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2-72

 先程までバンクス夫人と国王陛下が話していた部屋で、私とバンクス夫人はテーブルを挟んで向かい合わせの一人掛けソファーにそれぞれ座っていた。

 どうせならばルイ様にも一緒に話を、というバンクス夫人の希望でテオドール様がルイ様を呼びに行った。

 待っている間、気まずさから無言になってしまう私と違い、バンクス夫人は私にお茶を入れてくれただけでなく何事もなかったかのように「どうぞ」と私にお茶を勧めた。


 ――不思議なほど、いつものバンクス夫人と同じ立ち振る舞い。なぜここまで堂々とできるのだろう。


 私はそっとバンクス夫人の様子を窺い見る。すると、その視線に気づいたバンクス夫人は、私にいつも通り綺麗に微笑んでみせた。


「あ、あの」


 意を決して口を開いた瞬間、ドアが開き、そこから表情を固くしたルイ様とテオドール様が入ってきた。


「お二人もお茶でもいかがです?」


「結構です。ある程度はテオドールから聞いていますので、本題に入りましょう」


 キッパリと断るルイ様は、二人がけソファーに腰を下ろすと、足を組み膝の上に両手を置いた。

 そんなルイ様にバンクス夫人は「せっかちですのね」とクスクスと笑った。


「さて、何から話せば良いのかしらね。王太子殿下は、どこまでご存知なのかしら」


「あなたがオルタ国のスパイだということは、確信を持ちました。……もちろん、一応弁解は聞きますよ」


 スパイという言葉に、ハッと顔を上げる。だが、バンクス夫人はルイ様の言葉は想定内だったのか、微笑みを絶やさず、優雅にカップを手に持つと一口お茶を含んだ。

 その堂々とした振る舞いは、私の知っているいつものバンクス夫人で、彼女から何度も優しくされた思い出が多々蘇ってくる。


「バンクス夫人がスパイなんて……嘘ですよね」


 思いの外震える声でそう問いかけると、バンクス夫人は僅かに眉を顰めた。


「ラシェル様。残念ながら、王太子殿下の言葉は本当です」


「そんな……いつから……」


「ずっとよ。オーレリア様がデュトワ国に嫁がれた時に、侍女として着いて行ってからずっと。オルタ国と縁のある貴族たちと繋がり、デュトワ国の情報を陛下に報告してきたの」


 バンクス夫人は言い訳も一切せず悪びれる様子もなく、まるで世間話をするような表情で事実のみを淡々と話した。

 そんなバンクス夫人に、ルイ様はより一層目元をキツく細めた。


「……罪に問われる覚悟がある、と」


 持っていたカップをテーブルに置いたバンクス夫人は、一度小さく息を吐いて顔を上げた。その表情に私だけでなく、この場にいた皆が息を飲んだ。


「もちろん覚悟の上です。私の命も人生も、一度死んだようなものだもの」


 かつてここまで激情をあらわにしたバンクス夫人を見たことがない。微笑みを一切消し、ルイ様の視線を真っ直ぐ受け止めたバンクス夫人は、なぜこの選択をしたのかを語り始めた。


 静かに語り始めたジョアンナ・バンクス夫人の半生は私の想像を絶する日々だった。





 オルタ国の公爵令嬢として生まれた私は、はたから見れば誰もが羨む生活を送っているのだと思われていたのだろう。だけど、私は生まれてすぐに母が亡くなって、物心がつく頃には公爵家の家族の一員ではなかった。


 もちろん戸籍上は公爵令嬢だった。けれど、父にとって家族とは父の後妻と義妹だけだった。母の形見も自分の宝物も全てを義妹に取られ、躾と称して鞭を打たれ、使用人にも陰口を言われた。

 幸せだと思った瞬間も、愛された記憶も一切なかった。――そう、陛下に出会うまでは。


 屋敷に居場所がない私ではあるが、父は私を権力の駒として使いたかったようだ。陛下と私の年齢が近かったため、陛下の友人として週に一度王宮に呼ばれるようになった。

 その時間だけが、唯一私にとって安らげる時間だった。


 幼い頃の陛下は、甥のイサークと容姿も性格もよく似ていて、活発で明るく正義感の強い方だった。私はすぐに陛下に夢中になったし、陛下も私のことを特別視してくれていたようだった。

 オーレリア様がお生まれになってからは、陛下が歳の離れた幼い妹君をとても可愛がって、よく私と会う時も連れて来ていた。


 私には血の繋がった妹もいたが、妹のミネルヴァは義母の影響で、私のことを心底嫌っていた。だから、純粋に慕ってくれるオーレリア様のことを、私は本当の妹のように感じ、心から可愛がっていた。

いつだったか、オーレリア様が人形のようなまん丸の瞳を私と陛下に向けて、


「おにい様とジョーがけっこんしたら、ほんとうのおねえ様になってくれる?」


 と仰ったことがあった。


 陛下はその言葉を聞いて、真っ赤なリンゴのような顔をして、


「ジョアンナさえ望むなら」


 そう真っ直ぐな視線を私に向けた。私はその時、何も言えずに陛下と同じように頬を染めながら頷くことしかできなかった。だけど、そんな私のことを、

 キラキラした目で陛下は見つめてくれた。


 夢のような日々だった。今思い返しても、あんなにも幸せな日々は、この先も来ないでしょうね。


 ――けれど、夢は夢のままだった。


 オルタ国の王太子妃になることを、義母とミネルヴァが許すはずもなかった。彼女たちは欲深く、狡猾な人間だった。


 蛇のように、獲物を泳がせていつ仕留めるかを待っていた。そして、時が来たら丸呑みするように。


「お姉様、明日の婚約式楽しみですね。婚約が正式に結ばれれば、妃教育のために王宮で暮らすのでしょう? 忘れ物をしないように気をつけてくださいね」


 婚約式の前日、陛下と婚約する私に散々嫌味を言い、父や義母に婚約者を自分に変えろと泣き喚いていたミネルヴァがいやにしおらしい態度を取って訪ねてきた。


 あの時、ミネルヴァの策略に気付きさえすれば、私の人生は全く違うものになっていたのかもしれない。

 けれど、今のラシェル様と同じ年頃の私は、まさか妹が陛下に薬を盛るだなんて考えてもいなかった。

 婚約式の時間になっても現れない陛下に嫌な予感がした私に、慌てた様子の父がやって来て、私にこう言った。


「ジョアンナ、婚約式はなしだ。殿下とミネルヴァが結ばれた。こうなっては、お前を嫁がせるのは無理だ。王太子妃にはミネルヴァがなる」


 ミネルヴァは私からの贈り物だと言って、陛下に幻覚薬と睡眠薬入りのチョコレートを贈った。婚約式に現ず不信に思った側近と侍従に、陛下は寝室で発見された。ミネルヴァと共寝している姿で。


 陛下はミネルヴァの策略に怒り心頭で、ミネルヴァが妃になることを反対した。けれど、数代前から王家は徐々に力を弱めていた。それを支えているオルタ国3大公爵家こそが、影の王家とも揶揄される程に。中でも我が家は、3大公爵家の中でも絶対的権力のある家であり、その家長が陛下とミネルヴァの結婚を、と望んだ。

 先代の王はその申し出を受け入れ、陛下がいくら嫌がろうとも聞き入れることはなかった。


 何がどうなっているのか分からないまま実家に戻る私を待っていたのは、怪しく笑う義母だった。彼女は、用意周到に私を田舎貴族の後妻として追い出した。


 私の夫だと名乗ったバンクス伯爵は、父よりも年上の下品な笑みを浮かべた豚のような人だった。彼には既に5人の成人した子供がいて、亡くなった前妻は3人もいた。

 彼を前にして初めて理解した。私は義母とミネルヴァに謀られたことを。


 そして、私はすぐになぜ前妻たちが相次いで死んだのか身を持って知ることになった。


 実家でも義母に鞭打ちされることは度々あったが、そんな日々が軽く思えるほど、バンクス伯爵からの暴力は酷いものだった。

 ああいう人を加虐思考というのね。あざが治らないうちに、新しいあざが全身に作られる。食事も満足に与えられなくて、みるみる痩せ細った。


 でも、何より辛かったのはバンクス伯爵が時折持ってくる情報を聞かされたこと。


「陛下とミネルヴァ様の結婚式が執り行われた。既に彼女はご懐妊されているようだよ。とても幸せそうだった。彼らはもう君のことなど気にもしていないだろうな」


 この言葉がきっかけで、私は生きる意思さえ失ってしまった。


 ――あぁ、彼にも見捨てられてしまった。


 私を唯一愛してくれた人も、ミネルヴァを選んだ。そう考えたら、もう何もかもがどうでもよくなった。

 バンクス伯爵の暴力にも抵抗をやめた私に、バンクス伯爵は興味を失ったようだった。この屋敷に来てから何年が経ったのか、日付を確認するのもいつからか止めた。


 日当たりの悪い部屋、屋根裏部屋、そして最後には地下室と部屋を移された私は、徐々に減っていった数少ない食事も、遂には一切届けられなくなった。最早、指を動かす気力さえなかった。


 ――人間の死なんて、あっけないものね。このまま目を閉じれば、もう二度と光を見ることはないかもしれない。


 それでも、生きていくことに疲れていた私は、もうこれ以上苦しまなくてもいいことに安堵さえしていた。

 だがその時、視界もぼんやりとした中、急に地下室の外が騒がしくなった。


「……ナ……ジョ……ジョー!」


 目を開く気力もない私だったが、温かい腕に抱かれた気がした。この温もりの中で天国へと旅立って逝けたらどんなに幸せだろうか。そう考えていた私は、何の因果なのか、再び目を覚すことになった。

 シーツから石鹸のいい香りがする。これは夢の中なのかしら。それとも天国? そう思いながら目を覚ました私を、泣きそうな顔で顔を歪ませて、力一杯に抱きしめてくれたのは陛下だった。


「ジョアンナ……本当にすまなかった」


「……なぜ、あなたがここに? 私は死んだのでは? ……もしかして、まだ生きているのですか?」


「もちろんだ! 君がこんな目に合っているのだと知るのがもっと早ければ……。いや、そうではない。あんな女の策略に嵌った私が全て悪い」


 陛下は、私の記憶の陛下と違いキラキラとした目をしていなかった。ギロリと怖いほど鋭い目を真っ赤にし、年季の入った隈を隠そうともしていなかった。


「あの男……バンクス伯爵は殺した。許してくれと懇願しても、息絶えていようとも、何度剣で刺しても足りないぐらいだ」


「そっ、そんな! いくらあなたでも、貴族を殺したとなれば、ただではいられません」


「もちろん、事故に見せかけた。顔も体も原型を留めていないだろう。……私の愛するたった一人の女性に死よりも酷いことをしたんだ。……殺しても殺したりない」


 陛下の言葉に、ズキンと胸が苦しくなる。


「あなたはミネルヴァを選んだはずです。既に3人のお子もいると……」


「……君が私と結婚するのが嫌で逃げたのだと聞かされていた。何度も君の実家に君と会えるようにと頼んだ。だが、幸せに暮らしているからもう放っておいてくれ、と君からの手紙が」


 陛下はそう言って、何通もの手紙を差し出した。そのどれもが私の筆跡を真似していて、私の名で出された手紙だった。何度手紙を貰おうとも、陛下を愛する気持ちは消え失せた、もう連絡しないで欲しい。私には愛する夫がいる。

 手紙はどれもがそのような内容で、読んでいるだけで吐き気がした。


 陛下は私からの手紙でないことにホッとしたようだった。だが、同時にどうしようもない状況であったこともあるが、結果的に私を裏切るような形になってしまったことを何度も謝罪した。


 だが、陛下がそうしなければならなかったことも仕方がないと思う。ここ何代か、王家の威信は徐々に失われている。闇の魔力を持つ王族も少なくなり、闇の精霊と契約できる者も減っているからだ。

 それとは逆に、我が公爵家は着々と力を付けている。何ヶ月前か、先王が崩御されたとバンクス伯爵から伝え聞いた。


 その状況で、陛下が公爵家を敵に回すような真似などできるはずもなかった。


「ミネルヴァのことはもちろん愛していない。今後も愛するのは、君しかいない。……あの当時は、私に力がないばかりに公爵のいうままにミネルヴァを娶る以外なかった。だが、私がもっと力をつければ、ミネルヴァや公爵の意のままに動かなくて済む。そうすれば、ミネルヴァと離縁し、君を妃に迎入れられる」


「……本気ですか?」


「もちろんだ。……情けないことに、私は君を諦めることはできない」


「陛下……」


「……何年、何十年掛かろうと。私は力を付け、王家の威信を取り戻す。侯爵家からの指図など、一切聞かずとも恐れられる程の力を付けてやる」


 あの時の私は、この一言がきっかけで、全てを彼に差し出そうと決めた。私の人生も、何もかもを、私を求めてくれるたった一人に捧げようと。


 だから、彼の計画を聞き、それに従った。

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逆行した悪役令嬢は、なぜか魔力を失ったので深窓の令嬢になります6
― 新着の感想 ―
[一言] ジョアンナ夫人の過去、辛すぎる…。どんな展開になるのでしょう…。スパイだったという結論から想像すると、辛いんですが~…。
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