3−14 マーガレット視点
私は物心ついた時から、常に命の危険が付き纏った場所にいた。
ただ広いだけの皇城は、温もりなんて一切感じさせない寂しい場所でしかない。使用人は皆、口数も少なくまるで人形のように無表情に淡々と己の仕事のみを全うし、普段から気配を消しているようだった。
今にして思えば、おそらく彼らもまた皇族の争いに巻き込まれないため、怒りを買わないために必死だったのだろう。だが、私は愛情に飢えたただの少女に過ぎなかった。
母は私が生まれるとすぐに亡くなり、父は兄に殺された。沢山の異母兄姉たちは、自分が皇位につくために、新たな若き皇帝の命を狙うのに必死だった。
力も後ろ盾もない末の妹の存在など、皆忘れていたのかもしれない。私が住む宮殿自体も皇城の外れの小さな離宮だったこと、そして幼い頃から主要な催しが開催される度に、風邪をひいていたことも要因だろう。
更に、私の唯一の味方と呼べる乳母が、この皇城での出来事を逐一報告してくれていたこと、私への危険を出来得る限り排除してくれたことが幸いした。私はこの血みどろの皇城の中で、ひっそりと息を顰めていたことで、何とか何事もなく十歳を迎えることが出来たのだった。
十歳ともなると、この皇城の異質さ、兄弟たちの恐ろしさ、そして自分の体に流れる龍人の血が争いを好む性質をしていることを理解していた。
いつの頃か自分に危害がなければ、無関心を装うことが出来るようになっていた。
「第二皇子殿下がお亡くなりになりました」
「……そう」
「第四皇女殿下が亡くなりました」
「えぇ、分かったわ」
乳母は、その日の夕食のメニューを説明するのと同じテンションで、兄弟たちの死を伝えた。だが、それに対して最早同情する余裕はなかった。
「ここ最近、ペースが早い気がする」
ポツリと呟いた声は、乳母にも聞こえたのだろう。私の前から立ち去ろうと扉の前にいた乳母の足が止まった。
「おそらく、皇帝陛下が本格的に大陸支配のために動き出し、城を留守にすることが増えたからだと思われます。他国との戦に皇帝が出ると、皇城を自らの手にしようとする殿下方が動き始めますから」
「……帰ってきたアレクお兄様の怒りに触れて、そのまま殺されるって訳ね」
「それと……」
「何、私に関係すること?」
いつだって私の前では正直であった乳母がここまで言い淀むということは、間違いなく私に関することだろう。しかも、悪い知らせがあるということだ。
彼女は、先代皇帝陛下である父から直々に私を任されたらしい。その任への責任を人一倍感じている乳母は、唯一私に対して愛に似たものを注いでくれた人だ。
彼女がいなければ、私は人間としての喜怒哀楽を大事にすることなど、まともな感情を育むことが出来なかったのではないだろうか。彼女は私が、私の庭の中ではいつでも素直に、自由に振る舞うことを肯定してくれていたのだから。
そんな乳母が、今は珍しく眉を顰めて悲しそうな目でこちらをジッと見つめた後、堪らないとばかりに顔を伏せた。
「……皇帝陛下が、整理を始めました」
「整理?」
「はい。皇位継承権を持ち、尚且つ陛下が役に立たないと判断した者は、争いの種にしかならないからと早々に排除されていると……噂で。第四皇女殿下もそれで……」
――排除って……何?
「排除……それって、殺されるってこと?」
今までもアレクお兄様は、自分に牙を向くものは誰であっても許さなかった。それだけではく、機嫌次第では自分のかんに障ったからと剣を抜くことも多いと聞く。
「……全ては陛下のお心次第かと」
乳母の返答に、私は悪寒が走った。
トラティア帝国という大国において、全てはあの人の、お兄様の意のままだ。お兄様が望めば、何であっても手に入れることが出来るのであろう。それ程の巨大な力を持つ。それがこの国の皇帝だ。
なぜあのような狂人が、その力を手にしてしまったのか。
なぜあのような狂人に、私の命を握られなければ成らないのだろう。
私が何をしたというのだろう。もしも、私がただの平民であったのなら、このような恐ろしい人物が自国の皇帝であることに頼もしささえ感じていたのだろうか。
それが、血を分けた兄妹というだけで、常に私の心臓は兄の手の中に握られているのだ。
「嫌……嫌よ、そんなの嫌」
私の震える唇から漏れた呟きは、徐々に叫び声となっていった。その場にへたり込む私を、乳母は慌てて駆け寄ると、抱きしめてくれた。
だが、私の体が震えているのか、乳母の手が震えているのか。体の震えは一切止まることなく、私は恐怖のままに泣きじゃくった。
♢
一ヶ月、二ヶ月……半年。毎夜毎夜、眠りにつく前に今日も生き延びることが出来たと安堵する。だが、それも眠る時まで。朝になれば、また息を潜めて今日も生き延びられますようにと祈る毎日。
――次は私かもしれない。
いつも死の恐怖は付き纏っていた。病気がちだという噂と今まで目立たず過ごしてきた日々は、ある意味無駄ではなかったのかもしれない。きっと、アレクお兄様は私の存在など覚えてもいないだろうから。
だからこそ、今日も息を潜めて、見つからないようにしなくては。決して目立ってはいけない。
でないと、次に死地に送られるのは私の番。
こんなにも気をつけていたというのに、事件が起きるのはいつだってちょっとした気の緩みが出た時だ。兄が戦争に出かけたというから、油断したのだと思う。
私が自分の住む宮殿の外に出るのは、お兄様が戦に出かけた時だけ。期間はいつだって数日から長いと数週間。戦争なんて本当は喜ばしいものではない。だって、どこかで私のように死の恐怖に怯えてる人々が、大勢いるということなのだから。
それでも、誰かにとっての地獄の時間は、私にとって一瞬の安らぎになっていたのだ。
――自分の平穏の為に、見知らぬ誰かの不幸を望むなんて……こんな自分に反吐が出る。
「もっと違う世界に生まれたかったな」
シロツメグサを摘み、それを冠にしながらポツリと呟いた。
普段は足を踏み入れないが、そこそこ気に入っている離宮のすぐ側の丘には、この時期見渡す限りシロツメグサでいっぱいだった。足元は白と緑に囲まれ、顔を上げれば水色の空に真っ白な雲がゆっくりと流れていく。
行儀悪いなんて重々承知で、私は沢山のシロツメグサの上に寝転んだ。気配を消してる皇女なのだから、マナーなんて知るはずがない。乳母は、私が丘を駆け回ることも川に入ることだって禁止はしなかった。今もそうだ。
きっと不自由な生活の中で、僅かな自由を満喫させてくれているのだろう。
私が癇癪を起こせば、夜中でも付き合ってくれ、料理が口に合わないと文句を言えば、すぐに作り直した料理を持ってきてくれる。
それが、乳母なりの私に対しての優しさなのだろう。
「この冠……乳母にプレゼントしてあげようかな」
随分と皺の増えた彼女は、きっと私がこれを差し出せば目に涙を浮かべて喜ぶだろう。その姿を想像すると、自然と頬が緩む。
冠を手に立ち上がると、スカートについた土や葉っぱを払う。そして、すぐ目の前の宮殿に向かって駆け出した。
――こんな平和な日常がずっと続けばいいのに。
爽やかな風を切りながら、草を踏みしめる。視線の先には、モンシロチョウがまるで私を誘導するように、私の前に現れた。ふわりふわりと軽やかに舞うチョウを追いながら、まるでこのままどこまでも走っていけそうな気分になる。
だが、あともう少しで私の住む宮殿、というところで、門の前に人だかりが出来ていることに気がついた。
――あれは……まさか、近衛騎士団? なぜ戦場にいるはずの彼らが、こんなところに……。
何が起きているのか分からず、足を止めて注意深く彼らの様子を観察する。だが、黒い集団の中から一際眼光の鋭い赤紫色の瞳がこちらに向いた。
ビクッと肩が跳ね、途端に全身から血の気が引く。
――今すぐ逃げないと……。
そう分かっていながら、足に重石が付いたように動けない。震える手から、シロツメクサの冠がポトリと落ちた。
「なんだ、この見窄らしいネズミは」
ここまで距離があるというのに、凛とした低い声は、いやに響く。
集団の中から、一際大きな体をした美丈夫が前に出た。漆黒の騎士服に真っ赤なマントを靡かせながら、私と同じオレンジ色の肩上のストレートの髪を揺らしながら、獲物を見つけた肉食獣のような目付きでこちらから一切視線を逸らすことがない。
禍々しく重い空気を纏ったその人は、アレク・トラティア皇帝その人だった。
「……あっ……あの……」
「陛下。こちらのお方が、この宮殿の主人である、第七皇女殿下でございます」
お兄様の隣に立つ一際美しい人は、少年から青年へと移行したばかりのまだあどけなさが残る人だ。だが、狂人の隣にいてあのように温和な微笑みを浮かべるような人だ。普通の人間なはずがない。
「……こんな奴がまだいたのか」
お兄様の私を見る目はまるで虫ケラを見るように冷たいもので、足の震えが止まらず、思わずその場に跪く。だが、目線が下がったことで、お兄様の手にもの剣の先から真っ赤な血が滴り落ちているのが目に入った。
「ヒッ! なっ……」
よくよく周囲を見渡してみれば、あちこちに死体が転がっていた。それは、どれもが見たことがある人物――そう、私の宮殿の使用人たちだった。
その中に、血の赤に染まりながらもよくよく見れば元はクリーム色がと分かるエプロンをつけた女性が倒れているのが見え、口から悲鳴が漏れる。
――あっ、あれは……。
宮殿のメイド服とは形は似ていても色が違うエプロンを纏っているのは、この宮殿内でたった一人。私の乳母だけ。つまり……あそこに転がっているのは……。
極限まで見開いた瞳、両手で必死に塞いだ声から漏れるのは、嗚咽とも呼べない悲鳴だけ。
だが、そんな私の様子にも一切表情を変えずに、鈍い光を纏う剣を携えながら近寄るお兄様は、興味なさそうに乳母を一瞥した。
「この女はお前の使用人か? 主人を出せといっても、ここにはいないと拒否するからこうなったのだ」
「あっ……あっ……」
血の繋がりはなくとも、唯一の家族とも呼べる乳母を失った私は、その仇である肉親を睨みつけることさえ出来なかった。次に殺されるのは、間違いなく私。恐怖に震えながら、必死に頭をフル回転させる。だが、震えからガチガチと歯が鳴ってしまう。
「い、戦に出かけたの……では……」
「あぁ。骨のない奴らだったから、あっという間に全滅だった。まだまだ動き足らないからな。……少しは暇つぶしになるかと思ってここまで来てやった。こんな皇城の外れにこんなにも小さい建物があるなんて知らなかったよ。……ましてや、第七皇女の存在さえも、な」
「わ、私には何の力も……」
「一応は皇族なのだろう? お前はまだ未開花なのか」
開花というのは、始祖龍の子孫である皇族のみが持つことが出来る特殊能力のことだ。とはいえ、血の薄くなった現代では、もはや開花することが奇跡であり、未開花で生涯を終えることがほとんどだ。
――乳母の言っていた能力がないものを排除、というのは……開花する見込みのない者を処分するという意味だったのか。つまり……私は。
「少しでも使えるようであれば生かしてもいいかとは思ったが、そうでないのなら死んだ方がマシだな」
一切光のない赤紫の瞳は、私の喉元に真っ直ぐ剣を伸ばした。無抵抗なこの状況で、あと数ミリでも剣を動かせば、私の喉は切り裂かれてしまう。
――怖い……怖い……。誰か、助けて。いや……死にたくない!
「……西の辺境に、へ、陛下のお探しの……ドラゴンの心臓が眠っているはずです」
――何? 私、今……何を言っているの?
間違いなく自分の口から発せられた言葉にも関わらず、自分が何を言っているのか理解が出来ない。ましてやドラゴンの心臓などというお伽話で出てくるような至宝の在処など、私が知るはずもないのに。
だが、お兄様の気を引くのには成功したのかもしれない。これまでずっと無表情だったお兄様が、僅かにピクッと眉を寄せたのだった。
「ほう。命乞いのつもりか?」
私の真意を探るように、お兄様は手に持つ剣で私の顎を上げた。
もしここで私のはったりが嘘だとバレることになれば、間違いなく私は明日の朝日を見ることなく、永遠の眠りにつくことだろう。こんな発言をしてしまった以上、少しでも怯んだ態度を出すことは出来ない。
「もしも本当に見つかるようであれば、私を殺すのは止めた方が良いかと」
「……お前にその価値があると」
ゴクリ、と唾を飲む。だが、目線は一切動かすことをしなかった。すると、お兄様は血を払うように剣を空に切った後、そのまま剣を鞘に戻した。
「半年の猶予をやる。もし見つからなければ、俺が殺した親族の中で一番酷い死に方をするだろう」
ギラリとこちらを睨みつけながら、お兄様はマントを翻した。
――た、助かった……?
お兄様が乗った馬が去っていく音を耳に捉えながら、私は自分の意識が遠ざかっていくのを感じた。





