2-64
「ラシェル、どうかした?」
「え?」
「さっきから、1ページも進んでいないが、読書の気分ではなかったかな?」
オーレリア様とのお茶会から帰ってきて、私はルイ様の部屋で並んでソファーに座っていた。いつの間にか、夕日が窓から差し込み、私が手に持っていた本のページを薄橙色に染めていた。
本の文字を追っていたはずが、先程のオーレリア様の様子やアルベリク殿下の言葉を思い出して、ぼんやりとしてしまっていたようだった。
そんな私の様子に、ルイ様はクスッと微笑むと、私の頭を優しく撫ぜた。
「悩み事なら、教えて欲しい。君が何に悩んで、困っているか。……少しでも力になりたいんだ」
ルイ様は、読んでいた報告書をテーブルへと置くと、膝に置いた私の手を包み込むように手を添えた。じんわりとしたに温もりに、心まで温かくなるのを感じる。
「ルイ様……ありがとうございます。ルイ様のその優しさが、私にとって一番の力になります」
自然と口角が上がる私に、ルイ様は目を細めた。
「私よりも、ルイ様もずっと辛いですよね。室内に篭りっぱなしでは気が滅入ってしまいますよね」
「うーん、そうだな。部屋にいなければいけないことよりも、自分で動けないことの方が辛いな」
「そうですよね。自国ならまだしも、ここは他国ですし……。ルイ様は狙われて、命の危機もあったのですから」
ルイ様が血を流して運ばれてきた光景は、何度記憶から振り払おうとしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。今も鮮明にあの光景を思い出し、恐怖からギュッと自分の腕を抱くように掴む。
すると、そんな私の体を丸ごと抱きしめるように、ルイ様の大きな腕が背中に回った。
「ル、ルイ様……」
頬に熱が集まる私を他所に、「いや」と、ルイ様の吐息混じりの囁きが耳を掠めた。
「確かに、私が自分の力を過信し過ぎたせいで、ラシェルを怖がらせてしまったことは不甲斐ないと思っているよ」
「そんな」
「だけど、私にとって何よりも大事なのはラシェルなんだ。もし今、ラシェルに何かあったとして、すぐに気づいて助けに駆けつけられないかもしれない。私はそれが何より怖いよ」
頭を撫でられながら、私の顔を覗き込むルイ様と視線が合う。眉を下げながら微笑むルイ様に、胸がキュッと軋む。
ルイ様への想いが今にも溢れ出しそうなのに、胸がいっぱいで何も言えなくなる。それでも、ルイ様への愛しさが伝わるようにと、ルイ様の胸に頭を預ける。
すると、頭上から優しい笑みが漏れるのが聞こえていた。
――ルイ様、私も同じです。あなたがいない世界になど、もう戻ることなどできないのですから。
言葉にしなくても、きっとルイ様には伝わっている。不思議とそんな気がした。
窓から差し込む夕日が、室内をオレンジに染めている中、顔を上げる。目が合うと、ルイ様は嬉しそうに目を細めた。
「ルイ様の行動が制限されるのは、大変かと思いますが……ルイ様は普段からお忙しいのですから、少しは休むことも大事です」
「ははっ、耳が痛いな」
「顔色もいいですし、ゆっくりできているのであれば、私は安心です」
「シリルが来てくれたから大分楽させてもらっている。シリルには、また人使いが荒いと怒られそうだけどな」
冗談めかしていうと、ルイ様は楽しそうに笑った。
「シリルは、オルタ国に来てから随分と忙しそうにしていますが、何を頼んでいるのですか?」
私の問いに、ルイ様はテーブルに置かれた資料へと目線を落とし、眉を顰めた。
「……シリルには、オルタ国王妃ミネルヴァの様子を探ってもらっている」
「そうでしたか。ミネルヴァ様のご様子は?」
「相変わらずだ。私を襲ったのはミネルヴァの手の者だと極少数しか知らないことを良いことに、社交界に積極的に出ては、まるで被害者のように振る舞っているそうだよ」
「被害者? どういうことでしょう」
「祭典で近隣諸国から貴賓が沢山いる状況で事故が起きたことは、デュトワ国が精霊を怒らせたのではないか、などと噂を広めているらしい。オルタ国はとばっちりを受けたと嘆いているようだよ」
「な、なんという! 随分と穏やかではない話ですね」
――加害者のくせに、被害者面なんて!
同盟国の王太子に危険を与えた此度の事件をルイ様たちが内密にしなければ。あわや戦争の恐れまであったというのに。
国を混乱に陥らせる可能性よりも、自分の見栄を優先させようとするミネルヴァ様に沸々と怒りが沸いてくる。
「あと、これは極一部の者しか知らない情報になるが、第一王子ファウストとミネルヴァが口論になっているところを目撃したそうだ」
「口論? ですが、ファウスト殿下はミネルヴァ様のご実家の後ろ盾で王太子になることを目論んでいるのでしょう?」
オルタ国で一番話題となるのは、依然として決まる様子のない後継者問題だろう。元々は第一王子のファウスト殿下が最有力だったが、今は能力の高いリカルド殿下が追い上げてきたと専らの評判だ。
何より、同盟国の王太子であるルイ様自身がリカルド殿下を推すと決めた。そのことは、この2人の争いの勝敗を決める決定打になり得る。
となると、ファウスト殿下が頼れるのはミネルヴァ様だけだ。尚更、この2人が口論になる理由が分からない。
「どうやらミネルヴァが勝手に動いたことで、自分の立場が危うくなるのではないかと危惧しているそうだ。リカルド殿下の脅しが相当効いているようだな」
ルイ様の言葉に首を傾げる。
「リカルド殿下の脅しとは?」
「ミネルヴァが犯した短絡的な暴走が如何に拙いことだったのか、ファウストに怒りをぶつけたそうだ」
「リカルド殿下が? あまり想像できませんね」
リカルド殿下といえば、私に闇の魔術を教えてくれる師でもある。どんな時も冷静で穏やかなリカルド殿下が怒りを露わにするなんて。想像さえできない。
ルイ様も同感だったようで、神妙な顔で頷いた。
「それで、ミネルヴァ様のご様子は?」
「あぁ。シリルがいうには、ファウストとのいざこざで塞ぎ込んでいるらしい。ミネルヴァにとっての生き甲斐は、ファウストを次期王にすることだけだったのかもしれない。……だが、こうなってはミネルヴァを自由に泳がせていた意味がないな」
顎に手を当てて考え込むルイ様は、深いため息を吐いた。
「ミネルヴァが母上と繋がっている可能性を第一に考えていたが、今のところどちらも引き篭もってばかりで上手くいっていない。オルタ国王とも、入国時の挨拶時以外は接触の様子がない」
母親のことだというのに、ルイ様はミネルヴァ様の話題と同程度の重さしか感じさせない。あくまでも客観的な情報で物事を捉え、冷静さを失わずに、淡々と話すルイ様の表情をそっと伺う。
すると、それに気がついたルイ様が「どうした?」と私に声を掛けた。
「あの……。ルイ様、オーレリア様のことなのですが……。本当にオーレリア様はオルタ国の権力のために、ヒギンズ前侯爵と関係していたのでしょうか」
ルイ様は、私の問いに対して困ったように眉を下げて微笑んだ。
「……ラシェル、私は君の……死後の世界に行った。自分の目で実際に見てきたんだ。……全ての証拠を見つけ出すことは出来なかったが、それでも母上が関与していることは確実だ」
まるで幼子に言い聞かせるような優しい口調のルイ様に、私は首を横に振った。
「ですが、それはこの世界のオーレリア様ではありません」
私のその言葉を聞いた瞬間、ルイ様は驚いたように目を見開いた。と同時に、酷く冷めた目をしながら、ふうっと息を吐いた。
ガラッと変わったルイ様の表情に、ビクリと肩が跳ねる。けれど、ここで怯んでは自分の言いたいことも考えも伝わらない。だからこそ、私は顔を上げてルイ様の視線を真っ直ぐに受け止めた。
「この世界ともう一つの世界は、似たようで全く違うものだと思うのです。3年前からやり直した私も。もちろん、ルイ様も……あなたとあの世界の殿下は別の人物です。同様に、オーレリア様も」
「ラシェル……。あの世界で見てきたものは、そんな簡単なものではない」
「……そうでしょうか」
「君の死が関わっていることもあるが、それは一つの事件として、もっと大きな策謀が裏にあったのだろう。数年、いや数十年をかけて、デュトワはオルタに飲み込まれる準備がされてきたのだと考える方が自然だ。とするならば、同じ動きがこの世界で起きていると考えることができる。……何度もその話はしただろう」
「分かってます。……それは、分かっていますが」
ルイ様は尚も、言い聞かせるように私の肩に両手を置いた。
「ラシェル……私はもう、君がいない世界なんて、耐えられないんだ」
「ルイ様……。私も同じ気持ちです。ルイ様が懸念していることを全て明らかにして、危険の芽を摘もうとしていることにも、もちろん賛同します」
「ならば……」
「ただ、ルイ様には冷静な目でオーレリア様を見ていただきたいのです。この世界のオーレリア様自身を」
僅かに輝きを取り戻したルイ様の表情は、私の言葉にピシリと固まった。
「オーレリア様は……本当はルイ様のことを想っているように思います。もう一つの世界では、何かそうしなくはいけないような原因があったのではないでしょうか」
「ラシェルが母上と会って、何を吹き込まれたかは知らない。だが、私は十分冷静だ。ラシェル、君は私にない優しさを持っている。それは君の美徳だ」
肩に置かれたルイ様の両手が微かに震えたと感じたと同時に、その手は私の肩から離れていった。そして、ルイ様は何かを我慢するようにグッと拳を握りながら唇を噛み締めると、乾いた笑みを浮かべた。
その笑みは、どこか切なく触れれば壊れてしまいそうな儚さを含んでいて、私は息を呑んだ。
「……ルイ……さ、ま?」
「私は温かくて優しいラシェルの家族が大好きだ。マルセル侯爵も夫人も、君に沢山の愛情を注いで育ったのだろうことがよく分かる。君たちには、揺るがない信頼と思いやりがある。私にとって眩しい程だ」
「あ、ありがとうございます」
「……君の隣にいると、温かくて、まるで自分まで優しい人間になれたような錯覚さえある」
「錯覚などではありません! ルイ様はとても優しい方です」
何度、ルイ様の優しさに私は救われたか。そんなルイ様の優しさをルイ様自身であっても否定しないで欲しい。その願いを込めて否定した私の言葉に、ルイ様は何かに耐えるように顔を歪めた。
「それは私が優しい人間だからではない。君のことを愛しているから、君に優しくしたいからそうしているだけなんだ。……本来の私は、情を持ち合わせない残酷な人間なんだよ」
「そんな……」
「以前から何度か私の家族についてラシェルには伝えたと思うが、私は父親のことも母親のことも、愛情というものを一欠片も持っていない」
先程から一転して、冷え冷えとした表情を浮かべたルイ様にハッとする。
「……それどころか、もしかすると心のどこかで、憎んでさえいるかもしれない」
まるで何の感情もなく、事実のみを淡々と語るような声だった。自分のことを語っているはずなのに、どこか他人事。
だが、そんなルイ様の言葉は、むしろ心の叫びのように聞こえた。
両親への愛情がないと、憎悪があるかもしれないと、そう語らなければいけないほどの仄暗い想いをルイ様は一人で抱えてきた。
「君と話していると、如何に自分が欠陥品なのかが明らかになる。君と同じような人間になりたいのに、君に見合う人になりたいと願うのに……絶対に叶わない。いくら繕ったところで、私に家族の情など理解できもしないのだから」
「ルイ様……」
「子供の頃に何度も期待しては裏切られた。都合のいい時だけ擦り寄ってきて、母親面? ……反吐が出る」
ルイ様がここまで自分の心情を曝け出してくれている。本当は表面化したくも言いたくもなかった心情だと思う。
それを私が、ここまで言わせてしまったんだ……。
「君にはこんな私を見せたくなかったのにな」
私がここまでルイ様を追い詰めたというのに、それでもルイ様は私を気遣うように笑った。
――ルイ様、そんな方が優しくないだなんて、私はそうは思いません。
そう今すぐ言いたかったけど、私の口は糸で縫い付けたられたように、上手く言葉を発することができなかった。