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ネル様がクロを連れて去った後も、私とルイ様はその場に残った。
明日が来れば日常に戻ると分かっているからこそ、この場を離れ難かったのもあるのかもしれない。そんな私の気持ちにきっとルイ様も気づいているのだろう。ルイ様からもそろそろ部屋に戻ろうという提案はなかった。
私たちは星空を眺めながら、いつまでも話が尽きなかった。まるで、今まで離れていた時間を埋める様に。
「今も当たり前のように精霊の地にいるこの状況が信じられないのもあるかもしれないが……闇の精霊王に色々言いたいこともあったのに、何も言えなかったな」
「命を助けて下さったから、ということでしょうか?」
ルイ様は何の説明もなく、ある日突然違う世界で目覚めた。状況を判断する術さえなく、闇の精霊王の考えたゲームに参加しなければならなかった。
そのことに思うことも沢山あっただろうし、会った時には文句の一つでも言おうと考えていたのかもしれない。
「そうだね、闇の精霊王やラシェルには感謝してもしきれないほどだ。だから、それもあるかもしれない。それに、どこか好き勝手しても憎めない人柄もあるし」
「それは分かります。人懐っこい方なので時々忘れてしまいますが、精霊王としての力を目の当たりにすると、やはり到底太刀打ちできない凄さを実感します。ですが、最近は人に寄り添ってくれようとしてくれていたり、人の気持ちを知ろうとしてくださっているのだなぁと感じます」
ルイ様は私の言葉に、穏やかに微笑みながら頷いた。
「あぁ。今日は、精霊王としっかり話ができて本当に良かった。また一つ、視野が広がった気がするよ」
「それなら良かったです。ルイ様が助からないかもしれないと思った時、私は迷うことなくネル様に助けを求めました。そのことで、どれほどの苦労をルイ様が追うことになるかを知らずに」
あの時は無我夢中で藁にも縋る思いだった。それでも、ルイ様の経験してきたこと、ルイ様の心情を思うと何が最善だったのか分からない。
もしあの時、自分にもっと闇の魔術を使える力があれば違ったのかもしれないと何度も反省した。だからこそ、リカルド殿下に教わったことはもちろん、精霊の地に来てからはネル様から闇の魔術を教わった。結果、今では動物を治癒するほどの魔術コントロールをできるようになったとは思う。
それでも、過去は変わらない。あの時の私は無力で成す術なかったのだから。
「それでも、やはり……私はルイ様の命が助かることを優先してしまうと思います」
「いや、気にすることはないよ。それに、ラシェルがそれを選択してくれなければ、私は今どうなっていたか分からない。それに、もし同じ立場だったなら私も同じことをする」
テーブルに置いた私の手を、ルイ様の大きな手が包み込む。
顔を上げると、真剣な表情のルイ様が私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「もちろん戸惑うことも多かったし、気が狂うような日々だった。もう一人の自分には当たり散らしてしまったし、闇の精霊王にも言いたいことが沢山あった」
ルイ様は視線を上げると、遠く煌めく星空を眩しそうに見つめた。空気の澄んだこの地では、王都で眺める星空よりも、もっと沢山の煌めきが空を埋め尽くす。
「だけどさ、何て言うんだろう。元の体に戻って目が覚めたら、どうでも良くなった……とでも言うのかな」
「どうでも良い、ですか?」
きょとんとした私に、ルイ様は肩を竦めた。
「あぁ。ラシェルの顔を見たら、向こうの世界での悩みとか恐怖とか苛立ちとか、全てが小さく感じてしまったんだ」
その言葉に、私は息を飲む。心臓がギュっと掴まれたような、切なさを感じる。
なぜなら、その言葉、視線、表情どれもがいかにルイ様が私のことを想ってくれているのかを全身で伝えてくれているようだったから。
「こうやって触れることが出来る距離にラシェルがいて、想いが通じ合うことができる。それは当り前じゃないんだよな」
ポツリと呟いたルイ様の言葉は、いつもと違って弱々しさを含んでいた。
「ラシェルを守るのは自分だけだと思っていた。その為には、自分の頭脳、立場、行動力全てを使えば不可能なことなど無いと思っていたんだ。……命がなければ、そんなこと無意味なのにな」
後悔も反省も全ては、命あってこそ。生きているから、今がある。
寝ている間に夢を見て、朝起きて日を浴びる。ベッドでのんびりとしたり、誰かと会話をしたり、好きな人を思い浮かべて頬が緩む。
私にとってそんな当たり前の日常は、何も特別なこともなく日々同じように繰り返される。それが当たり前だと疑いようもなく。
その日常がいかにかけがえのないもので、一瞬目を離した隙に失ってしまうかもしれない脆いものだなんて考えもしない。
――私が一度、死んでいなければ。私がルイ様を失うかもしれない事実を目の当たりにしなければ。
「ラシェル、怖い想いをさせてごめん。自分だけがどうにかしようと突っ走った結果、私はこの幸せ全てを失うかもしれなかった」
「ルイ様……」
「あの世界は少しずつこの世界とは何かが違った。少しの意識の差、少しのタイミングの差、それがこうまで変えてしまうのかと恐ろしくなったよ。もしかすると、同じ過ちを私は犯すところだったんだ」
私の手を包むルイ様の手は変わらず温かい。だが、ルイ様の声は僅かに震えていた。顔を強張らせて、沈んだ表情をしていた。
「失うことって……こんなにも怖いんだな。知らなかったよ」
眉を下げて切なげに微笑むルイ様は、笑みを浮かべながらも心が泣いているように見えた。
ルイ様が一人で隠れて泣く子供のように見えた私は、思わず席を立ちルイ様の後ろへと回り込む。そして、背中から両腕を回してギュッと抱き締めた。
「……ラシェルは常にこんな恐怖を感じていたんだろうな」
「ルイ様……」
ルイ様の胸元に降ろされた手を、ルイ様は優しく握った。
「私が一度命を失った時は、心の準備も出来ぬまま、あっという間のことでした。きっと残された両親の方がさぞ心を痛めたでしょう」
もちろんあの時の恐怖も痛みも忘れることはない。だけど、ルイ様の命の灯が消えようとする姿をただ黙って見る他なかった無力感と、気持ちの面ではどこか違う。
「……ですが、今回は違います。自分の命を失う恐怖とは全くの別物でした。愛する人を失った世界に生きることを考えると、怖くて怖くて仕方がありませんでした。まるで目の前が真っ暗になるようで、あったはずの光が手の隙間から零れ落ちてしまうようで」
「うん、よく分かる」
ルイ様は私の言葉にひとつ頷くと、こちらを振り返った。ルイ様の後ろで立つ私を見上げるルイ様の瞳は、何かを決意したように強い意志があった。
そして、私の手を握ったルイ様の手に僅かに力が籠った。
「約束する。私は君を残して死んだりはしない」
その言葉に、私は時が止まった様な気がした。
どちらが先に死ぬかなんて、きっと未来を知ることが出来る光の精霊王しか分からない。だから、私もルイ様もこの先の未来は何も分からない。
だけど、もしかすると、ルイ様のその言葉は私にとって一番欲しかった言葉なのかもしれない。
「だから、ラシェルもどうか長生きしてくれ。愛する人と一緒にいる幸せを知ってしまった私に、君なしの人生など考えられないんだ」
死ぬことが怖い。失うことが怖い。そんな弱虫な私に、生きる意味を与えてくれる。
そんなルイ様の優しさや想いに、私の胸はいっぱいになり、目頭が熱くなる。
「きっと生きていれば良いようにも悪いようにも変化する。だけどもし、どちらかが先に死んだとしても、私の想いは変わらない。君を一生涯愛して守りたいと願った男がいる。その想いは不変だ」
ルイ様からの深い深い愛情を実感するたびに思う。私は同じように、気持ちを言葉にして返せているだろうか。私ばかりがルイ様に与えられてばかりな気がする。
生きていて良かった。この人と出会えて良かった。
その気持ちでいっぱいになる。
だから、私の気持ちがルイ様に少しでも沢山伝わりますように、と願いを込めてルイ様の肩に顔を埋めて抱き着いた腕に力を込める。
潤んだ瞳から零れた涙が、ルイ様の肩口を濡らす。
すると、ルイ様がフッと息を漏らした。顔を見ずとも、ルイ様が優しく目を細めながら微笑んでいるのが見えるようだ。
「こんな重い気持ちを押し付けてしまってごめん。だけど、愛してる」
「私も……私も、あなたを愛しています」
これ以上口を開けば、涙が溢れだしそうだ。でも、きっとルイ様ならばそんな私を見て、穏やかに微笑んでくれるのだろう。
それが正解だと分かったのは、ルイ様の手により、私の顔が上げられた時だった。
至近距離で見つめ合う視線から、熱を感じる。
私の視界には、キラキラと輝く夜空いっぱいの星空が霞むほど、吸い込まれそうになるルイ様の瞳だった。
ゆっくりと近づくルイ様の顔に、私はそっと瞼を閉じる。
星空の下で私の唇に触れたのは、ルイ様の優しい温もりだった。