2-74
その後、ルイ様はオーレリア様に面会を申し出た。すると、オーレリア様はすぐにそれに応え、翌日にはルイ様とオーレリア様の対面が叶った。
以前オーレリア様とお会いした二の宮の応接間で、ルイ様と共にオーレリア様を待っていると、程なくオーレリア様の到着が告げられた。
オーレリア様は入室するなり、ルイ様に駆け寄った。
「ルイ! もう起きていて大丈夫なの? 怪我の具合は?」
「オーレリア様、お医者様からルイ様は完治していると診断されておりますので、ご安心ください」
「でも……」
オロオロと口元に手を当てて、ルイ様の様子を伺うオーレリア様は心配そうに顔を歪めた。
「ラシェルのいう通り、本当にもう大丈夫ですから」
ルイ様の言葉に、オーレリア様は「そう……」と戸惑いがちに呟く。だが、すぐに頬を紅潮させて柔らかく微笑んだ。その表情は、安堵の色が強くどれ程ルイ様の体調を気にされていたかがよく分かる。
「あなたの顔を見るまで気が気じゃなかったわ。ようやく安心して眠れるわ」
「では、これで十分ですね」
ルイ様はチラッとオーレリア様に冷ややかな目線を向けると、未だ立ったままのオーレリア様を見て、自分も席を立とうと腰を上げる。
すると、ルイ様の行動に焦ったように、オーレリア様はルイ様の真向かいの椅子に腰を下ろした。
「そ、そんな……今日はまだ時間を取れるのでしょう? 私もあなたと話したいことが沢山あるのよ」
「……そうですか。では母上の話とやらから聞くことにしましょう」
今日のルイ様はいつものように愛想を振り撒くつもりは一切ないようで、珍しく真顔で答えた。そんなルイ様の様子に、オーレリア様は困惑したように、私に目線を向けた。
重苦しい空気が流れる中、沈黙に耐えられなくなった私は、壁際で待機していたサラに目配せをする。
「サラ、オーレリア様にお茶を」
「はい。王妃様、どうぞ」
サラがオーレリア様の前へカップを置くと、サラの姿を見たオーレリア様が何かに気づいたように、にこりと微笑んだ。
「あら、あなた……調査団と一緒に来ていたラシェルさんの侍女でしょう? 道中世話になったわね」
「いえ、とんでもございません。私の方こそ、皆さんによくしていただきまして、本当にありがとうございます」
サラはオーレリア様に恐縮することなく、陽だまりのように微笑むと、一礼して再び元の位置へと戻った。
「とても素敵な方ね。ラシェルさんが王宮で暮らす時には、彼女も連れて来るのかしら」
「出来ればそうしたいと考えています」
私にとって姉のような存在であるサラへのお褒めの言葉は、自分のことのように嬉しくなる。思わず喜色をあらわにする私に、オーレリア様は目を細めた。
「そうよね。結婚して環境がガラッと変わるもの。信頼する侍女を連れて来たいと思うのは自然なことだわ。もし侍女が足りなければ、私の侍女を数人連れて行っても良いわ」
「いえ、そんな……」
王妃であるオーレリア様の侍女を私にだなんて、とても畏れ多い。戸惑いながら遠慮の言葉を紡ごうとすると、それを告げるよりも先に、ルイ様が口を挟んだ。
「母上、ラシェルの侍女に関しては私がきちんと信頼できる者を選びますので。お気遣いは無用です」
先程とは打って変わってにっこりと微笑むルイ様は、その笑みとは裏腹にキッパリと否定の言葉を告げた。
今の言葉を直訳すれば、私の妃の侍女に信用に値しない人物を据える訳にはいかない、ということ。つまりは、あなたの人選は一切信じない、と言っているようなものだ。
隣に座るルイ様の冷気を纏った微笑みに、室内の気温が一気に下がった気がする。
焦る私を他所に、オーレリア様はそんなルイ様の変化に気が付かないのか、困ったように眉を下げた。
「でも、ルイと結婚するということは、私の娘になる訳だし……。これから親しくなれたらと思っているの」
「娘、ですか。息子である私とも、プライベートでお茶を飲む機会もありませんでしたけど」
流石のオーレリア様も、今のルイ様の言葉は、返す言葉がなかったようだ。困ったように視線を彷徨わせながら、身を縮こませた。
そんなオーレリア様の態度に、ルイ様はふうっと息を漏らした。
「やはり、母上はお変わりありませんね。……私のことが苦手なのでしょう? それなのに、何故急に関わろうとするのです?」
ルイ様の言葉に、オーレリア様はハッと顔を上げた。
「あなたのことを嫌いだと思ったことなどないわ! それは本当よ。だけど……どう接すればいいのか分からなくて。あなたは、ほら……一人で何でもできる子だから。私のダメなところに呆れられているのも分かっていたの」
オーレリア様がルイ様のことを想っていながら、近づきたいと思いながら、近づく勇気が出ないことは、以前オーレリア様とお話した時から知っていた。
ルイ様もオーレリア様の気持ちに関しては、特別否定するつもりもないらしく、落ち着いた態度で話を聞いていた。ただ、だからと言って理解して納得が出来るか、と聞かれればそうではないらしい。
ルイ様は、眉を寄せて不快そうにため息を吐いた。
「であれば、以前までのような付かず離れずの距離感が私たちにはちょうど良いかと思いますが」
「今までが異常だったのよね。……本当にこんな母親でごめんなさい」
「別に構いませんよ。母上がどんな母親であろうと」
何の感情もないような平坦な声で、ルイ様は凛と顔を上げた。
「私はもう母親を必要とする年齢ではありませんから」
「ルイ……」
オーレリア様は、僅かに目を見開いた後、目を伏せた。膝の上で組んだ手が僅かに震えているのが見てとれた。
「母上が何を考えて急にこんな行動に出たのかは分かりません。もしかすると、後悔や懺悔なんて感情が大多数を占めているのかもしれませんね。それは母上の都合と感情なので、否定はしません」
言葉だけを聞けば辛辣に聞こえるかもしれない。けれど、ルイ様の瞳は凪いだ海のように穏やかで、口調も諭すような静かなものだった。
「ですが、今更私に一般的な母と子といった対応を求めているのであれば、それは申し訳ありませんが、応えることができないかと思います」
「えぇ、分かっている。あなたにそう言わせてしまった私が悪いの。こんな関係になってしまったのも、全ての元凶も私だということも。いつも嫌なことから逃げてばかりいて、現実逃避するような人間だもの。それでも、どんな形でも、あなたとこうして話が出来ることが嬉しいわ」
オーレリア様は、寂しそうに眉を下げながら微笑んだ。その表情を見て、ルイ様はポカンと口を開けた。
「驚きました。ここまで言えば、泣くか逃げるかと思っていましたが……。母上の横顔や俯いた顔、後ろ姿はよく見ますが、真正面から目が合ったのは、初めてな気がしますね」
「……あなたの言う通り。ルイが重傷を負ったと聞いて、私は後悔した。だからと言って、あなたが望まないように、今更母親面はしないわ。それでも、あなたの無事をすぐにでも確認したかっただけなの」
「オーレリア様……」
「きっとルイが思っているよりも、私はあなたを見ているから。何故……あなたが今日何故私と会おうと思ったかもちゃんと分かっている」
ルイ様が想像するよりも、オーレリア様はルイ様を見ている。……その言葉に、私はハッとした。
そうだ。前にオーレリア様は、私が3年前に魔力を失ってから、ルイ様が変わったと言っていた。笑い方が変わったことも知っていた。
それはつまり、ルイ様の知らないところで、オーレリア様はずっとルイ様を見守っていたことに他ならない。
「私が何故、今日母上と会うと決めたかを知っている?」
ルイ様は怪しむように眉を顰めた。だが、オーレリア様は一瞬口をギュッと噤んだ後、意を決して開けた。
「ジョアンナのことでしょう? 急に用事が出来てデュトワに戻ると言って発ってしまったけれど……それは、嘘よね」
――オーレリア様は、バンクス夫人のことをご存知だった?
オーレリア様の言葉に、一気に部屋の空気がピリッとし、緊張が走る。
「……知っていたのですか」
「一応、私も王族として生まれているもの。近しい者が怪しい行動を取っているのに、気づくなという方が無理よ」
隣を見遣ると、ルイ様も驚いたように瞠目していた。そして、しばらく考え込み始めたようで口を閉じた。
たっぷりの沈黙の後で、ルイ様はオーレリア様へと視線を戻した。
「バンクス夫人は母上は関与していないと言っていましたが、それは本当ですか」
オーレリア様に何を問いただすのかと、こちらまで緊張していたが、思いの外直球な質問に驚いた。だが、オーレリア様はルイ様の質問に、オドオドとすることなく姿勢を正し顔を上げた。
「そうね。関与はしていないけど、共犯ではないとも言い切れない」
――共犯ではないとは言い切れない? 随分と歯切れの悪い答えだけれど、どういう意味だろうか。
内心首を傾げる私の視線に気づいたように、オーレリア様は大きく深呼吸をした。
「薄々気がついていたの。ジョアンナが隠れて何かしていることも、ヒギンズ前公爵夫人が私と親しくする理由は娘をルイの婚約者にしたいからだ、ということも。でも、それを問い詰めたり明らかにすることはしなかった」
「気がついていたのに、問い詰めなかったと?」
「……事実から目を背けている間は、私は知らなかったのだと言い訳が出来た。もし事実だったら、私も疑われるわ。陛下は私が嫁いで来た時から、オルタ国を警戒していたもの。だから、私には重要な権限も役目を与えず、離宮に籠ることを許していたの。……もし疑われるようなことがあれば、陛下は私を切り捨てるかもしれない。……そう思ったの」
「国や民よりも、保身を優先したのですね。国への裏切りだとは思いませんか」
裏切りと言う言葉に、オーレリア様は焦ったように首を左右に振った。
「私にとって、守るものは全てデュトワ国にあるわ。……国を裏切るつもりは一切なかったの」
「だったら何故、ジョアンナ・バンクスを近くに置き続けたのですか。ヒギンズ侯爵家を好き勝手させていたのですか。遠避けることだって出来たのではないですか?」
「私一人が何かしたところで、何も変わらない。ジョアンナをオルタ国に帰せば、お兄様はジョアンナの代わりを送って来るだけ。それに、ヒギンズ侯爵家を私が冷遇してどうなるの? ヒギンズ家はデュトワ国の有力貴族よ」
きっとオーレリア様は、ご自分に何度も何度も言い聞かせたのだろう。私一人の影響など何もないのだ、と。そうして何度も目を背けた。
自分が信じたいものを見たいから。
自分が守りたいものを守るため。そう信じて。
オーレリア様は、僅かに震えた手で、目元を覆った。
「……それに、私が心細い時に支えてくれた人たちは、間違いなくジョアンナやヒギンズ前侯爵夫人だもの」
「利用する為に近づいた人たちでしょう?」
「利用される為……それが本当だったら、私の存在って何? 実の兄だけでなく、姉のように信頼している侍女から
裏切られ、仲の良い友人からは利用だけされる。夫からはオルタ国の元王女というだけで、ずっと監視の目が付けられている。自由なんて何もない、無力な存在じゃない」
オーレリア様が抱えてきたのは、満たされない孤独感なのではないだろうか。王女として生まれたにも関わらず、ずっと劣等感が付きまとう中、自分を見てくれる眼差し、差し伸べてくれる手を払いのけることが出来なかったのかもしれない。
「私はただ……愛する夫と子供たちに囲まれて暮らせれば、それだけで何もいらないのに。何も望むことなんてないのに」
オーレリア様は、バンクス夫人の言うように、幸せな家庭を夢見る普通の少女だったのだろう。けれど、環境がそうはさせてくれなかった。
何より望む普通こそが、一番遠くて手に入れられないものなのかもしれない。
それは、同じく王族に生まれたルイ様も同じだ。
「それこそが一番贅沢な望みなのでしょうね」
そう言ったルイ様の言葉は、とても深い響きを持った重い言葉だった。
「たったそれだけを望むことがそんなにも悪いこと?」
「あなたは王妃であり、国母なのです。自分の幸せの前に、民の幸せを考える。陥れようとする人間を常に警戒し、国の未来のための選択をする。それが務めなのです」
決意を固め、自分の為すべき事を理解していて邁進出来るルイ様は、オーレリア様にとって眩しい存在なのだろう。
その証拠に、オーレリア様は瞬きもせず、真っ直ぐにルイ様を見つめた。
「本当にあなたは凄い子ね」
「母上は、もっと外に目を向けた方が良いかもしれませんね。……不自由さを作り出しているのは、自分自身かもしれませんよ。一度自分が住む国をよく見たらどうでしょう」
それまで淡々と話していたルイ様が、窓の向こうへと目線を向けた。
つられるように、オーレリア様も「外……」とポツリと呟きながら、景色へと視線を這わす。大きなガラス扉の向こうには、雲ひとつない青空が広がっていた。
「思ったほど世界は悪くないものです」
そう言いながら、僅かに口角を上げたルイ様に、オーレリア様は驚いたように目を見開いた。
ルイ様からオーレリア様へ向けた言葉は、親子として微かにあった情だったのか、それとも別の感情だったのかは分からない。
けれど、もしかするとオーレリア様にとって、今後を変える一言になるかもしれない。そんな予感がした。