3ー32
バラにルピナスの花。モナルダやラベンダーなどのハーブ。美しい花々が咲き誇り、甘く爽やかな香りが体を包む。
そう広くない庭園を隠すように囲むグリーンウォールが、青天の日差しを遮り心地よい風を届けてくれる。
「クロ……クロ? どこに行ったの?」
草むらに入ってしまった契約精霊を探すも、クロはどこに消えてしまったのか。既に数十分は迷子の捜索をしている気がする。
「探せる場所はもう探したと思うのだけど……」
テオドール様のことがあってから、しばらくは与えられた部屋の中で沈んでいた。それを心配してか、リュート様が皇帝に進言してくれたらしく、私の意思とは関係なく行動範囲が広まった。
ここは部屋から一番近い庭園だ。
といっても、入り口には扉があり魔術で管理されているのか、綺麗な牢屋みたいなものだ。扉の前には屈強な騎士たちが私の行動に目を光らせているはずだ。
それでも、自然の中にいられると滅入った気分が晴れる。
今日はここにクロとロゼと散歩に来ていた。ロゼがフラッといなくなることはいつものことだが、この国で再会してからのクロはずっと私の側から離れることはなかった。
「クロ? ここかしら? ……うーん、いないわ」
今日のクロはいつもと違い、庭園に到着した時からずっとソワソワと落ち着かない様子だった。見失ったクロの姿をもう数十分はこうして探し続けている。
「クロ? そろそろ出ておいで」
草むらを覗き込みながら声を掛ける。
『ニャー』
「あっ、クロ!」
後ろから聞こえた可愛らしい鳴き声にホッと安堵しながら振り返る。
「あぁ、良かった。クロ、遠くに行ってはダメよ。……私はこの庭園から外には出られないのだから。どこかに行ってしまっては、探しに行けないのよ」
クロの視線に合わせてしゃがみながら手を伸ばすと、男性の靴が視界に入る。ハッと顔を上げると、クロの後ろに一人の男性が立っていることに気がつく。
「……テオドール様」
そこにいたのは、あの日以来ぶりのテオドール様だった。
「あなたは……確か、陛下の……」
表情をごっそりと削ぎ落としたような前回とは違い、テオドール様は僅かにだが驚いたように目を見開いた。
「ラシェル・マルセルです。デュトワ国の王太子殿下の……婚約者です」
「デュトワ国?」
不思議そうに首を傾げたテオドール様に、思わず身を乗り出す。
「そ、そうです! デュトワ国です! テオドール様の生まれ育った国でもあるデュトワ国」
期待を込めてテオドール様の目を見つめる。だが、テオドール様は無情にもあっさりと首を横に振った。
「……いえ、私はそのような国は知りません。行ったことも、行きたいと思ったこともない国です」
「そんな……」
ガックリと肩を落とす。だが、すぐにこんなことでいちいち落ち込んではいられない、とブンブンと頭を振る。そして、もう一度テオドール様へと向き直す。
「あの、テオドール様」
そう声を掛けた私に、テオドール様は怪訝そうに眉を顰めた。
「いいえ、私はナナです。陛下からそう名付けられました」
「……ナナ? どういうことですか?」
「陛下は私を護衛騎士に任命しました。陛下の騎士は陛下ご自身が飽きられたら処分します。そして、私が今月七人目の騎士だから、ナナだそうです」
テオドール様の口から淡々と告げられた言葉を、頭が理解することを拒否する。
「……ふざけた名前」
あの皇帝は、私への嫌がらせを兼ねてテオドール様を側に置いた。
――あの皇帝のすることにいちいち反応してはいけない。そう分かっているのに、あの人は私がどうすれば気分を害するのかをよく理解しているようだ。
唇を噛み締めて俯く。
――悔しい、悔しい。テオドール様の記憶だけでなく、名まで奪うトラティアの皇族たちが。
『ニャー』
暗闇に沈み込もうとする私を呼び戻すように、クロの鳴き声にハッとする。声の方へと視線を向けると、クロは心配そうにテオドール様を見つめていた。
――もしかすると、クロがテオドール様をここに連れてきたのかもしれない。きっとクロも私と同じ。大切なテオドール様をどうにかしたくて、必死に自分が出来ることを探しているのかも。
「クロ、顔をこんなに汚くして。ほら、綺麗にしましょう」
クロの気持ちに思わず胸がキュッと締め付けられながら、私はその場にしゃがむとクロの頭を撫でた。と同時に、どこまで探検していたのか黒い顔は土や泥が付いていた。
闇魔法を使い、クロの体を綺麗にする。闇の魔術は時を戻す魔法。小さな黒猫の体をあっという間に美しい毛並みへと戻る。
『ニャア』
「うん、綺麗になったわ」
クロは満足気に自身の体をペロッと舐めた。
「今のは?」
頭上から聞こえた声に、顔を上げる。
「えっ?」
テオドール様は、クロと私を交互に見た後、手に持っていた本を確認するようにページを捲っていた。
「あなたが今使った魔術は、この本には記載がありません。どのような魔術を使ったのですか?」
先ほどまで何にも興味がなさそうだったテオドール様が、今は無表情は変わらぬまま速いスピードでページを捲っては一文字も逃すものかと、上から下へと目を滑らせていく。
その場に立ち上がって、テオドール様が読んでいる本を覗き込む。
「あ……あぁ。あら? ……この本、トルソワ魔法学園で使用するものですよね?」
「魔法学園?」
「えぇ。……懐かしい」
テオドール様が持っていたのは、学園に通う一年生がまず習う基本的な魔術が記された教科書だ。
「でも、どうしてこれを?」
「記憶がない私に、陛下がくださったものです」
――こんな基礎しか書かれていない本、テオドール様は幼少期には既に使えるようになっていたでしょうに。
確かリュート様の話では記憶は無くとも魔力はそのままだと言っていた。皇帝は精霊の力には興味を持っていたようだし、テオドール様が自分自身で魔術を使えるようになるように与えたのかもしれない。
「そうですか。……皇帝陛下が」
トルソワ魔法学園に留学していたリュート様が側にいるのだから、教科書がこの国にあるのもおかしくはない。
「それで、今の魔術についてですが」
「え?」
「……水魔法でもないし、風でもない。私の考えでは、この本は精霊魔法のほんの一部。基礎しか書かれていないのでは?」
沈む私の声など聞こえていないかのように、テオドール様は本から目を逸らすことなく、独り言のように呟く。
「そして、この本に書かれた以外の……つまりは、火・水・土・風以外の魔術がある。今の魔術は基本的な魔術とは違うものだ」
「えぇ。今のは闇魔法なので、この本には載っていません」
「なるほど。闇……」
何かに気づいたようなテオドール様が、こちらを真っ直ぐに見る。トラティア帝国で再会してから初めて目があった気がしてドキッとする。
テオドール様の真剣な眼差しは、私を見ながらもっと遠くを見通しているようだった。
「これは憶測ですが、おそらく闇以外にも何か……そう、対になるような力があるのではないでしょうか」
まさか、基礎の教科書を読み、一度私の使った闇魔法を見ただけで、王族が秘匿にしている闇と光の魔術の真実に迫ろうとしているなんて。
「えぇ、そうです。あの……失礼ですが、この魔法書を皇帝陛下から貰ったのはいつ頃なのですか?」
「この本をいただいたのは、今朝です。この魔術を使えるようになり、見せてみろ、と」
「今朝……ちなみに、その本に記述されている魔術は使えるようになりましたか?」
「そうですね。数ページ読んだところで魔法陣の組み立て方も理解できたので、例えば……こんな感じで風と水を組み合わせたり、火と土を組み合わせることも出来る。という辺りまでは」
――今朝? それで既に精霊の力についてある程度理解し、上級魔術師試験の内容である魔術の組み合わせまで出来るようになったと?
「さ、さすが……テオドール様ですね」
よくルイ様が『テオドールは規格外だ』と言っているが、その通りだ。記憶を失った状態であっさりと精霊魔法を理解してしまうなんて。
『ニャー』
「……この猫。あぁ……この子が、闇の精霊ですか」
――そうだ! なんで忘れていたのだろう。テオドール様は精霊王の加護をいただいた私でさえも理解出来ないことがあったのだと。
「あ、あの! テオドール様は精霊の言葉を理解できますよね! それなら、今クロが何を言っているか、わかるのではありませんか?」
「精霊の言葉を理解?」
『ニャ、ニャウ、ニャー』
クロは私の言葉の意味を把握したように、必死にテオドール様に話し掛けた。だが、テオドール様の反応は渋いものだった。
「……残念ですが」
「そ、そうですか。クロの言葉が分かれば、記憶を取り戻す手助けになるかも……と思ったのですが」
クロやテオドール様の契約精霊さんの働きかけがあれば、永遠に解術出来ないという記憶操作もどうにか出来ないかと思ったが……そう簡単には行かないか。
肩を落とす私を、テオドール様は物言いたげにこちらを見た。
「……記憶を取り戻すことが、果たして正解なのか」
ポツリと呟いた言葉に、「えっ」と驚きに声が漏れる。
「せ、正解に決まっています!」
「私はそうは思いません。完全に無くなったものです。特に困ったこともありませんし、陛下は私に良くしてくれます。過去の記憶も人生も……最早私にとっては不要なものなのでしょう」
――過去の記憶も人生も……不要?
「そんな……」
あんなにもよく笑う人が表情を無くし、友人や家族を大切にする人が思い出を失い、彼を作り上げてきたもの全てをいらないと?
――それをテオドール様本人に言われるなんて。
先日リュート様にテオドール様の記憶が戻らないと聞いた時よりも余程、絶望感が襲ってくる。
――私が知るテオドール様だったら、絶対にこんなことを言わない。なのに、目の前の人は間違いなくテオドール様本人で……。
「そのような悲しい言葉……」
「悲しいですか? なぜ?」
こちらを見つめるテオドール様は、不思議そうに首を傾げた。
記憶などいらないなんて言われると、悔しくて悲しくて、涙が込み上げそうになるのをグッと堪える。
「……闇の反対は、光です。……あなたは、光の魔術を操るのがとても上手な人なのです」
ポツリと呟く。すると、テオドール様は先ほどまでの興味なさそうな表情から、一気にパッと顔色が明るくなる。
「光……? そうか。光、か。なるほど……」
本を片手に余程集中しているのか、テオドール様は目を瞑り何かを確認するように右手を体の前にかざした。
「さっきの闇が復元だとすると……光は……」
テオドール様の手からキラキラとした光の粒が出現する。
その温かな光はテオドール様の手の動きに合わせて踊るように動く。そして指をくるりと動かすと同時に、空に大きな虹を作った。
「ははっ、そういうことか」
――綺麗。
まるで遊ぶように魔術を使う人。自分が出現させた虹を眺め目を細めたその顔は、とても楽しそうで、無性に胸が締め付けられる。
光の粒を纏う虹は、テオドール様のように気高く美しく、そして華やかだ。七色の美しさに魅了されて目を離せないまま、私の頬を涙が伝う。
――失って良い訳がない。テオドール様の記憶も、思い出も、人生も。誰かの遊びでメチャクチャにされて良いものでは決してない。
「あなたは……間違いなくテオドール・カミュです。カミュ侯爵家の嫡男でデュトワ国魔術師団の魔術師。……神出鬼没で、人を揶揄うことが好きで、いつだって余裕があって」
普段は明るい笑顔で人を翻弄させながら、いつだって注目の的だ。どんなに難しい魔術だって、簡単に使いこなし奇抜な魔道具を次々と作り出す。
少し妬けるぐらい……ルイ様が誰よりも信頼を置く相手。
それに、ピンチの場面になれば颯爽と現れて『ラシェル嬢、大丈夫か?』と、長い髪をはためかせながらどこからともなく登場する。
そして、『大丈夫だ。信じろ』と優しい声色で落ち着かせてくれる。
視界が涙でぼやける中、空を見上げる。
虹は徐々に光の雨になりゆっくりとその影を消していく。――いくらテオドール様の記憶が無くなろうと、彼の魔術はこんなにも温かく愛に溢れている。
「魔術の可能性を信じ、精霊のことを愛し……誰よりも強く、そして思いやりに溢れた優しい方」
テオドール様は何も変わらない。
「それが、あなたです」
希望を持ってテオドール様へと体を向ける。
すると、先ほどまでの魔術に熱中する姿は消え、再び無表情のテオドール様がそこにいた。その瞳はとても冷たく、目の前にいる私を見ていないように感じた。
「もしそれが本当の私の姿だとしても、今の私は皇帝陛下の忠実な一人の騎士でしかありません」
「そんな、テオドール様……」
「いいえ、ナナです。……それが、これからの私です」
テオドール様からの完全な拒絶。
それが、こんなにも辛いものだなんて。
大切な人から忘れられることの残酷さ、そしてそれさえも許してくれた過去のテオドール様の優しさに、今になって気がつくだなんて。
つくづく自分しか見えていなかった過去に、やるせない気持ちでいっぱいだった。





