよりも盲信だろう。
リュート様が陛下を語るその瞳はどこまでも嘘がなく、その忠誠心と崇拝ぶりは恐ろしく感じるほどだ。
「どうして、そこまで……」
「陛下は僕の夢を叶えてくださる方ですから」
「夢……」
「その話はまた別の機会に」
ふふっと柔らかく微笑んだリュート様が「本題に参りましょう」と私が持つ本を指差した。
「あっ、テオドール様の……」
そう呟くと、リュート様は頷いた。
「第一皇子は、フリオン子爵に記憶操作という龍人の能力を使用しています。記憶操作という能力は、その名の通り記憶を抹消する術を使えます。また、能力値が高い場合、本来であれば無かった記憶を植え付ける、ということも可能だそうです」
――無かった記憶を植え付ける? そんな恐ろしいことが龍人の能力で出来るというの?
もしそんなことがあるのなら、自分の思う通りに争いの種を増やしたり、逆に好意を向けることだって出来るはずだ。
「第一皇子がどこまでの記憶操作能力を持っているかは不明ですが、とても恐ろしく危険な能力です。……第一皇子が味方であれば心強いですが、敵となると脅威です」
「リュート様の話が本当であれば……仰る通りですね」
「僕は……フリオン子爵の記憶にこそ、第一皇子の行方を知る術だと思っています。そして、第一皇子がどれほどの力を有するのか。……敵の程度を知ることが、アレク陛下のため、そして第一皇子を潰す鍵になるのだと考えています」
「それは、あなたの本心ですか?」
「もちろん」
リュート様は力強く頷く。その眼差しからは先ほど皇帝を語った時と同じ、強烈な光を感じる。
「本心だからこそ、自分の最大の弱味になり得る龍人の能力について、あなたに伝えたのです。それに考えてもみてください。僕がフリオン子爵の記憶を取り戻す手伝いをしたところで、あなたに不利になることなどありますか?」
「それは……そうですか」
「陛下のために、あなたを祖国に帰すことは出来ません。ですが、今回のことは互いの目的が一致してのことです。それに、前に言ったように龍人の能力は例外なく、術師以外が解術することは不可能です」
「っ……」
一度聞いたことだとしても、はっきりと言われるとショックだ。だが、リュート様はそれが分かっていて尚、私と手を組むと言っている。
「不可能を……可能に変える、ということですよね?」
念を押す私に、リュート様は「はい」と迷いなく言って退けた。
「今、まさに例外を作ろうとしている。だとして、今フリオン子爵の記憶を取り戻す協力者は、この国で僕を置いて最適な者などいないと思いますよ」
記憶を失ったテオドール様が現れてから、今初めて光を見た気がした。それも、敵であるリュート様に対して。
きっと私は肯定して欲しかったのだろう。不可能なことはない、と。諦めない道を選ぶことを。――まさか、それをしてくれた相手がこの人だとは想像もしなかったが。
「私は国に戻ることを諦めてはいません。テオドール様の記憶を取り戻し、一緒に帰るつもりです。……それに、あなたのことを許すことはないでしょう」
俯く私に、リュート様は悪ぶれる様子もなく「まぁ、そうでしょうね」とサラリと告げた。
「ですが、利用出来るものは何でも利用します。それが、敵であっても」
意を決して顔を上げる。視線の先には、感情の読めない顔で不敵に微笑むリュート様がいた。彼は肩を振るわせながら、クスクスと笑みを溢す。
「僕を利用? ふふっ、ラシェル様は本当に面白い方だ。……だからこそ、陛下の妃に相応しい」
口角を上げながら、リュート様は指をパチンと鳴らした。すると、今さっきまで飛び回っていたロゼが、リュート様の肩に大人しく乗った。
「えぇ、存分に利用してください」
今、私は大きな選択をした。ギュッと握った手が震えるのを隠しながら、私はリュート様の目を逸らすことなく、真正面から受け止めた。





