2-71
ファウスト殿下の事件がリカルド殿下から陛下に報告され、ファウスト殿下が謹慎処分を受けた。内々でしか伝わっていなかった情報が王宮に広まるまで、3日もかからなかった。
だが、噂というのはあっという間に尾鰭が付くもので、王宮内ではリカルド殿下が後継者になることは確実だと噂されていた。
それにより、ファウスト殿下を推していた貴族たちは、苦境に立たれ、リカルド殿下派に鞍替えする者が後を経たない状況だった。
「ここ数日、王宮内が静かになりましたね」
テオドール様と共に王宮内を歩いていると、つい先日までは各国の要人たちで溢れて賑やかだった王宮の廊下も催事が終わった今、ほとんどが既に帰国していた。
その為、まるで別の場所を歩いているように感じる。
「まぁ、ファウスト殿下のこともあってか、今は王宮内の立ち入りを制限しているようだからな。俺たちも流石にこれ以上はこの国に留まることは出来ないし、来週には帰国することになりそうだな」
「えぇ、随分と長く留まりましたものね。明後日にはルイ様の怪我が快方したと発表するのでしょう?」
「そうだな。ミネルヴァを泳がせるために帰国を伸ばしたようなものだ。こんなことになった今、流石のミネルヴァも悪事を働く元気も、力を貸してくれる相手もいないだろうな。それに、ファウスト殿下の件から飛び火してミネルヴァや彼女の実家の公爵家の悪事も噂されているらしいからな。リカルド殿下は、それらを全て明らかにする気らしい」
「そんな大事に?」
「あぁ、どうやら国王もこの件に関しては本気で動くらしいよ」
「そんなことになれば、ミネルヴァ様の立場はなくなるようなもの」
ミネルヴァ様の性格上、このまま大人しく引き下がるとも思えない。だが、オルタ国の後継者問題が落ち着くのであれば、それは同盟国として有難い話でもある。
「元々オルタ国王がミネルヴァ王妃と不仲だという噂は有名だし、このまま離宮に追いやられたり、離縁なんてことになってもおかしくはないかもな。まぁ、後のことはリカルド殿下たちに任せて、俺たちは自国の問題を片付けていく方が大事だ」
「確かにその通りですね。私たちは私たちの問題を優先しなければいけませんものね」
テオドール様の言葉に頷き、しばし沈黙の中で私は今後のことについて考えを巡らせた。
「……あら? テオドール様、何か声が聞こえません?」
その時、微かにだがどこからか声が聞こえてきた。何を言っているのかも、誰の声なのかも分からない。だけど、声を荒げているのか、女性の高い声が耳に届く。
「揉めてるっぽいな。……ちょっと気になる。ラシェル嬢、行くぞ」
目を細めて耳を澄ましたテオドール様は、声のする方へと足早に進んでいく。
「えっ、テオドール様! どこに……」
「ほら、早く早く。足音気をつけて、静かに」
立ち入りを許可されていない扉を何の躊躇もなく開けて、先に進むテオドール様に私は焦りと恐怖を感じながらも、そっと後から着いていく。
扉の先には廊下が続いており、狭い通路や曲がり角もテオドール様は迷いなく進む。すると、徐々に声がはっきりとしてきた。
そして、聞き覚えのある声にハッとする。
――この声って……バンクス夫人?
私とテオドール様は顔を見合わせると、一室の扉の前で立ち止まった。
「もう無理だと言っているでしょう!」
かつて聞いたことのないバンクス夫人の怒鳴り声に、驚きに肩が跳ねる。
「ジョアンナ、もう一度話し合おう。私だけは君を裏切らないと言っただろう。それは君も同じなはずだ」
バンクス夫人と話しているのは、男性の声だ。誰と話しているのか分からないが、随分と親しい間柄のように感じる。
「私はもうあなたの協力者ではいられないの。……今まで十分、情報は渡したでしょう。…あなたへの借りは返したはずだわ」
「そんなことを言っているのではない。ジョアンナ、君は思い違いをしている。貸し借りなどは一切関係ないんだ。私の気持ちを疑っているのか? 私が愛しているのは、今も昔も君しかいない」
「……もう私たちの関係は遠の昔に終わったはずよ」
「そんなことはない。離れていても、いつだって君を想っていると何度も伝えたはずだ。後でもう一度しっかりと話そう。……今夜、またいつもの場所で待っている」
「私は行かないわ」
「それでも待ってる。君が来るまでずっと」
扉を挟んだ向こうでの会話の展開に、驚きで声を上げてしまいそうになるのを口を押さえて何とか飲み込む。
だが、徐々に扉へと近づいてくる足音に、部屋を出る気なのだと理解する。
急いでここから離れなければと、焦れば焦るほど足が絡れ、滑らせてしまいそうになる。それでも間一髪のところで、私はテオドール様に抱えられるように支えてもらえたことで、転倒を回避できた。
それどころか混乱する私を廊下の曲がり角まで連れて来てくれ、なんとか扉から死角となる場所まで移動することができた。
私たちが移動した直後、扉が開き、そこから一人の男性が出ていく姿が見えた。去り行く背に、ヒラリと赤いマントが靡く。
「……あれは」
思わず漏れた声は私とテオドール様、どちらの声だったのか。予想外の人物の登場に、私たちは瞬きも忘れて固まった。
何故なら、その人物とは――オルタ国王その人に間違いなかったからだった。
「とりあえずルイに報告だ。ここから魔術で戻る」
テオドール様は私の耳元でそう囁くと、指で器用に魔法陣を描く。おそらくテオドール様が得意とする移動の術を使うのだろう。
それに頷いて一歩テオドール様へと近づこうと足を前へと進めた時、隣に置かれた鎧のオブジェの剣に、私の髪飾りがぶつかってしまった。
――こんな日に限って、銀細工で出来た髪飾りを付けてきてしまうなんて。
カツッと僅かだが金属の音がしてしまったことで、私とテオドール様は瞬時にまずいと顔を見合わせた。
「誰!」
案の定、まだ近くにいたバンクス夫人に気づかれてしまった。コツコツと近づいてくるヒールの音に、テオドール様は困ったように眉を下げて、
「仕方ない。ここはどうにかしよう」
と自らバンクス夫人の元へと足を進めた。私もそれに続いて先ほどまでいた扉の前へと進み出た。
「あっ……ご機嫌よう」
「ラシェル様……フリオン子爵まで」
私たちの姿を見たバンクス夫人は、驚愕に目を見開く。だが、すぐにサッと顔色を蒼くさせ、オルタ国王が去っていった方へと視線を向かわせた。
「あぁ……そういうこと」
呆然と呟くと、バンクス夫人はすぐに自分の置かれた状況を把握したように、ふうっと息を吐き、諦めたように微笑んだ。
「迂闊だったわ。人がいる場で、陛下と会うだなんて」
「あの……お二人のご関係は」
「私とオーレリア様が幼馴染なのはご存知でしょう? 陛下ともそう。幼馴染の関係よ」
「でも、それにしては……」
愛しているのは君だけ、という言葉を聞いたような気します。とは流石にこの状況で言えないので、目線を逸らせながら口籠る。
なんと尋ねようかと考えていると、テオドール様がふっと息を漏らして口角を上げた。
「幼馴染?」
表情は柔らかく作っているにも関わらず、その目はき糾弾するように厳しく睨みつけていた。
「俺たちが聞いた会話は、幼馴染のやり取りには聞こえませんでしたけど。それに、俺が知るところによると、国王とあなたは元婚約者だそうですね」
「えっ!」
確信を持った様子でキッパリと言い放ったテオドール様に、私は瞠目した。
――元婚約者? テオドール様はなぜそのような情報を?
バンクス夫人は額に手をながら、深くため息を吐いたが、すぐに否定をしないところを見ると、どうやらテオドール様の言葉は本当のことらしい。
「……そう。そこまで把握されていたのね」
「まぁ、この国に来てから長いので。それぐらいの情報は仕入れますよ」
「なるほど。最初から私は怪しまれていたのかしら」
その言葉に、バンクス夫人はどこか遠くを見るようにぼうっと顔を上げた。そして、次に前を向いた時、先程まであった迷いの目を一切無くし何かを覚悟したような強い目線でこちらを見た。
「……少し時間はあるかしら」
「もちろん」
眉をクイっと上げたテオドール様は、壁に背を預けながら腕を組んだ。