3−16 マーガレット視点
トラティア帝国からこの国に来たときは、まさか夢に描いていた世界がこんなにも歪んでいただなんて、知りもしなかった。
私の他にも転生者は何人もいて……しかも、それがまさか私にとって大事な存在であるアンナだったなんて。
同じく転生者の料理人サミュエルに、自分の生い立ちや前世の記憶はゲームに関してのみしかないことを愚痴ったせいか、少し自分の感情が落ち着いてきた気がする。
だが、原点回避という意味では良かったのかもしれない。私がこの国に来たのは、もちろん大好きなゲームの世界に来たかったこともある。だけど、それよりももっと大事なことがある。
――あの悪魔……兄を永遠に葬り去るということ。悪役皇帝には、悪役令嬢がお似合いなの。
「私、運命って決まっていると思う」
ポツリと呟いた言葉は、隣に座るサミュエルにも届いたようでサミュエルは「運命?」と私に聞き返した。だが、それに返事をする気はない。
この国に来て、現実の主人公がいて、攻略対象者が生きている。物語の舞台がそのまま存在する。それに舞い上がって、自分の目的を忘れていた。……こんなの、私を庇って亡くなっていった乳母にも、申し訳ない。
きっとアンナが転生者であることで、ゲーム通りのストーリーになっていないのだろうが、この大陸を悪魔から守るという大義を持つ私にとって、そのぐらいのことで目的を諦めるなんてことは出来ない。
――運命は絶対なんだから。
「……悪役令嬢には、まだ役目が残っているの。あの人は、ルイとは結婚できない」
「何言ってるんだ。王太子殿下とラシェル様は愛し合っている。彼らが結婚しない未来なんてあり得ないよ」
「この国はそれで良いかもしれない。だけど、トラティアにとってはそれじゃあダメなの」
この国に来て一番驚いたのは、悪役令嬢ラシェルがゲームと違って落ち着いた女性だったことだった。初対面時でこそ、兄と同じく悪役の運命を持つラシェルへの嫌悪感が強かった。それも、彼女と接する内に徐々に薄れそうになった。
ラシェルが悪役令嬢だというだけだったなら、私も放っておいたかもしれない。だけど……彼女には、必ずトラティア帝国に来てもらわないとならない。膨大な魔力を持つ精霊国の令嬢……その存在が絶対に必要なのだから。
「あの人が兄と結ばれなければ、兄が支配する国にずっといなければいけないの」
「どういうこと?」
サミュエルには、私の簡単な生い立ちとゲーム知識を説明したが、ラシェルに関して続編に関わっていることは説明していない。その説明をサミュエルにしても良いのか、私はしばし考え込む。
じっとサミュエルを見つめると、彼の瞳は揺れていた。
心配が滲むその目は、誰を想ってのことなのだろうか。何故だか、自分の弱さも一人で抱えきれない苦しみも、この目に縋ってしまいたい、そんな強さを感じる。
「私は……兄を……実の兄に、早く死んで欲しいと願ってしまっている。そんな嫌な人間なの」
こんなこと、今日会ったばかりの人に言うべきではない。冷静になればそう分かっているのに、私の心はサミュエルに助けを求めていた。
涙で滲む視界の中で、この優しく甘い飲み物をくれた彼であれば、私のことを理解してくれるのではないだろうか。一人で抱えきれない秘密と苦しさを、彼の優しさにつけ込もうとする。それはまさしく私の弱さだろう。
サミュエルは、ゲームの続編の存在を知らなかったようで、私の話に逐一顔を青褪めて徐々に言葉を失っていった。
それもそうだろう。まさか婚約破棄の末に修道院へと行くという形で、華麗に退場するはずの悪役令嬢が、まさか修道院への道中で襲われた賊から逃げる中でトラティア帝国の皇帝に見染められるなんて事実があるなんて。
私もゲームのファンブックの小話を思い出さなければ、知りもしなかったのだから。
「待って。それはゲームの続編で、君のお兄さんとラシェル様が結婚したら、君のお兄さんが亡くなるということ?」
怒涛の私の説明に顔面蒼白になりながら、頭を抱えたサミュエルが唸るように呟く。
「続編のメインヒーローは、悪逆非道の父を……魔王と化した父を殺すの。あいつを止められるのは、まだ生まれてさえいない、兄とラシェルの子供なの」
「ちょっと待って。そんな危険な人物をそのままにしておくの? だったら、お兄さんを魔王にしない方法を考えないといけないんじゃない」
「あいつを止められるなら、私だってそうしてる。だけど、兄を止められる人なんてこの世にはいない。それ程恐ろしく強い、悪魔のような奴なの」
サミュエルの話は最もだ。だが。今この世界で、兄よりも強い人間なんているはずがない。そもそも、龍人の血を持つというだけでも、普通の人間ではない。それが、始祖龍の能力を持つとされる兄は、悪魔さえも逃げ出すのではないかと思える程なのだから。
「私が出来るのは、少しでも被害を小さくすることぐらい。そして……自分が何とか生き延びる術を探すことぐらい」
自分勝手だと罵られても仕方ない。だけど、私の最優先は身の安全と、兄の破滅なのだから。
「……優しくして損したって思った?」
「そんなこと思わないよ。君だって、随分と悩んだんだろうけど。だけど……俺に話しちゃって大丈夫だった? 俺はラシェル様の料理人だよ? 彼女に恩義もあるし、この話を黙っておく訳にはいかない」
「別に知られてまずい訳じゃないから。私は私の思う通りに行動するし」
ルイとラシェルだって、アンナたちからある程度のゲーム内容を聞いているはず。それに、帝国という後ろ盾がある以上、ルイだって私を邪険に出来るはずないんだから。
でも、気張っていた心が少しほぐれたような気がする。
「……あんたさ、この飲み物に変なの入れてないよね?」
「まさか! 普通のホットチョコレートだよ」
私だってこのモブの料理人が、私に危害を加えようとしたとは思わない。だけど、それでもこのサミュエルという男は不思議な人物だ。
「不思議……。今まで秘密にしていたことを、あんただけには明かしても良い気がした。……モブのくせに、何で?」
「俺も不思議だけどさ、初めて会ったのに君が心配で仕方ない」
「もしかしたら、私の前世に関わっている人なのかもね」
「えっ?」
私は何も覚えていないし、そんな可能性ほとんどないことぐらい分かっている。だけど、サミュエルの驚いた顔を見てると、何だか不思議と気分が良くなる。
居心地が良い、とはこういう人の側にいることを言うのだろう。
「ううん、私となんて関わってない方が良いよ」
私の言葉に、サミュエルは驚いたように目を見開いた。その表情から、サミュエルの優しさが伝わってくるようで、私はキリッとした胸の痛みを感じた。





