3−6
リュート様とマーガレット皇女がデュトワ国にやってきてから数日が経った。
この数日という僅かな期間にも関わらず、私はマーガレット皇女に振り回される日々を送っている。
今日は、彼らをトルソワ魔法学園へと案内するため、外出をしたのだが、それだけでどっと疲れてしまった。
学園内でマーガレット皇女は、初めて会った時と同様にキラキラと目を輝かせた。今にも駆け出しそうなマーガレット皇女殿下を、リュート様が注意する、という流れを何度繰り返しただろうか。
校舎内だけでなく、図書館や庭園、それにアリーナ。広い校内は短時間で回るだけで十分な運動になる。帰りの馬車では、満足気だった皇女殿下も疲れ果てていたのか、スヤスヤと眠りについた。
彼らを王宮に送って行った後、私はそのまま屋敷には帰らず、王宮に留まった。というのも、ルイ様と約束があったからだ。
ルイ様の自室で待つように言われていた私は、ルイ様が戻って来るまでトルソワ魔法学園の新学期に向けた資料作りに勤しんでいた。時間も忘れ集中していた私は、ドアが開く音にさえ気づかず、近づいてくる靴音にようやく顔を上げたのだった。
「邪魔しちゃったかな?」
「いえ、ちょうどキリの良いところまでまとめたところです」
「そう、良かった。部屋に食事を準備するように手配したけど、ディナーを一緒に過ごしてくれる?」
「もちろんです」
机の上に広げた書類を片付けながら微笑む私に、ルイ様は嬉しそうに頷いた。
テーブルに並べられたパンやグリルされた野菜、そしてよく煮込まれたビーフシチューは、スプーンを入れただけで、肉がほろほろと解ける。
焼きたての温かいパンを一口大にちぎり、口元へと運ぶ。すると、ほのかに甘くふんわりとした柔らかさに頬が緩む。
顔をあげると、赤ワインの入ったワイングラスを片手に、微笑みながらこちらを眺めるルイ様の視線と合った。
「口に合ったようで良かった」
「……とっても美味しいです。王宮の料理人の腕は確かですね」
「あぁ、ラシェルももうすぐここで暮らすのだから、毎日美味しいものを食べて欲しいからね。サミュエルの料理がいいというのであれば、王宮に戻しても良い」
「サミュエルは元々、王宮料理人でしたものね。食が細かった頃、ルイ様が心配してサミュエルを我が家に派遣してくださったのですもの」
親しみやすいサミュエルは、どの環境であっても上手くやっていけるだろう。何より、本人は料理人という仕事に誇りを持っているのであって、職場によって態度や料理を変えることはない。王宮や貴族の屋敷だろうと市井の食堂だろうと、彼はきっと同じように真心込めて料理を作るだろう。
サミュエル本人は、将来的に旅をしながら各地の料理を学んでいきたいという夢もあるらしい。
「でも、私は自分が住まいを変えるからといって、サミュエルまで変わる必要はないと思っています。本人が王宮に戻りたいというのであれば、王宮に。マルセルの屋敷が良ければ、そのまま侯爵邸で働いてもらえればと思います」
「……そうか」
「サミュエルは私に食事の楽しさを教えてくれた恩人でもありますから、本人の自由にして欲しいのです」
「では、その辺りはサミュエルに任せるとしよう」
ルイ様は、私の返答に納得したように微笑みながら頷いた。そんなルイ様を見ていると、思わず不意に笑みが溢れる。
「ん? どうかしたか?」
「いえ……何というか。ルイ様が、私と結婚した後のことを当たり前のように想像してくれているのが、とても嬉しくて」
ルイ様はビーフシチューをスプーンで掬っていた手を止め、不思議そうに首を傾げた。
「ラシェルは考えない? 私と結婚した後の生活を」
「考えないことはないのですが……何だかまだ夢のようで。現実感がないというか」
「……そうか、現実感がないか。それは困ったな」
視線を下に落としたルイ様は、難題に直面したかのように、深刻そうに眉を寄せた。
「いえ、悪い意味で言ったのではありません。ルイ様との結婚が夢のようだからこそ、まだ思い描けないというか……」
これは私の性格によるものだと思うが、幸せだからこそ、最悪を思い描いてしまう。もしかすると、この幸せがいつか壊れてなくなるのではないかという恐怖だ。
だからこそ、今の幸せを感じるために、あえて未来を当たり前のように考え過ぎないようにしている。自分が当たり前に王太子妃になるのだと驕らないためにも。
だけど、それが逆にルイ様には結婚生活が楽しみではない、と受け取られる可能性があったのかもしれない。
「ラシェル、君を不安にさせてしまって申し訳ない」
「不安だなんて……」
「いや。逆に今、ラシェルの気持ちを聞けて良かったんだ」
青褪める私を安心させるように、ルイ様は眉を下げながら優しく微笑んだ。
「ちょうど、考えていたことがあったんだ。侯爵に絶対ダメだと止められていたから、渋々諦めていたのだけど。……でも、ラシェル自らが希望してくれるのなら、侯爵も前向きに検討してくれると思うんだ」
「父が何かご無礼を?」
父とルイ様の間で、知らない間にどんなやり取りがあったのか。首を傾げる私に、ルイ様は首を横に振った。
「違うんだ。私が無理を言って、結婚準備のために事前に数日から数週間、王宮で暮らすのはどうかと提案していたんだ。ちょうどドレスも仕上げにかかっているし、王太子妃の部屋の内装を決めたり、結婚式の準備でラシェルが王宮に来る機会が増えるだろう」
「あっ、そうですよね。ドレスの手配も全てルイ様に任せてしまって……」
結婚式は今から半年後の秋に執り行う予定になっている。来客のリストアップやパーティーの細かな準備は既に進めていたが、最近はトルソワ魔法学園の件に掛かりっきりになってしまっている。
私が中等部や留学生の件に集中している間、多忙なルイ様が私の代わりに結婚式の準備を引き受けてくれているのだろう。
「ルイ様もお忙しいのに申し訳ありません」
「いや、結婚式の準備は仕事の気分転換になるし、ラシェルのドレスは自分がデザインに関われるなんて、光栄でしかないよ」
「私の希望も沢山聞き入れてくださってくれていますし、それに私がルイ様に決めていただきたかったのですもの」
「ラシェル……」
王太子の結婚式というのは、政治としてかなり重要なものだ。自国だけでなく各国の王侯貴族を招き、デュトワ国がこれからも安泰だとアピールしなければならないからだ。
長年の慣わしに沿った形式は必要だし、自分たちの自由には出来ない。それでも、ルイ様は私との結婚式を政治だけでなく、大事な思い出として大切にしてくれている。それが伝わるからこそ、尚更嬉しい。
胸の奥に蝋燭の火が灯るように、じんわりと熱が伝わる。この気持ちをルイ様に伝えたいのに、気持ちがいっぱいでなかなか言葉に出来ない。だからこそ、私はルイ様に伝わるように、精一杯笑みを向けた。
「君さえ良ければ、新生活準備のための王宮滞在について、前向きに検討して欲しい」
「えぇ、そうですね」
「それにほら、オルタ国ではすぐに会える距離だっただろう? 国に戻ってからなかなか会えなくなってしまったから。……正直言うと、私がラシェルに会えなくて寂しいんだ」
視線を逸らし頬を掻きながら、ほんのりと頬を赤らめるルイ様の言葉に、私は胸をキュッと掴まれる感覚がした。そんなことを言われてしまったら、否とは言えない。
それに、私もルイ様と同じ気持ちだったのだから。オルタ国では楽しいばかりではなかったが、滞在した期間の短くない時間、ずっとルイ様と一緒にいられたことは、間違いなく至福だった。
「ルイ様……私も、同じ気持ちです。お父様への説得は私にお任せください。きっと、良いと言ってくれるはずです」
両手を握りしめながら言う私に、ルイ様は嬉しそうに微笑んだ。
食後の紅茶を飲みながら、私はルイ様に気になったことを相談することにした。
「皇女との関係性が良くない?」
「……私にも思い当たる節はないのですが、好かれてはいないようです」
「皇女に会うのは今日で2回目だったのだろう?」
「はい。リュート様にも聞いてみたのですが、はぐらかされてしまって。やはり、今後のことを考えると良好な関係を築けていければと思うのです」
子猫のような皇女殿下は、とても可愛らしい。皇女としてはまだまだ幼さが目立ち、立ち回りは上手くはないだろう。いつか大きな失敗をしそうで、危なっかしさがある。そんな不器用そうなところが、手を貸してあげたくなると思ってしまうせいなのだろうか。
「今日はトルソワ魔法学園を案内してくれていたのだったな」
「はい。皇女様はいたく感動したように、終始楽しそうに過ごしておりました。……でも、少し気になることがあって」
「気になること?」
ルイ様はカップを持ち上げた手を止め、一度テーブルへと置いた。
「何が気に掛かったんだ?」
ルイ様の質問に、私は昼間の皇女殿下の様子を思い出す。
「どうやら、トルソワ魔法学園について事前に調べていたようで、建物の構造や教室の位置まで理解しているように感じました」
皇女殿下には、色んな場面で違和感を覚える。だが、今日一番不思議だったのは、構内の地図を完璧に頭に入れているような振る舞いだった。更には、生徒の中でも存在を忘れる人が多いという、屋上庭園に行きたがっていたのも気にかかる。
屋上庭園といえば、ルイ様のお気に入りの場所だ。学生時代は、生徒会の業務の合間に良く一人で休憩に行くことが多かった場所。中央のベンチで一息吐くのが、癒しの時間だと仰っていた。
その場所を知っていただけでなく、ピンポイントでルイ様が好きなベンチに直行していたことも不思議だと感じた。
――皇女殿下とルイ様は、未だ簡単な挨拶程度しか交わしていないはずなのに。
もしかすると、私の気にし過ぎなのかもしれない。デュトワ国に好意的な様子の皇女殿下は、トルソワ魔法学園に通うことをとても楽しみにしている。事前に校内図を入手して、屋上庭園という場所があるということを知り、たまたまルイ様が好きなベンチが気に掛かった。……その可能性だってある。
なのに、どうしてか。違和感は膨らむばかりだった。
「それに……」
「何か気になる点でも?」
「え、えぇ。リュート皇子殿下とマーガレット皇女殿下の会話の中に……予知、と」
そう。もう一つ、気に掛かっていたことがある。
彼らは私には聞こえていない、もしくは聞こえていたとしても良いと思っての発言かは分からない。だけど、聞き間違いでなければ、確かにリュート様は皇女殿下に対して、予知という言葉を使っていた。
「予知? どちらかが予知の能力を持つ、というのか?」
私の言葉に、ルイ様は視線を鋭くした。
「……私も分かりません。ですが……もしかしたら、マーガレット皇女がそのような能力を持つ可能性があります。私もお二人の会話から予測したに過ぎませんので、確実ではありませんが」
「予知……か。デュトワ国の聖女の力も、時を操るものだ。……帝国の龍人としての血が、戦闘以外の隠された能力を持っていたとしてもおかしくないな」
「……私もそう思います」
龍人の能力と聞いて最も思い浮かぶのは、人間離れした強靭な肉体と脅威の回復力だろう。だが、それだけでは納得出来ない程、帝国の戦強さはずば抜けている。
光の精霊王のように未来を知ることが出来る能力があったとしても、おかしくはないのかもしれない。
「予知という能力があるとすれば、辻褄が合う気もするのです。なぜ、留学生の話に遠い異国の地である帝国の皇族の方々が名乗り出たのか」
「ラシェルは、君の元にいるドラゴンのことを既にあの2人は知っているのではないか、と考えているんだね」
「正直、皇女殿下の反応からして、ドラゴンのことを知らないのではないか、と何度も思いました。知っているのであれば、ドラゴンのことを探ろうとするのではないかと。……ですが、皇女殿下もリュート様も、一切そのような素振りを見せません」
「では、何故?」
「……知っていると仮定した方が、行動に納得が出来るのです」
ドラゴンが私の手元にいることを知っていて、あえて今はその時ではないからと一切触れない。そう考える方が、あまりに自然なのではないか。……ルイ様と話すことで、思考がクリアになってきたのだろうか。徐々に、彼らの態度をそのまま受け取ってはいけない気がしてきた。
「留学期間は問題がなければ半年程だろう。知らない振りをしながら、機会を伺っているのかもしれない……ということだね」
「はい、そうです。であれば、私にだけ当たりが強い理由も納得です」
皇女殿下に言われた、私の化けの皮、というものは何を指しているのか。いまいちよく分からなかったが、ドラゴンのことを気づいているのであれば、話は別だ。
「元々、ドラゴンはトラティア帝国のものだ。それを奪ったと思われたのかもしれないな」
「はい。機会を見て、ドラゴンとの接触を図ろうとする気かもしれません」
左腕のバングルに魔力を込める。すると、無音のまま白いドラゴンだけが姿を現す。
ドラゴンは相変わらず眠るだけで、何の変化もない。ドラゴン自身に魔力を込めたところで、更に眠りが深くなったようにスヤスヤと寝息を立てるだけ。
手元のドラゴンを見つめながら、無意識にため息が漏れた。
席を立ったルイ様が、私の元までやって来ると、その場で膝を着く。そして、私の手元のドラゴンをルイ様が優しい手つきで掴み上げ、自分の腕の中に入れる。
「難しい問題だ」
じっと観察するようにドラゴンを見つめるルイ様の眉間には、グッと力が込められている。
「こちらとしても、帝国と争うつもりなどない。だとして、バングルが外せない以上、あちらとしてもラシェルの手からドラゴンを連れ出すことも難しいだろう」
「それに、このドラゴンがどのような力を持つのかも分かりません。今の皇帝は、随分と荒い方だと聞きます。このドラゴンが帝国に渡り、大陸中が戦争にでも巻き込まれたらと思うと」
「あぁ。武力で帝国に勝つことなど出来ない。この国を消滅させる危険さえあるな」
この小さくて見た目は愛らしいドラゴンが、どのような争いを生むのか。ルイ様も、そのもしも、を考えているのだろう。ドラゴンを見つめるルイ様の視線は、どこまでも険しかった。
「ルイ様、どうしますか?」
「……それとなく探ってみるか」
数秒の沈黙の後、ルイ様の呟きが部屋に響いた。





